薄暗い部屋の中に溶け込むセピア色の表紙。

     子供の頃から使い続け、手に馴染んだ分厚い辞書を手に取り表紙を捲る。

     厚めの表紙の下から現れたものは、無数の単語の羅列ではなく。

     四角く抉り取られた空間に詰まっていた白い粉。

    「へぇ、これなら誰にも気付かれないよな。…まさか、辞書の間にこんなものが入ってるなんて誰もおもわねぇもんな」

     辞書本来の機能を奪われ、単なる取引の道具に成り下がった物体を見下ろす男が能天気な声を上げた。

    「じゃあ、取引の日は週に一度、水曜日にこの場所で。俺がこの辞書に薬を入れてお前に渡し、お前が金の入ったそっちの参考書を俺に渡す…これでいいんだな?」

     辞書を使い込まれたケースにしまった少年が無言で頷く。

    「次の週は俺がその参考書に薬を入れてお前に渡して、お前がその辞書を俺に渡す。なるほどね、この方法ならサツの目も誤魔化せるってわけだ」

    「…ヘマして、足の着くような真似はするなよ」

    「お前こそ、びびって失敗するんじゃねぇぞ」

     からかうような男の言葉に、少年が鋭い視線を向けた。

    「おー、こわ」

     男はさほど恐縮した風も無く肩を竦める。

     少年はそんな男から目を逸らし、すっかり日が沈んで闇に包まれた街並みを見下ろす。

     眼下に広がるいくつもの家の灯り。

     優しい橙色のその光を見下ろしながら少年は何を考えているのだろうか。

    「…なぁ、一つ聞いてもいいか?」

     男が少年に語りかける。

    「お前なんでこんな事をやろうなんて思ったんだ?」

     男の手が、麻薬の詰まった辞書を持ち上げる。

    「お前って、いいとこのお坊っちゃんなんだろ?」

     少年は答えようとしない。

     男に背を向け、まるで男の存在そのものを拒絶しているかのようだった。

    「…まぁ、答えたくないんなら別にいいけどさ」

     話したくないのならそれでもいい。

     相手が言わないことを聞かないのも、男の住む世界のルール。

     そして男は、自分の利益になること以外には、興味を持たない人間だった。

    「じゃあ、俺は帰るぜ。…来週からよろしくな」

     扉を閉める音がして、歩き去る足音が聞こえなくなっても、少年は振り向こうとはしなかった。

     小さな窓から毀れる灯りだけを静かに見詰め続けていた。

     

     

     少年が男とであったのは偶然の事だった。

     去年の夏休み。

     クラスメイトに誘われるまま繰り出した夜の繁華街。

     夏休みの開放感。

     若者らしい好奇心。

     ほんの少しだけの冒険心。

     煌びやかな虚構の世界は、少年にとって特に感銘を与えるものではなかった。

     誘われるまま、特に楽しむわけでもなく、街を歩く。

     そして、惰性のまま入ったクラブの中で、あの男と出会った。

     何をするわけでもなく、居場所を見つけられないまま佇んでいた部屋の隅で、偶然聞こえてきた会話。

     一目見てその筋の人間とわかるような男たち数人に囲まれて、何かの取引をしていた男。

     陰に隠れるようにして見ている少年の目の前で、男達の手を行き来する白い粉と金。

     聞こえてきたいくつかの名前。

     男の名前。

     聞いた事のある会社の名前。

     昔、ある人から教えてもらった暴力団の名前。

     そして、少年の父の名前…。

     男たちが去って、誰も居なくなっても少年は動けなかった。

     

     

     それから夏休みの間中、少年は毎日のように繁華街へと出かけた。

     遊ぶためではなかった。

     あの男を捜す為

     探し出して如何しようというのか。

     薬を手に入れて如何しようというのか。

     曖昧な思考のまま男を捜しつづけた。

     そして、夏が終わる頃。

     少年は男と接触した。

     持ち掛けた取引。

     手に入れた麻薬。

     このことが表に出れば、少年の父はどうなるか…。

     いずれにしても、もう引き返せない。

     少年の手には、白い粉が握られた。

     

     

     懐かしい窓の灯りを見下ろしながら、ふと思う。

     父は、いつ気が着くだろうか?

