薄暗い部屋の中に浮びあがる青白い光。
小さなデスクライトの光は、広い部屋の全てを照らすにはあまりにも頼りなく。それでも、少年の手元を照らすには十分過ぎた。
個人が使用するには広すぎるマホガニーのデスク。デスクの横には皮張りの椅子がもう何日も使われないまま、所在なげに大きすぎるその身を置いている。
主不在の部屋。
綺麗過ぎるほど片付いたデスクの上には、コードレスフォンとデスクライト、持ち主がここ数年愛用し始めた老眼鏡が一つ。
そして、少年の手に一冊のアルバム。
厚紙のケースに入った白いアルバム。少年が幼い頃より両親によって作られた、彼と家族の記録。
だがその記録が記されなくなってから、一体幾つの月日が流れたのだろうか。そして、今その中にある物は…。
『お前の事は、警察の知り合いに頼んでおいた。もう大丈夫だろう』
―― だいじょうぶって、なにが?
『よりにもよって麻薬所持の疑いだと?…全く、いい迷惑だ』
―― めいわくって、だれが?
『お前も変な奴等と付合うんじゃない。大事な将来に傷が付く真似はするんじゃないぞ』
―― しょうらいのきずって、だれのきず?
『お前は勉強を続けていればいいんだ』
―べんきょうって、なんのための?
『お前の将来は私に任せておけばいいんだ』
―― おれのしょうらい…って、なに?
『お前の為だ』
―― おれの、ため?
少年の口元に笑顔が浮ぶ。歪んだ、笑顔。
―― 違うでしょ?「おれ」じゃなくて「あんた」の為だ。
―― 大丈夫なのは「あんた」の保身。
―― 迷惑なのは「あんた」自身。
―― 心配なのは「あんた」の将来。
―― 大切なのは…「おれ」じゃない。いつだって「あんた」自身。
―― 「あんた」が「おれ」を見る事なんて、無い。
少年の手が、アルバムのケースを外す。表れた白い表紙。
蛍光灯に照らされ、青白く染まった手が表紙を捲る。
そこには、何も無かった。
台紙を外された表紙だけのアルバム。刻まれていた家族の記録は全て捨てられ、代わりに隙間を埋めていたのは。
白い、粉。
蛍光灯に照らし出され、白く浮き上がる悪魔の薬。
幾つかのビニール袋に小分けされたそれを、少年の青白い手が掬い上げる。
少年が手を広げる。指の隙間からこぼれていく白い粉。
歪められた唇から笑い声が漏れる。
―― 「あんた」が「おれ」を見る事なんて、無い。
―― 「あんた」はなにも、気が付かない。
薄暗い部屋の中に、少年の笑い声だけが響く。
それは、何故か泣いている様にも聞こえて…。
パートナー 〜共に歩む者達〜
第三章 沈思の『少年』
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室井と藤咲の二人が一方的な通達を行ったその後、刑事課は支配していたのは遣り切れない思いと虚しさだった。それでも日常的な小さな諍いは後を絶たず、湾岸署の刑事達はそれぞれの心にそれぞれの思いを残したまま1日の仕事をただ、黙々とこなして行った。
そして定時を過ぎた頃。
「ね!皆で美味しい物でも食べにいこ!」
だらけた雰囲気を一掃する様に、すみれが課内に残っていた者に声をかける。
「良いですねぇ、行きましょう!雪乃さんもね?」
真っ先に賛成したのは、真下だった。
「はい!皆で一緒に行きましょ!」
真下に誘われた雪乃も迷う事無く返事を返す。彼女もすみれと同様、今日のはけ口を探していたのだろう。
「えーと、中西係長と魚住さんは当直…っと。武君は残業。課長は…帰宅済み。…あれ?和久さんも、もう帰ったの?」
すみれの言葉に辺りを見まわしてみると、たしかに和久の姿は無かった。
「んじゃ、4人で行きましょうか!…青島君、行こう!」
「俺、いいよ。今日は遠慮しとく」
「え?」
デスクに向かったままで、こちらの方を見ようともせずに青島が答える。
「なんでですか?」
「一緒に行きましょう」
帰り支度を終えた真下と雪乃も一緒に誘うが、気乗りのしない返事が返ってくるだけ。
「仕事もう終ったんでしょ?だったら…」
すみれの見る限り、青島の机の上には急を要するような書類は何も無い。
「…食欲無いんだよねー。だから…」
「食べなきゃダメっ!」
頬杖をついたまま、ぼんやりと答えた青島の顔を両手で挟んで、無理矢理自分のほうに向けるすみれ。力任せに回した首が、ちょっと痛そうな音を立てたがそんなことは気にしない。それより…。
「す、すみれさんっ?!」
「食べなきゃダメ。食べなきゃ気力も体力も無くなっちゃう。気力を無くした青島君なんて、青島君じゃない」
「…すみれ、さん?」
両手で顔を挟んだまま、まっすぐに青島の目を覗き込んでくる強い瞳。頬を挟む手は、暖かかった。
「きちんと食べて、きちんと寝る!これ、人間が生きていく一番の基本。基本が出来たら、今度はそれを楽しむの。美味しい物を素直に美味しいと感じて、良い夢を見る!そうすると、ほんの少しだけど心に余裕が生まれるから。難しい事を考えるのはそれからよ。…今のまま何の余裕も無い頭でいろいろ考えたって、良い答えはでやしないわ。そうでしょ?青島君」
