薄暗い部屋の中に浮びあがる橙色の柔らかな灯り。
長い歴史を積め込んだ静寂の部屋の中で、歴史を紐解く小さな音が聞える。
淡々と、一切の感情を交える事無く綴られた記録。
延々と並ぶ書棚に収められた膨大な記録達の中に於いて、男が見詰めるそれは、あまりにも薄く頼りないものだった。
「……」
ページを捲る男の手が止まる。
開かれたページにあったのは一枚の男の写真。
五年前、この世を去った男の写真。
死因は、自殺。
男の死を調べたのは自分。
男の死を決めたのも、自分。
そして男は犯罪者となった。
薄い調書を閉じて目を閉じる。
周りの景色を遮断した瞳に映るのは、五年前の記憶。
『あの人は自殺なんかする人じゃない!』
泣きながら叫んでいた女性。
儚げだった彼女は、彼の死後、まるで彼の後を追うように小さな病院でひっそりと息を引取った。――彼の命を継ぐ筈だった、もう一つの命と共に。
彼女の葬式で出会った少年は、何も言わず、ただ真っ直ぐな瞳で自分を見詰めていた。
五年を経過しても、色褪せる事無く蘇る記憶。
調書の上に置かれた両手を組み、額を乗せる。
懺悔にも似たその姿勢。
湧き上がる疲労感。
消えない罪悪感。
歪められ、封印された真実。
もしもあの時…。と、過去を何度振り返ったところで、歪められた事実が元に戻るわけもなく。
後悔と、己に対する憤りだけが募っていくだけだった。
「ここに居たんですね。随分探しましたよ」
掛けられた声に顔を上げると、其処に居たのは、どこか恍けた感の一人の男。
男は、小さなデスクに置かれた調書の表紙に目を止めると、黙ってそれを元の棚へと片付けた。
「青島君が、六本木の『もぐら』と接触したそうです」
「……」
「彼は、何を何処まで知ったんでしょうね?」
男は応えない。
再び沈黙が部屋を支配する。
沈黙を破ったのは、恍けた風貌の男のほうだった。
「ところで、今夜のデートはいかがでしたか?」
およそ、この場には相応しくない口調と質問。
だが、質問を受けた男の顔には、戸惑の色は無かった。
無言のまま、スーツの内ポケットから一枚のディスクを取り出し男に渡す。
「この一週間の奴の行動と、接触した人物の一覧だ。それから、主だった資金の流れが記録されている」
「…ほう?他には何か言ってましたか?」
「いや。慎重な男で、なかなか尻尾を掴ませないらしい」
「そうでしょうねぇ。流石は腐ってる政治家。己の保身は完璧ですか」
「……『腐っても』の間違いじゃないのか?」
「え?でもこっちのほうが、腐りきったあの方にはピッタリだと思いませんか?」
「…確かにな」
穏やかな笑顔を浮かべながら、辛辣な事を言う目の前の男に苦笑する。
「外堀は大分埋まったようですね」
「あとは、何か決定的な証拠がつかめれば良いんだが…」
「中途半端な証拠は、反ってこちらの身が危ないですからね。何しろ相手は、各方面に色々な人脈をお持ちになっている政治家殿ですから」
恍けた口調で笑いながら言う。
だがその瞳は、全く笑ってはいなかった。
「彼女も、もう少し頑張ってみるといっていたよ」
「そうですか。でも無理は禁物ですけどね。無茶をして危ない目にあっては元も子もない」
「彼女にはそう言っておいた。絶対に危険なまねはするな、と」
「でも、素直に聞きますかねぇ?彼女も誰かさんに似て、無茶で無謀で無鉄砲なところがありますから」
男の言葉に苦笑する。
一見、清楚で大人しそうな彼女だが、その中身は正反対。
強く輝く瞳と、快活な笑顔。
言い出したら聞かない頑固な正確まで、『誰かさん』にそっくりだった。
ふと、彼女の笑顔に重なって思い出した彼の顔。
振り向いた先に見えた、今にも泣き出しそうな…顔。
走り去る彼を、追うことが出来なかった。
「彼には本当の事を話したほうが良かったんじゃないですか?」
自分の心を見透かしたような問いに驚いて顔を上げると、労わるような視線で見詰める男がいる。
その視線と浮かんだ思いを振り払うように頭を振り、静かに応える。
「言えば、黙ったままで居られる男じゃないからな。必ず無茶をして、危険な目にあわせてしまう」
「確かにそうですけど…。でも、今の状況じゃ言っても言わなくても大して変わりませんよ?」
「それでも、あいつを…あいつだけは巻き込みたく無いと思っている」
「愛しているからですか?」
「……!」
弾かれたように見たその顔には、揶揄いや、嘲笑の色は一切無く。
だから、自分の口から伝える言葉にも一切の嘘は無い。
「そうだ。誰よりも大切な存在だからな」
男は応えない。ただその顔には、満足そうな笑顔が浮かんでいた。
男が立ち去った部屋で。
「…青島」
彼が呟いた声は。
彼のもとへと…届かない。
パートナー 〜共に歩む者達〜