     …気がついてくれるのだろうか?

     遠い昔、忘れてしまった思い。

     懐かしい思い出と共にしまい込んだあの記録に…。

     

      パートナー 〜共に歩む者達〜

             第七章 それぞれの『策謀』

     

     逢坂と別れた青島が、湾岸署に戻った時、刑事課内はいつもと違う喧騒に包まれていた。

    「おはよー」

    「青島君!?」

    「青島さん!!」

     彼の声に、取調室の前にいたすみれが駆けつけてくる。

    「あ、すみれさん。おはよ」

    「おはよう、じゃないわよ!随分遅かったじゃない。一体どこで何をしてたのよ!」

    「ごめん、ちょっと寄る所があって。それより如何したの?」

    「和久さんが、例の薬の売人捕まえた」

     決して大きくはないはずのすみれの声が、青島の耳に強く響いた。

     何番の取調室にいるのか確信する時間さえ惜しく、和久の声が聞こえる方へ駆け出す青島。

     少し開いているドアを大きく開き中へと入る。

     其処にいたのは、椅子に座る和久と、壁際に立つ八木。そして、龍村のところで見た写真の男だった。

     駆け込んできた青島にちらりと目をやると、和久は彼に向かって小さく頷く。 

     取調室へ飛び込んだ青島も和久に対し無言で頷き返すと、八木とは反対側の壁の傍に行き、そのまま腕を組み壁に凭れ掛る。

     再び和久の声が、狭い取調室に響き始める。

    「…じゃあ、お前さんは、今度の事件は全部逢坂健司が計画したって言うんだな?」

    「ああ。六本木で仲間と一緒にぶらぶらしてたら、急に向こうから声をかけてきたんだよ。薬を誰にもばれずに、しかも大量に捌く方法があるってな」

     いつものように、何をする訳でもなくただ無駄に時間を過ごしていたあの日。

     夜の六本木には不釣合いな一人の少年が声をかけて来たと言う。

     最初はどこの世間知らずなお坊ちゃんが紛れ込んで来たのかと、小馬鹿にして相手にしなかったのだが、やがて少年の口から語られた話の内容に勝見は驚愕したという。

    「あいつ、俺が蛟龍会と関係があることまで知っててよ、しかも、自分の親父も組と関係があるって言うじゃないか」

     逢坂は、もしもの時は父親の力で何とかなるから大丈夫だといい、計画を手伝ってくれる報酬だといって、現金で三十万円近い金をその場で渡したのだという。

    「三十万円!?」

    「ああ、並みのガキが用意できる金額じゃねぇだろう?」

     金を受け取った勝見に断る理由は無い。それに薬を捌けて更に儲かるとなれば、一石二鳥である。勝見は逢坂の話に二つ返事で飛び付いた。

    「薬の受け渡しはいつやってたんだ?」

    「週に一度。あいつが通っている予備校の中で、だ」

     逢坂は、人目が多く、補導されやすい六本木を避け、自分が通っている予備校での取引を提案した。

    「あいつが通っている予備校は、昼に浪人生、夜は現役高校生って具合に授業が分かれてるんだ」

     同じ教室を昼と夜とそれぞれの授業に合わせて使い分けているらしい。

    「夕方になると、昼の講習を受けて帰る連中と、夜の講習を受けにくる高校生がよく鉢合わせになったりするんだよ」

     授業が終わり、入れ替わりとなる時間。

     本来なら余計な混乱を避けるため、時間には十分な余裕が取ってあるのだが、授業が終わっても講師等への質問などで居残る受講者や、予定時間より早く来る気の早い高校生達のせいで、予備校がある建物の中は、いつもかなりの人数の予備校生が居たという。

    「で、週に一度、その浪人生と高校生が入り乱れる時間を利用して、取引してたって訳」

    「周りの連中には気付かれなかったのか?」

    「別に。誰も変な顔する奴なんていなかったぜ?」

     実年齢よりも若く見られ、しかも、いかにも浪人生らしい風貌をした自分なら、授業が終わった建物をうろついていてもおかしくないと逢坂は言ったという。事実、建物の中や周辺をうろつく自分を訝しむ者は誰一人いなかった。

