薄暗い部屋の中に踊る灰色の影。

     小さなライトに生み出された大きな影が、個人が所有するには大きすぎる書棚にぶつかり歪む。

     少し開いたカーテンから覗く少し太った三日月の光が、まるで己の存在を誇示するようにデスクライトと競合し、歪な影を更に増やした。

     不必要に広い部屋。

     人の匂いを感じさせない、綺麗過ぎる部屋。

     薄闇に包まれた歪な空間に、一人の男の声が響く。

    「…私だ」

     部屋に踊る影に相応しい、低く重厚な声。

    「……ああ。その件に関しては問題ない。既に手は打ってある」

     淡々と語る口調は余裕の証か。

    「警察…?奴らはどうせ何もできん。…五年前と同じだ。私に任せておけば良い」

     人に命じることに慣れた口調は、王者の風格さえ漂わせる。

    「………なに!?」

     男に走った動揺に、壁に映った複数の影が大きく揺れた。

    「それでリストの方は如何した?……そうか、なら良い」

     だが、それも一瞬の事。大きな安堵の息を一つ漏らした後、男は余裕を取り戻す。

    「……いや、直ぐには不味い。何しろ警察庁幹部の身内だ。……ああ、暫く閉じ込めておけ」

     不穏な会話に似合わぬ澱みの無い喋り方。

    「ああ、解かっている。どうせ…もうすでに一度……。いや、何でもない」

     男の声に、微かに自嘲の色が混じったように思えたのは、気のせいか。

    「また連絡する。くれぐれも尻尾を掴まれるような真似はするな」

     男の影が再び動く。それと同時に切られる電話。

     男は大きな皮の椅子に身を沈め、瞑目するかのようにしばし沈黙した。

     何かに思いついたように椅子を廻らせ、窓の外見目をやる。

     窓の外の太った三日月は、その身を厚い雲の向こうに隠した後だった。

     男の瞳が一度閉じられ、再び開いた時。

     体躯に似合わぬ俊敏さで椅子から立ち上がると、デスクの上に置いていた眼鏡を手に取り出口に向かう。

     と、その足がぴたりと止まった。

     視線の先にあったのは、一つの書棚。

     だが、それもほんの数秒間の事だった。

     男の足が再び出口に向かう。

     鍵の掛けられていなかった扉を開け外に出るまで、男は部屋を振り向くことは無かった。

     

     

     男が玄関を出る足音が聞こえる。

     男を乗せた車が、走り去る音が聞こえる。

     男が去った部屋の傍で。

     暗闇の中から一つの影が動き出した。

     歩き出したその影が、開いたままの扉の前で立ち止まる。

     ドアの隙間から見えた部屋の中に、消し忘れたデスクライトに照らされて、書棚に仕舞い込まれた一冊のアルバムが浮かんで見えた。

    「……」

     部屋に足を踏み入れた少年が、点けっ放しのデスクライトの明かりを消した。

     暗闇に支配された部屋の中で、少年の手がアルバムの表紙を捲る。

    「あんたは…いつ、気が付くんだろうね……?」

     アルバムを見詰めたまま動かない少年を、傾きかけた三日月だけが、静かに見詰めていた。

     

     

      パートナー 〜共に歩む者達〜

             第六章 少年の『過去』と『現在』

     