「…う、うん」
同意を求めてくるすみれの勢いに押され、思わず子供の様にこくこくと頷く。
「よし!」
頷いた青島に、にっこりと微笑み、顔を挟み込んでいた両手で頬を摘み上げる。笑顔の形に。
「い、いひゃいよ、ひゅみれしゃん」
抗議を上げる青島のを満足げに見たあと、ぱちんと軽い音をたてて頬から離されるすみれの両手。
「解かったんだったら行きましょ。今日は真下君の奢りだって!」
「え、ええええ?!ぼ、僕そんなこと一言も…」
「ホントですか真下さん!」
「ゆ、雪乃さんまでぇ…」
「御馳走様!真下係長殿!」
「ああ、もう!こんな時だけ係長扱いするんだから」
いつもの湾岸署のいつもの風景。気取らない仲間達の飾らないやり取りが、暖かかった。
「青島君、笑ってないで早く行こう!ぐずぐずしてると、置いてくわよ!」
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
鞄とコートを手に取り、慌てて駆け出す。ガラスの向こうに4人の賑やかな声が軽やかに響いた。
「行きましたか」
「行きましたね」
代わって穏やかな静けさを取り戻した刑事課内。本日の当直中年刑事が二人、デスクに並んで揃ってお茶をすすっている。
「若いって良いですね、魚住さん」
「若いって素晴らしいですよ、中西さん」
まるで縁側に座っている御隠居のような二人。
「まぁ、これで青島君も元気になってくれるでしょうね、魚住さん」
「まぁ、あんまり元気になりすぎても困るんですけどね、中西さん」
ずずずっと、二人揃って茶を啜る。
「…明日は、笑っていると良いですね。青島さん」
御隠居二人の会話に残業で置いてきぼりを食らった武も加わってくる。
「そうだね、笑ってると良いね。青島君」
なんだかんだと言って、結局皆、青島の事を心配しているのだ。
だから、今日1日笑わない青島を見ているのはとても辛かった。
「そうだよね。笑ってる方が絶対いいよ。…青島君は」
そう言って3人揃って茶を啜る。
御隠居がもう一人、増えた。
夜の街に繰り出した4人は、すみれのお薦めの店へとまっすぐに足を運んだ。
「えっと…。あ、あったあった!ここですよね、すみれさん」
先頭をいく雪乃が指差した先に、貸しビルの1階に入った小さなレストランがあった。
「え、える…きゃみの…?」
「『エル・カミーノ・レアル』よ。真下君」
「スペイン語ですよね。…と言う事は、ここはスペイン料理のお店なんですね、すみれさん!」
「そう!ここのパエリャと、にんにくのスープが最高なのよっ!!」
「にんにくって、なんか凄くスタミナつきそうだなぁ…」
「一番スタミナ付けなきゃいけない人が何尻込みしてんのよ。さぁ、入った入った!」
瀟洒な作りのドアを開け、扉の前で立ち止まった青島の背を押す。
「もう、そんなに押さないでって」
カラン、と取り付けられたカウベルのやわらかな音を響かせながらドアが閉まる。
そう広くない店内は食事時という事もあり、かなり混雑していた。
「あらら、いっぱいですね。どうします?」
「う〜ん、予約入れとけば良かったかな」
「別の店にしましょうか?…先輩はどうします?…先輩?」
店内を見渡していた真下が、同じように店内を見ている青島に声を掛ける。が、彼は真下の声など聞こえていないかのように、ある一点を凝視していた。
「青島君?…どうし……あ!!」
二人の様子に気付いたすみれが、青島の視線の先を見て声を上げた。
「…むろいさん?…なんで?」
店の奥、淡いブルーのテーブルクロスの掛かったテーブルに座っているのは、紛れも無く室井の後姿だった。そしてもう一人。
「…あの女の人って、…まさか噂の見合い相手じゃ…」
真下の掠れた声が、頭の何処かで響いていた。
仕事帰りなのか、シンプルなアイボリーホワイトのスーツを着た女性。短めの髪に薄化粧。
いつか見た、赤い傘の下の、女性。
「…最悪」
苦々しく呟いたすみれの声が届いたのかどうか、室井と同席している女性がこちらを見る。
絡まる二人の視線。
ふと、女性がにっこりと微笑んで、挨拶をする。
青島は、彼女から目を離すことが出来なかった。
と、彼女が誰に対して挨拶したのか気になったのか、青島に背中を向けていた室井が振り返る。
その目が驚愕に見開かれた。
「青島?!」
がたんと、大きな音を立てて椅子が倒れる。その音が青島の金縛りをといた。
「ご、ごめん。俺やっぱり帰るよ」
そう言って、店の外に駆け出して行く。
すみれの制止の声が聞こえたような気がした。
しかし、その足は止まらない。
もうここには居たくなかった。一刻も早く立ち去りたかった。
息が切れるまで走りつづける。心臓が、肺が悲鳴を上げる。それでも足は止まらない。
―― むろいさん、むろいさん、むろいさんっ…!