    「予備校帰りに辞書や教科書を貸し借りする振りをしてたんだけど、変な目で見る奴なんて誰もいなかったなぁ。もっとも健司に言わせれば、あそこに通っている人間で、他人に興味がある奴なんて全然いないって事らしいけどな」

     他人よりも自分の成績。一流の大学に入る為には親しい友人さえライバルとなる。

     周りに目をやる時間があるなら、その分自分のために有意義な時間を過ごした方が良いということなのだろう。

    「なんだかなぁ…。随分淋しい世の中になっちまったよなぁ」

     和久がどことなく淋しそうにぽつりと呟いた。

     豊かさと贅沢を得た代わりに手にしてしまった様々な歪み。

     個性というより自分個人だけを重視する若者達。

     それは予備校内だけの事ではなくて。

    「あとは、俺から薬を仕入れた健司が、今度は自分が通う学校で売り捌いてたって訳だ」

     学校という名の閉鎖空間。

     一般社会から隔離されたその空間は、硬く閉ざされた密室と同じ。

     一度門を閉ざしてしまえば、中で何が起こっているのか外部から知る事は難しい。

     加えて逢坂が通う学校は、高給所得者の子息が多く通っている有名進学校だった。

     薬を捌くのに、これ以上条件のいいところは無いだろう。

    「逢坂がどうして薬の売買に手を出したのか、その訳は聞いたのか?」

    「しらねぇよ」

    「しらねぇだと?」

    「自分が薬やってるわけでもねぇ、金に困ってるわけでもねぇ。必要以上のことは何も話さねぇ」

     自分の周りに壁を作り、決して他人を踏み込ませようとはしなかった。

    「ホントに何考えてんのかなぁ。付き合いそのものは大分経つけど、あいつが笑ったところ、俺…見た事が無いんだよな」

     勝見はそういって、曖昧な顔で笑っていた。

     

     

     勝見を留置場へ拘留し刑事課に戻ってくると、すみれと雪乃が熱いコーヒーを淹れて待っていた。

    「はい、コーヒー」

    「和久さんもご苦労様でした」

    「さんきゅー」

    「お、こりゃすまねぇな」

     作り置きのコーヒーではない、淹れたてのコーヒーの香りが張詰めていた二人の神経を解してくれる。

    「待ったく、近頃のガキは何考えてんだかさっぱりわかんねぇな。あの勝見って奴も自分が悪い事をしてるなんてこれっぽっちも思ってやしねぇ」

     取調べの最中も留置場に拘留した時も、勝見の態度に反省の色は全く見られなかった。

     薬があって、それを欲しがる人間がいる。だからそれを売っただけだと、当たり前のような顔をしてそう言っていた。

    「まぁ、何はともあれ薬の流れもこれで解明できたわけですし、一件落着ですよね」

    「…そうだな」

     コーヒー片手に呑気な笑顔の真下とは対照的に、和久は渋い顔をしたままだった。

    「如何したんです?」

     和久の表情に気が付いた雪乃が声をかける。

     だが、和久はそれには答えず先程から沈黙したままだった青島の方に顔を向けた。

    「…お前の方はどうだったんだ?」

    「収穫らしい収穫は何も無いっす。ただ…」

    「ただ、どうした?」

    「今朝、逢坂健司と会ってきました」

    「え!先輩それホントですか!?」

    「青島君ったら、いつの間に…」

     逢坂に会ったと言う青島に驚く真下とすみれ。言葉には出していないが、雪乃もまた驚いた顔で青島を見詰めていた。ただ一人、和久だけが予想していたのか驚く事無く青島を見ている。