     出勤するにはまだ早い時間。

     街の大半が未だに眠りにつく頃。

     往来を行く車も人も疎らで、穏やかな風景を満たす静寂は、街を行く青島を優しく包みこんでくれた。

     睡眠不足の目を擦りながら歩きなれない街を歩く。

     昨夜。中村から室井が昔事件の捜査に当たっていたことを聞き、衝動のまま彼の官舎に行った後のことは、自分でもよく覚えてはいない。

     いつ帰ったのか、気が付くと自分の部屋のベッドの上で、何もせず、ただぼーっと、白い天井を見上げていた。

     結局一睡もできないまま夜明けを迎え、朝食も取らず部屋を出た。

     向かった先は通い慣れた湾岸署ではなく、高級住宅地が建ち並ぶ住宅街。――逢坂建司の家だった。

     立派な家が建ち並ぶ中でも、一際大きな屋敷が逢坂邸だった。

     なるべく通りを行く人の目に付かないように死角に入り、少年を待つ。

     時計に目をやり、少し早すぎたかと思った時。

     勝手口を通って逢坂少年が姿を現した。

    「……!」

     早足で真っ直ぐに歩いてくる逢坂の視覚に入るように、ゆっくりと姿を現す。

    「……」

     逢坂は青島の姿を認めると、特に驚いた風も無く足を止めた。

    「おはよう」

    「……おはようございます」

     そのまま何も話す事無く二人で並んで歩く。

     暫く一緒に歩いた後、先に口を開いたのは青島のほうだった。

    「随分早いんだね。部活でもあるの?」

    「…いえ。部には入ってませんから」

    「あ、そうなんだ」

     そのまま話題も無いまま会話が中断する。

     気まずい沈黙。

     それを破ったのは、今度は逢阪の方だった。

    「刑事さんも、随分早いですね」

    「あ、ああ。昨日からちょっと調べ物しててね」

     普段使わない頭を使って、あまり寝てないんだと、少しおどけてみせる。

     だが、少年の表情に皹が入る事はなかった。

    「薬の事ですか?ご苦労様ですね。でも、あのことについては…」

    「薬の事じゃないよ」

    「…?」

     それまで青島の顔を見ようとしなかった逢坂が、はじめて青島の方を見る。

     逢坂の視線を感じた青島も、歩いていた足を止め、逢坂に向き直った。

     真っ直ぐな青島の視線を受け止めた逢坂の足も止まる。

    「俺が今調べているのは、五年前の事件の事だよ」

    「……!!」

     静かに告げた青島の言葉に、逢坂の顔にはっきりとした同様が浮かぶ。

    「やっぱり、何か知ってるんだね」

     逢坂は応えない。

    「何でもいいんだ。君が知っていることを教えて欲しい」

    「……」

    「五年前、八幡昭彦が何故、自殺し…」

    「昭彦兄さんは自殺なんかしてないっ!兄さんは…っ!」

    「昭彦さんは…?」

     自分の口走った気が付いたのか、逢坂は、そのまま青島から目を逸らし、沈黙してしまった。

    「逢阪君?」

     固く口を閉ざし、必死で目を逸らしているその顔は、青島には何故か彼の泣き顔に見えた。

     

     

     路地裏にひっそりと佇む古い喫茶店に場所を移し、再び二人、無言で向き合う。

     時間帯のせいか、それとも場所柄のせいか。小さな店の中には青島と逢坂の二人だけ。

    「…学校、遅刻させちゃったね」

     ここに場所を移してからどれくらいの時間が流れたのだろうか。すっかり空になったコーヒーカップを脇にやり、青島はようやく逢坂に語りかけた。

    「別に良いです。…どうせサボるつもりだったし」

     ちらりと壁の時計に目をやり、投げやりに応えた逢坂のコーヒーカップは、すっかり冷めてしまったコーヒーが一口も飲まれる事無くそのまま残っている。

    「サボるつもりだったって…」

    「刑事さんは良いんですか?仕事始まる時間でしょ」

     尋ねられた内容より、逢坂がやっと自分から口を利いてくれたことに対して笑いが毀れる。

     笑いを噛み殺した青島を見た逢坂が、怪訝な顔をしたのを見て慌てて返事を返す。

    「あ、ごめんね。俺のことは別に良いんだよ。いつもの事だし、どうせ皆も『ああ、またか』って思ってるさ」

    「…ふーん」

     納得したのか、しないのか。曖昧な返事を返した逢坂は、ほったらかしだったコーヒーにようやく口をつけた。

    「命令無視は当たり前。上司にだって平気で逆らうし、無茶で無謀で無鉄砲。湾岸署の問題児だって、いつも署長達に言われてるよ」

    「そう、なんだ」

    「だから。俺は、君のお父さんの頼みも、聞くつもりはない」

     俯いたままだった逢坂が、弾かれたように顔を上げた。

    「俺は…刑事だから。犯人を見つけて逮捕することが仕事だから。だから、どんなことがあっても自分を信じて仕事をするだけだ」

    「……」

     どこか自分に言い聞かせているような青島の言葉。

     逢坂はただ黙って青島の言葉を聞いている。

    「…今までもね、色々な事があったよ。命令無視して査問委員会にかけられた事もあったし、信じていた……上司と、大喧嘩しちゃったこともあったし。大怪我して死にかけたこともあったしね」

    「なんだか、凄いね」

    「まぁね。でも、本当に色々あったけど、後悔だけはしてないよ。あの時、ああしていればどうなっただろうって思うことはあるけど、ああすればよかったって思ったことは無い」

    「どうして?」

    「んー、何て言ったらいいのかなぁ?結局どんな選択も俺自身が選んで決めたことだから…かな?」

    「自分で…?」

     逢坂の目が、自分を見詰める青島に向かって真っ直ぐに向けられる。

    「その場の勢いだけで行動して、皆に沢山迷惑かけたり失敗したりもしたけど、だからって別の選択はできないんだよね。多分時間を遡って同じ場面に出会っても、同じ間違いを繰り返しちゃうんだろうな」