何度も心の中で叫び続けて。
「…っ!!」
めくれたアスファルトに足を取られる。
勢いのついた体は簡単に止まってくれず、もつれた足は体を支えきれずに、目の前の街路樹にぶつかる様に倒れこむ。とっさに突いた掌に、ささくれた樹皮が傷を付けた。
その手をきつく握り締める。
「……なんでだよ」
その問いは誰に向けられたものなんだろう?
室井か、彼女か。それとも逃げ出した自分か。
わからないまま街路樹にもたれ掛かれ、空を見上げる。
月は、見えなかった。
一体どれくらいそうしていたのだろうか。樹に背中を預けたまま、ぼんやりとしていた青島の視界の端に見知った姿が写った。
「…逢坂、君?!」
間違いなかった。彼だった。薄手のセーターにジーンズという目立たない私服姿で歩いて行くのは確に逢坂健司の姿だった。
「逢坂君っ!」
青島の声に少年の足が止まる。
「……刑事さん?」
「…何しているんだ?」
「何って、塾の帰りですよ。…刑事さんこそ何をしているんですか?」
「なにって…」
何もしてませんでした、とも答えられず困って頭を掻く。そんな青島を見た少年の顔に薄笑いが浮ぶ。いつか見た酷薄な笑み。
「…どうせ、何もしてないんでしょ?僕の父親の命令で」
「…!」
「あんたたちはいつもそうだ。正義だ犯罪だって騒ぐ割に、偉い奴にちょっと言われただけで、あっさりそれを捨てちゃうんだよな」
「…なんだと?」
眼鏡の奥の暗い影。彼は何を言おうとしているのか。
「いつもいつも偉い奴の顔色ばかり覗って、言いなりになって。…悪い事をした奴が犯罪者なら、そうやって犯罪を見逃したあんたたちも犯罪者だよな」
薄笑いを浮かべる少年に青島の頭に血が上る。
「…っ!」
次の瞬間、青島は彼のセーターの襟をつかみ上げていた。
「殴るの?」
振り上げた手が止まる。
「殴れば良いんだ…。あんたが本当に正しいと思っているんだったら、逮捕でもなんでもすればいいんだっ!!」
「…逢坂?」
吐き捨てるような言葉。それは何故か青島の耳には少年の悲鳴に聞こえた。
逢坂を捕らえていた青島の手から力が抜ける。
「…どうせ、出来やしないけどね。…『正義』なんて、そんなもの存在しないんだよ」
呟かれた言葉。
貼りついた酷薄な笑顔。
眼鏡の奥の黒い影。
その更に奥の…。
「…『正義』はあるよ」
「…え?」
少年の顔から、笑顔が消えた。
「俺が、それを証明してやる。…誰がなんと言おうと俺が、お前を逮捕してやる」
「……」
少年の瞳が揺れる。青島は少年の素顔を垣間見たような気がした。
「絶対に、逮捕して見せる!」
「…期待しないで待ってるよ。刑事さん」
逢坂はそう呟くと、振り向きもせずに去っていった。
そして青島も歩き始める。
ある場所に向かって。
闇に閉ざされたグレイの瞳
隠した心の真実
報いなき愛 それでいいの
(岩井祐穂作詞:「炎と雨」より)
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ありゃりゃ。またしても続いたか。
実は、この続きの書いているんですが、ちょっと長くなりましたので切りました。
と言うことで、続きはまた次回。
次回は奴も出てきまーす。誰でしょう?
漢字で書くと「土竜」さん(^_^;)
…ばればれやんけ。
それにしても何処まで続くこのシリーズ!!またしても室井さんの出番が少ない無いぞ!!
という事で以下次号!!!