    「で、ぼっちゃんは何ていったんだ?」

    「明日まで待って欲しいって…」

    「明日?」

    「明日になれば、今度の事件の事も、五年前の事件の事も全て話すと彼は言いました」

    「その言葉、信用できるか?」

     青島は、明日になれば全てを話すと言った逢坂の顔を思い出していた。

     思い悩んだ末、何かを決断した彼の顔。

    「俺は、あいつを信じます」

     青島の言葉に、迷いの色は無かった。

    「解かった、明日まで待とうじゃねぇか。篠木と八木には俺から言っとくよ」

    「すみません、和久さん」

    「お前が誤ることじゃねぇだろう。それより、このまま上の連中が黙っているか、だ」

     逢坂が持っている事件の証拠がどのようなものなのか。五年前、事件を封印した上層部を黙らせるだけの効力があるのだろうか。

    「どっちにしても明日になれば解かりますって。それまで大人しく待ってましょ」

    「一番大人しく待てそうにない奴に言われたくねぇよな」

     そういって二人で笑いあう。

     納得した二人の傍で、納得できていないのはすみれを初めとするその他の連中だった。

    「ねぇっ!さっきから何の話をしてるのよ。何がなんだかもうさっぱり訳がわかんないっ!」

    「そうです!二人だけで判る話をしないで、ちゃんと私たちにも説明してください!」

     女性二人に詰め寄られて、流石の青島もついつい逃げ腰になる。

     助けを求めようと彷徨わせた視線の先では、和久が我関せずといった感で、一人背を向けコーヒーを啜っていた。

    「和久さん狡いっ!」

    「俺は昨日徹夜して疲れてんだよっ!」

    「だったら俺だってねぇ…!」

    「もう、どうでもいいけど皆仕事してよねっ!!」

     笑い声に怒鳴り声。

     賑やかな喧騒が刑事課を包み込む。

     それはいつもの湾岸署の風景で。

     周りの歯車が、漸くいつものように回り始めた…と、青島が思った時だった。

     

     

    「失礼する」

     突然聞こえてきた威圧的な声に、課内の喧騒がぴたりと止んだ。

     一同の戸惑う視線の先に居たのは、高圧的な態度で課内を見回している二人の男だった。

     二人の男は、戸惑う青島達には目もくれず、真っ直ぐに課長席に着いていた袴田の元へと歩いていく。

    「あ…あの?」

    「青島という刑事は?」

    「青島なら…」

     袴田が向けた視線の先に居た青島を男達の視線が捉える。

     一切の感情の読めない四つの瞳。

    「あの二人、確か警察庁の監察官…」

     似合わない、押し殺した声の真下の囁きが、警告めいた響きを伴い青島の耳に届く。

    「君が青島巡査部長か?」

    「そうですけど…?」

     緊張が刑事課内を支配する。

    「私達は警察庁監察官のものだ」

    「監察官の方が、俺に何の用があるんですか?」

    「昨夜の君の行動について少々聞きたい事がある。…君と六本木の、非合法のカジノのオーナーとの関係についてね」

    「!!」

     青島の顔が強張る。

     非合法のカジノのオーナー。龍村の事だ。

    「君が昨夜、問題の男が経営するバーに出入りしている姿を目撃したものがいたんだ」

    「以前から君と彼との関係について、以前から懸念を示す声がかなり上がっていてね。君が彼とかなり懇意な関係にあるらしいという事なんだ。私達も疑いたくは無いのだが、もしそれが本当ならば、警察官としてはあるまじき行為だ。我々もそれ相応の処分を考えねばならない。解かるな?」

     口調はあくまでも穏やかに。だが、その態度は反抗を一切許さない高圧的なものだった。

     一方的に決め付け反論を許さないその態度に、青島の反抗心が一気に膨れ上がる。

    「お言葉ですが、俺はあなた方の言うような警察官にあるまじき行為などした事は、一切ありません!龍村とは確かに何度か顔を合わせていますが、警察官として恥ずべき行為なんて…!」