第五章 忘れられた『記録』
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やたらと年季の入ったビルの、これまた年季が入ったエレベーターのボタンを押す。
大きな振動の後、異音を響かせながら上昇するエレベーター。
階数の割に、かなり時間をかけて昇ったエレベーターは、自分を扱き使った人間に文句を言うかのように、一際大きな振動を立てて止まった。
軋むドアを開けて目的の部屋に行く。
使い込まれて半分壊れたドアノブを回して部屋に入る。
そこは既に深夜を過ぎているにもかかわらず喧騒に包まれていた。
「こんばんはー」
「おー、青ちゃんじゃないの」
ドアを開け、挨拶をした青島に、一人の男が返事を返した。
何日も着っ放しのよれよれのシャツに無精髭。
睡眠不足なのか、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。
「はーい、中村ちゃん元気だった?」
「うんにゃ、ちっとも元気じゃないよ」
「あらら。ホント草臥れてるねぇ」
「ほっとけ」
中村と呼ばれた男は、不貞腐れた様子で使っていたノートパソコンを閉じた。
「あれ、原稿書かなくていいの?」
「ああ、明日の朝刊の原稿はもう上がってるからな。これは今追っかけている目黒の事件の分」
「相変わらず忙しそうじゃない」
「事件記者に休日なし!事件が起これば二十四時間いつでもどこでも…って、それは刑事の青ちゃんも一緒でしょ」
「まあね。でも、たまにはちゃんと家に帰ってあげなきゃ。どうせまた暫く帰ってないんでしょ。あんまりほったらかしだと、綾音さんが泣いちゃうよ?」
「カミさんなら、今娘と一緒に実家に帰ってる」
「え!?とうとう別れちゃったの」
「違う違う。もうすぐ二人目が出来るんだよ」
そう言って、自分の腹を抱え込むような振りをする。
「あ、なーんだ、そうだったんだ。取り合えず、おめでとうだね」
「取り合えずってなんだよ!…ま、別に良いけどさ。それはともかくとして。今日はまた急に如何したの?湾岸署で何か事件でも起きたわけ?」
青島の様子に、記者としてのカンが働いたのか、中村の顔がにやけた父親から記者の顔へと変わる。
「ちょっとね。それより中村ちゃんに聞きたいことがあるんだけど…」
「聞きたいこと?そりゃ俺が知っていることで力になれることがあるなら教えてあげるけどさ」
「ホント!?」
「でもタダって訳にはいかないよな」
「うっ!」
にやりと笑った中村に怯む青島。
「取材させて♪」
「取材させてって言われても、俺だってまだ何も掴んでないし…」
「今の事件じゃなくて、去年の事件だよ」
「去年って…まさか」
「そう!副総監誘拐事件!!」
はっきりとそう言った中村に、眩暈を感じる。
「なに考えてんだよ!今更去年の事件を取材して如何すんの。第一、事件のネタは寿司のネタと同じで、新鮮じゃなきゃ価値が無いって言ってたの中村ちゃんじゃない」
「チーズやワインみたいに、じっくり寝かせて熟成させてこそ価値がでるネタだってあるんだよ。俺はあの大事件を様々な角度からじっくり取材して、何年かかってもいいから本として出版すことに決めてるんだ」
「だからって…!」
「嫌なら別に良いんだぜ?俺は別に困らないし」
ああ言えばこう言い、しかもあの事件のことを本にするという中村に頭を抱えてしまう。
だが、上層部によって封印された事件の事を、警察のデーターベースで調べるのはあまりにも危険すぎる。いずれにせよ青島に選択肢は無かった。
「……わかった。そのうち時間を見つけて取材させるから」
「よっしゃ!うーん、やっぱり青ちゃんは話が判るねぇ。…で、俺に聞きたいことって何?」
にこにこと、調子の良い笑顔を浮かべる中村を見ながら、今夜最大の疲労感を感じつつ。
青島は、五年前の事件について話し始めた。
「ああ、その事件なら知ってるよ。本店支店挙げての大捜査だったし、俺も一緒に追いかけてたから」
「ホント!?」
「ああ、ちょっと待ってな」
中村はそういうと、先程片付けたノートパソコンを再び立ち上げた。
そして青島が見ている目の前で、新聞社のデーターベースへアクセスし、目的の記事を探し出す。
「えーっと、あったあった。青ちゃんが言ってたのってこれだよね」
中村が示す先に写し出された写真と記事。
それは確かに青島が探していたものだった。
「名前は八幡昭彦。一九六七年十月生まれ。東京大学法学部卒業後、逢坂氏の下で働き始め、数年後には逢坂氏に能力を買われ筆頭秘書になってる。人当たりが良くて、真面目で誠実な人物だったって言う話だ」
「死因は…?」
「警察の発表では、自殺。アルコールを大量に摂取した上で、港の埠頭から乗用車で海に突っ込んだ」