    「それって、バカって言うんじゃない?」

    「そうかもね」

     容赦のない逢坂に、自然な笑いが毀れた。

    「でも、それが俺なんだと思う」

     真っ直ぐな瞳。

     強く輝く鳶色の瞳が、逢坂を見詰めている。

    「刑事を辞めたいって思った事は?」

    「あるよ」

    「でも辞めなかったんだ」

    「うん。辞めたいって思ったことはあったけど、辞めた後の自分っていうのは想像できなかったんだ」

    「なんで?」

    「和久さんに…あ、和久さんって、俺の先輩の刑事なんだけど、その人が言うには、きっと刑事が俺にとっての天職だからなんだろうって」

    「…天職」

     青島の言葉を噛み締めるように、口の中で繰り返す。

    「逢坂君は、何かやりたいことってないの?」

    「僕のやりたい事?」

    「そう」

     再び俯き沈黙する逢坂。だが、それは明らかに先程までの全てを拒絶した沈黙とは違っていた。

     長い沈黙の後、逢坂が再び口を開く。

    「やりたいことは…昔は沢山あった。飛行機のパイロットとか、サッカー選手とか。夢ばっかり沢山あって、いつも父さんに贅沢な奴だって、笑われてた」

     子供の頃。望んだ夢は何でも叶うと信じていた頃。

     夢はいつだって手の届くところにあった。

    「俺もそうだったよな」

    「刑事さんも?」

    「ああ。でもそれは今も変わんないけどね。やりたいことや叶えたい夢はまだまだ消えずに沢山残ってるよ」

    「ガキ」

    「子供のお前に言われたくないよ」

     そう言いながらも子供相手にむきになる青島に、初めて素直な笑顔が逢坂の顔に浮かんだ。

    「刑事さんって、ほんとに変な人だよね」

    「ほっといてよ」

    「でも、そんなところも昭彦兄さんと似てるかな?」

    「え?」

     何気なくぽつりと呟いた言葉に含まれていた名前に、青島の笑いが止まった。

    「昭彦兄さんも刑事さんと同じで、不器用だったけど正義感の強い真っ直ぐな人だったんだ」

     窓辺にさり気無く置かれた小さな観葉植物。綻び始めた小さな赤い花に目をやりながら、逢坂は小さな声で語る。

    「昔から曲がったことが大嫌いで、自分が正しいと思ったことは、どんなに苦労しても遣り通す人だった」

     静かに語る逢坂の言葉を、青島は口をはさむ事無く聞きつづける。

    「父さんの秘書になってからも、意見が合わなくてよくぶつかり合ったりしてたよ」

     当時の事を思い出したのか、逢坂の顔が僅かに歪む。

    「昭彦兄さん、いつも言ってた。自分は父さんの事が大好だって。凄く尊敬してるって。…だから、父さんに間違ったことをして欲しくないって…」

     悲しそうに伏せられる瞳。

    「昭彦兄さんは、父さんの事が本当に大好きだったんだ…」

     くぐもった小さな声。テーブルの下、膝の上に置かれた握りこぶしが震えていることに青島は気が付いていた。

    「昭彦兄さんは自殺じゃない。あんなに真っ直ぐで優しかった兄さんが、犯罪に手を染めて自殺なんかするはず無いんだ」

     顔を上げ、涙を堪えた赤い瞳が自分を捉えた時。青島は漸く逢坂に向かって言葉を投げかけた。

    「自殺じゃないって証拠はあるのか?」

    「証拠は…」

     沈黙と逡巡。

     長いためらいの後、漸く逢坂が口を開いた。

    「証拠は、ある」

    「!!」

    「でも、それは……」

     唇を噛み締め、何かを思い悩んでいるかのような逢坂。

     青島はそんな逢坂を見ながら、問い詰める事無く彼が自ら語りだすのを静かに待っていた。

    「…刑事さん。明日まで待って下さい」

    「明日?」

    「今日一日だけ待ってください。明日になったら、五年前の事件の証拠も、今度の薬の事も全部あなたにお話します」

     悩みぬいた末に、何かを決断した強い瞳。

     青島はその瞳を見ながら、頷いた。

    「解かった。明日まで待つよ」

     逢坂は、青島の返事に静かに頭を下げた。

     

     

     午前の授業も半分終わるような時間になってから、青島と逢坂は漸く彼が通う学校の近くまでやってきた。

    「遅刻して怒られない?」

    「風邪をひいて病院に行っていたとでも答えておきますよ」

     教師の信頼は厚いから大丈夫と、悪戯混じりに答えた逢坂の頭を軽く叩き、校内へと送り出す。

     校門をくぐり、校舎までの長い道のりを歩き始めた逢坂が、ふと立ち止まり振り返った。

    「どうした?」

    「刑事さんは、一番大好きだった人に裏切られたことってありますか?」

    「!?」

     唐突な質問。

     だが、質問を投げかけた少年の顔は悲しいまでに真剣だった。

    「もし…一番大好きな人に裏切られたとしたら如何しますか?」

     この世で一番好きな人。

     大好きだった人。

     

    『室井さん、お見合いするんですって』

    『秋には結婚する予定だそうです』

     

     この世で一番愛していた人…。

     

    「俺は…」

     二時限目の終わりのチャイムが周囲に響く。

     校舎内に響く賑やかな声を聞きながら。

     青島は、結局何も答えることが出来なかった。

    続く    

     ふ〜む。話が進むに連れて、逢坂少年の性格がどんどん可愛くなっていっているような…。

     たしか、最初に考えた時ってもっとスネたガキだったような気がするんですけどねぇ。

     あ〜、あまりも昔のことで、あまり覚えてないっす(汗)

     古い原稿(!)を読み返していつも思う事。

     あ〜、あの頃の自分ってこんな事を考えてたんだなぁ…。

     あぁそれは、のすたるじぃ。

     小学校の卒業文集を読むのにも似た…って、ちょっと違う?