    「それを確かめるのが私たちの仕事だ」

    「……っ!」

     上から押さえつけられるような不快感。

    「青島巡査部長。事の真相がはっきりするまで、君には自宅で謹慎してもらう」

    「なんだって!!」

    「ちょっとっ!なによそれ!!」

     和久とすみれから抗議の声が上がる。

     成り行きを静観していたほかの刑事たちも声にこそ出さないが、その顔には明らかな不満が表れていた。

    「ちょっと待ってくれ。そりゃあんまりにも一方的すぎねぇか!?」

    「そうよ!青島君も黙っていないで何とか言いなさいよっ!こんな一方的な命令従えないわ!!」

     真っ青な顔で制止する袴田を振り切り、すみれが叫ぶ。

     黙って睨みつけていた青島が、一歩前に出る。その目は激しい怒りに燃えていた。

     突然現れた二人の監察官。

     明確な理由も処分も決まらないまま言い渡された自宅謹慎。

     その行動の背後に、逢坂直哉の姿があるのを青島は、はっきりと感じていた。

    「命令には従えない。俺は自分に恥じる事なんて何一つやってないっ!」

    「命令を無視するというんだな?」

    「納得いかない命令に従う義務はない」

    「ならば、何らかの処分が下る事になるぞ?」

     言外に伝わってくる相手の意志。

     大人しく捜査から手を引かなければ、刑事を辞めろといっている。

     だが、それでも構わない。ここで奴らの脅しに従って、捜査を止めるつもりは無い。

     なんとしても真実を突き止める。必ず事件の真相を突き止め犯人を逮捕する。その為に、たとえ刑事を辞めることになっても…。

     意を決し、目の前の男たちを睨みつける。

     開かれる口。

    「それでも俺は、事件を…」

     

     

    「あおしまっ!」

     青島が決意を秘めて口を出た言葉は、突然乱入した第三者の声に遮られた。

    「…え?」

     聞こえてきた声に振り向いた瞬間。

     頬に走った衝撃に青島の思考が止まる。

     衝撃より遥かに遅れてやってきた痛みに呆然と頬に手をやった時、自分が初めて頬を殴られたことに気がついた。

     そして、自分の頬を殴ったのは。

    「室井…さん?」

    「この馬鹿がっ!人の命令を無視して勝手に動きまわるから、いらない誤解を招く事になるんだ」

    「……え?」

     いきなり胸倉を掴まれ息が詰まる。

     目の前には、厳しい顔をした室井の姿。

    「勝手な事をするなといっただろう!?」

     息が上手く継げなくて、次第に頭がぼーっとしてくる。

     意味不明の室井の言葉。

     彼は何を言っているのだろう。会話の内容がさっぱりわからない。

     苦しくて何がなんだか解からなくて。もうどうしようもなくなった時。自分を拘束していた室井の手が漸く離された。

     室井の手が離された瞬間、支えを失った体が床に崩れ落ちる。

     そのまま倒れ込みそうになるのを、両手を床突いて何とか支えながら顔を上げる。

     息苦しさに霞む視界に映ったのは、自分を庇うようにして立つ室井の背中だった。

    「突然失礼致しました。今度の青島巡査部長の件なのですが、実は彼には今、警視庁二課の藤咲管理官の要請で、ある横領事件の犯人の捜査協力をしてもらっているのです」

    「そ、捜査協力だと?」

     室井と二人の管理官の間で交わされている会話をぼんやりと聞く。

    「ええ。昔、営業マンとして優秀な成績を納めた実績もあり、あの界隈の地理に詳しい青島君の協力が必要だったんです」

    「は、はぁ…」

     勿論嘘である。

     捜査の中止を要請された事はあっても、捜査の協力を頼まれた事など無い。

     青島同様、呆然と話を聞いている湾岸署員達。

     真偽を正しに来た監察官の二人も、先程のいきなり青島を殴りつけた室井の態度と、目の前に凛と立つ姿に圧倒されてしまっている。

    「ですから、昨夜青島巡査部長が問題の店に出入りしていたのも、捜査の一環での事でして」

    「しかし、そんな事実はどこにも…」

    「嘘だと思われるのなら、藤咲管理官に直接尋ねてみてはいかがでしょうか?」

    「それは…」

    「室井理事官がおっしゃった事は、本当の事ですよ」

    「藤咲管理官!?」

     またしても割り込んできたもう一つの声。

     言葉を発したのは、それまで戸口の死角に立っていた藤咲だった。

    「やぁ、青島君。大丈夫かい?あーあ、赤くなっちゃって。室井さんってば手加減なしなんだもんねぇ」

     人を喰ったような笑顔を浮かべながら、床に座り込んでいた青島に手を差し伸べる。

     だが、青島はその手を振り払い自力で立ち上がった。

    「しかし、何故一課の理事官であるあなたが、二課の捜査に関わっているんですか?」

    「それは…」

    「私が室井さんにお願いしたんですよ」

     青島に手を振り払われた事など、なんとも思っていないのか、相変わらずの笑顔を向けて藤咲が答える。

    「室井さんは青島君の上司だし、君達も知ってのとおり、二人はあの副総監誘拐事件解決の立役者だ。当然お互いの信頼も厚い。だから青島君に捜査協力をお願いするのに、全く面識の無い僕がお願いするより、室井さんを通してお願いしてもらった方がいいかなぁーなんて思っちゃったんだよねぇ」