中村の手が、自動車に見立てた消しゴムをデスクの上で滑らす。勢いのついた消しゴムは、デスクの端まで来ても止まる事無く、そのまま下へと滑り落ちた。
「ブレーキをかけた後も無く、後で本人が書いたと思われる遺書が見つかったことから、自殺と断定されてらしいが…」
「……?」
中村はそこで一度言葉を切り、隣で一緒にパソコンを覗き込んでいる青島の顔を見ると、耳元に小声で囁いた。
「俺は今でも自殺じゃなくて他殺だと思ってるよ」
「……!?」
自分の言葉に驚く青島を一瞥すると、立ち上がり添え付けのコーヒーメーカーからコーヒーを入れて戻ってきた。
「不味いけど、飲む?」
「あ…ありがと」
青島にコーヒーを渡すと、再び席に着きパソコンを操作する。場面が変わった先には一人の女性の写真があった。
「このひとは…?」
「八幡の婚約者だった女性だ。八幡の死後…病死した」
「死んだ?」
「ああ、元々身体の弱い人だったらしいが、事件の犯人の婚約者だったということで、周りから色々言われたんだろうな。心労が重なって…事件の数ヶ月後に流産が元で、死んだんだ」
「流産って…じゃあ」
中村は、一つ頷くと手の中のコーヒーを一気に飲み干した。
眉間にくっきりと刻まれた皺は、コーヒーの苦さのせいだけではないだろう。
「結婚を三ヵ月後に控え、しかもお腹には自分の子供がいるって言う男が、そう簡単に自殺なんてすると思うか?」
「……それは」
「俺なら、しない。生まれてくる子供の為にも死んだりできねぇよ。…それにな」
「?」
「アルコールに弱くて、少し飲んだだけで蕁麻疹が出るような奴が、前後不覚になるまで飲んだりすると思うか?」
中村の地を這うような低い声が、青島の耳を打つ。
「間違いない。…八幡は逢坂の身代わりとして殺されたんだ」
部屋を包む喧騒も青島の耳には届かない。
その目はただ一点、パソコンのモニター画面に釘点けになっていた。
「その後、結局捜査は打ち切り。八幡に全部を押し付けた形で終わっちまったてわけだ」
「……」
「どんな力が働いたのかは知らないが、理不尽なこった。これじゃ八幡も八幡の家族も浮かばれないよな」
「八幡の家族って?」
「実家に両親が二人。父親の方も昔から逢坂家の専属運転手を勤めていた人物で、息子が大学を卒業する直前、事故で大怪我して引退している」
そういって中村は、実家の住所と、当時八幡が暮らしていたアパートの住所を記したメモを差し出した。
「アパートの方はもうとっくに引き払ってるだろうから、もし尋ねるなら実家の方だな」
青島はメモを受け取ると、住所を頭の中に刻み込んだ。
「俺が知ってるのはここまでだ」
「ありがとう。凄く参考になった」
「そう言ってもらえると情報を提供した甲斐があったな」
軽い口調で器用にウインクをしてみせる中村に苦笑する。
「どれだけ調べれるか判らないけど、やってみるよ」
「がんばれよー。徹底的に調べて室井さんの仇も一緒にとってやれ」
「え?…今なんて?」
何気なく言ったであろう中村の言葉に、再び凍りつく青島。
そんな青島の様子に気付く事無く、中村は更に陽気に話しつづける。
「なんだ、知らなかったのか?当時その事件を担当してたのは、管理官になったばかりの室井さんだったんだよ。…あの当時、捜査打ち切りの命令に最後まで抵抗したのは室井さんだったんだよなぁ。八幡は自殺なんかじゃないって言って、最後まで上司に掛け合ったらしいけど、結局そのまま…。悔しかっただろうなぁ。目の前の犯人を何もしないで見逃せって言われてるようなもの…って、あれ?青ちゃんもう帰っちゃったの?」
中村が気が付いた時。
青島の姿はもう既に其処にはなかった。
電気の消えた暗い部屋を見上げる。
部屋の主はもう眠ってしまったのだろうか。
それとも、あの女性と共に夜を過ごしているというのだろうか。
様々な糸が絡み合い、複雑な模様を織り上げる。
でもそれは今だ形になるには程遠く。
心に絡んだ糸も今だ解ける気配も無く。
「……室井さん」
彼が呟いた声は。
彼のもとへと…届かない。
続く
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今回のゲストの正体は、新聞記者の中村氏でした―――!
………ふっ、覚えてる人少ないだろうなぁ。
ま、いっか。(オイッ!)
物語りも中盤、登場人物の思惑も見えてきました。色々絡んだ糸は、それぞれ何処に繋がっているんでしょうか?
そして、でんでんむしはこの糸を無事に解く事ができるのか!?
…と言うほど縺れてませんけどね。
こういった複雑な事情が絡んだ事件モノを読むのは好きです。
でも書くのは駄目ですね(^_^;)
難しすぎ;;