    「…思っちゃったって」

     呆れたようなすみれの突っ込みが入るが、藤咲は当然無視。

    「でも、まぁそのせいで青島君に迷惑をかけちゃったみたいだね」

     そういって二人の監察官に顔を向ける。

    「しかし、実際に青島刑事が以前からあの店に出入りしていたのは事実ですし…」

    「別にいいじゃない。本人が何も無いって言ってるんだし。ね?」

    「ねっ、じゃないだろう!?その程度の事で事実を有耶無耶にされたんじゃ…」

    「別に困らないでしょ?」

     そういって、ゆっくりと二人の監察官に近づいていく。

     その顔には依然、笑顔が張り付いていたが、笑顔の中の瞳は冷たく底光りしていた。

    「それに事実をはっきりされて困るのは君たちの方じゃない?」

    「どういうことだ?」

    「いえいえ。今度の査問の件、昨日の今日で随分対応が早いじゃない?その情報が一体どこからのものなのか、青島君を査問するならその辺の事もちゃんと明らかにしなきゃねぇ?」

     長身を屈め、わざと下からなめ上げるように男達を見上げる。

     そして、更に一歩踏み込み、耳元で何か囁くように呟いた藤咲の言葉に、二人の監察官の顔色が目に見えて青くなった。

    「さて!如何なさいますか、監察官殿?」

     にやりと笑う藤咲とは対照的な強張った表情の二人の監察官。

     二人はなにやら小声で囁きあっていたが、やがて藤咲に向き合うと結論を告げた。

    「…こっ、今回の青島巡査部長の処分は、室井理事官と藤咲管理官に御任せします。以後、十分注意するように!」

     殊更胸を張り大きな声で伝えてみるものの、その姿はどう見ても虚勢を張っている以外の何ものでもなく。

     二人の男はまるで逃げ出すかのように湾岸署をあとにした。

     

     

     本庁の監察官が去ってから暫くして。

     誰かが吐いた大きな溜息がきっかけとなり、刑事課内に元の喧騒が戻り始めた。

    「やれやれ。何とか無事に帰ってくださいましたか」

     そう言ったのは、監察官を撃退した張本人で。

    「……一体あの二人に何て言ったのよ?」

     胡散臭そうに自分を見ているすみれににっこりと笑いかけると。

    「内緒です」

     と、人差指を一本、口元に立てて笑いながらそう言った。

     それを見ていたすみれは、何か言いたそうに口を開きかけたが、やがて頭を一つ振ると、諦めたように大きな溜息を吐いた。

     

     

    「青島…」

     緊張が解けた刑事課内で、唯一未だに緊張の解けないでいる青島に室井が声をかける。

     青島は室井の方を見ようともせず、視線を逸らしたまま唇を噛み締めていた。

     室井の手が青島の肩へと伸びる。だがその手が触れる直前、青島はすり抜けるようにしてその場から立ち去った。

    「青島!?」

     声を掛ける事もできず、呆然と二人を見守る署員達。

    「やれやれ」

     その横で、困ったような笑顔を浮かべた藤咲が、誰にも気付かれないような小さな声で呟いた。

     

     

     室井の声を無視し、廊下へ出る。賑やかな人込みを避けたどり着いたのは休憩室だった。

     備え付けの長椅子には座らず、角際の壁にもたれる。

     横を向けば、窓の外に見慣れた景色が延々と広がっていた。

     そのままぼんやりと窓の外を眺めつづける青島の耳に、規則正しい足音が聞こえてくる。

     だが、青島は振り向こうとはしなかった。

     足音が止まる。

     張詰めた緊張の中で、静かに語りかける室井の声がした。

    「青島」

    「……」

     止まっていた室井の足音が再び聞こえ、青島の直ぐ傍で止まる。

     それでも青島は室井の方を見ようとはしない。

     青島は、頑なまでに室井を拒否していた。

    「さっきは殴ったりして悪かった」

     青島の肩が微かに揺れる。

    「すまなかった。だがあの場を治めるにはああするしか…」

    「別にいいです。こちらの方こそ余計な手間を掛けさせちゃってすみませんでした」

     謝罪する室井に青島もまた謝罪で答える。だが、その視線は外されたままだった。

    「余計な手間だなんて思っていない。私は君に刑事を辞めてほしくないんだ」

    「……」

     窓の外を見下ろす青島の顔は、固く強張ったまま。

    「ともかく、今日の事で君にもよく判っただろう。今ならまだ間に合う。このまま大人しく事件から手を引いて…」

    「引けません」

    「青島っ!強情を張ってるんじゃない!!これ以上首を突っ込むと、本当に刑事を辞めることになるぞ!?」

    「構いません」

    「構わない事はないだろうっ!とにかく事件から手を引くんだ。これ以上事が大きくなれば、俺もお前を守りきれなくなるんだぞっ!」

     何とか事件から手を引かせようと、必死でつなぐ室井の言葉に、青島が弾かれたように顔を上げる。

    「俺は、あんたに守ってほしいなんて思った事はないっ!」

    「な…っ!?」

     今まで逸らしつづけた瞳を真っ直ぐに室井に向ける。

     激しく睨みつけるその顔には、憤りと悲しみが浮かんでいた。

    「あんたはいつもそうだ…。いつも何も言わないで自分一人で決めて…。今度の事だって!」

    「……」

    「事件の事だって……見合いの事だって、何にも言ってくれなかった…。俺に何にも言わないで、俺が何も知らないうちに勝手に決めて…!!」

    「青島…それは」

    「俺は、室井さんの何なんですか?」

     室井を睨みつづけていた青島の顔が歪む。

     憤りに煌いていた瞳に、涙が浮かんだ。

    「俺はっ!室井さんの、何なんですかっ!?」

     喉の奥から搾り出すような絶叫だった。

    「……」

     青島は、立ち竦む室井をもう一度睨みつけると、そのまま振り向く事無く走り去った。

     

     

     誰も居なくなった休憩室に、室井一人が残される。

    「…くそっ!」

     強く握り締められた拳が、激しく壁に打ち付けられ、柔らかい皮膚に傷をつけた。

     打ち付けられた拳が壁を伝って下に落ちる。

     その後を追うように壁に刻まれる赤い筋。

    「青島…俺は…」

     俯き呟く室井の姿を、真昼の白い三日月だけが見詰めていた。

     

     

     休憩室からそのまま署の外に飛び出す。

     目的も無いまま歩き、ぼんやりと空を見上げる。

     見上げた先にあったのは、青い空にぽっかりと浮かんだ白い三日月。

     歩く足を止め、そのまま月を見詰めつづける。

     呆れられただろう。

     みっともないと笑っているかも知れない。

     自分から室井の元を去ったというのに、今だに室井の事を思い切れていない。

     縋るように喚いて、未練がましく叫んだりして。

     …最低だ。

     空から地面に目を移し、大きな溜息をつく。

     下を向いたとたん毀れそうになった涙を拭い再び歩き出す。

     どこへ行くのか決めないまま、数歩進んだ時だった。

    「はーい、其処の可愛い彼氏♪暇ならお兄さんとデートしない?」

     ふざけた声に思わず振り向いた青島が見たものは、車道に止めた車の窓から手を振る藤咲の姿だった。

    続く    

    物語りもそろそろ終盤のはずなのに、話も進まなければ、二人の関係も縺れたまま…。

    と言う事で、もう暫く続きます。長くて読むの飽きたっ!という方は、申し訳御座いませんが、さようなら。

    まあ、付き合ってやろうか…という方のみ、ネクストへ。

    残り後、4〜5章!ゴールは近いぞ!!気張って行こう!!!

    蛇足の草鞋。

    薬の売人、『勝見洋一』君の名は、『カツミ ヨウイチ』ではなく、『カチミ ヨウイチ』と読みます。

    名前を付けるのが大嫌いな私は、藤咲氏以外のオリキャラの苗字を全部、生息地近くの地名から付けました。

    さて、何処の地名でしょう?

    …って、本当にどうでもいい話ですね。