The Dear Memorys


 

 Memory 1 ― AOSHIMA

 

 ある晴れた日の、穏やかな午後の昼下がり。

 静かな住宅街に響く無粋な複数の足音と怒鳴り声。

 普段は耳にする事の無い音に興味を引かれた住人たちが見下ろす窓の外を、賑やかな足音を

奏でながら一人の中年男が走り去っていく。

 その後ろに続く、モスグリーンの影。

 秋も終わりに近付き、流れる風に冷たいものが混じり始めた街の中を、グリーンのコートの裾を

はためかせながら駆け抜ける長身の男。

 先を行く、追い詰められ逼迫した感の男とは違い、どこか楽しそうな、余裕すら感じさせるその顔

に、不敵な笑顔が浮かんだ。

 走る彼の視線の先にあるのは、緩やかな曲線を描く右カーブ。

 追われる中年男の姿が、新築の住宅に埋もれるように立つ古い民家の向こう側へと消えた。

 それを見ていた追う男の顔に変化は無い。焦る事無く走りつづける。

 中年男の姿が曲がり角に消えてから数秒後、コートの男がカーブを曲がる。

 カーブを曲がりきった男の目の前に、正面を見詰め呆然と立つ中年男の姿が現れた。

 立ち尽くす中年男の更にその先で。追われる男に負けるとも劣らない必死な顔で、道を塞ぐよう

に両手を広げ立っていたもう一人の男が叫んだ。

「青島先輩!」

「真下!絶対に逃がすなよ!!」

 真下に青島と呼ばれた男の声が、密集した住宅街にこだまする。

 その声に前方の真下は一層緊張し、両手だけではなく体全体で道を塞ぐような姿勢をとり、行く

手を塞ぐ。

 全身を緊張させながら行く手を塞ぐ真下を呆然と見詰めていた中年男は、背後からの声に驚愕

の表情も顕に振り向いた。

 乗用車が一台通るか通らないかという細い道。

 行く手を阻まれた男の視線が、道を塞ぐ青島と真下の顔を忙しなく往復する。

 迷いはほんの僅かな間だった。

 再び男が走り出す。

 向かったのは、当然といえば当然。頼りなさそうな表情で、正面で両手を広げて立つ真下の方。

「えっ、ええええ!?」

 もうこれ以上は無いといった必死の形相で向かってくる男に思わず怯む真下。

 向かってくる中年男に対し、なけなしの反射神経と運動新鋭を酷使して彼が取った行動は…。

「う、うわ―――っ!」

「こ、こら!逃げるな真下!!」

 男の体当たりを間一髪で交わし、民家のブロック塀に、ヤモリやイモリやカエルのようにぺったり

と張り付いた真下に向かって青島の怒声が飛ぶ。

「だ、だって〜」

「だってじゃない!あああっ、犯人が逃げる!」

 慌てて壁から離れ、振り向いた真下の視界の先には、すたこらと逃げる犯人の後ろ姿。

「逃がすか!」

 鋭い舌打ちの音の後、陸上選手もかくやといった猛ダッシュをかけ、青島が犯人に迫る。

 しなやかな全身の筋肉をフルに活用し、獲物に襲い掛かる肉食獣の如く犯人との距離を一気に

ゼロに縮める。

 背後から迫る青島の気配を感じ、追われる獲物…もとい犯人の顔に恐怖が浮かんだ。

 その瞬間。

 モスグリーンの疾風が、一気に跳躍した。

「あっ、先輩!無茶は…」

 思わず叫んだ真下の声を遮るように、辺りに響く怒声と悲鳴と破壊音。

「駄目ですよ……って、ちょっと遅かったみたいですね」

 耳を劈く騒音が止み、再び静けさを取り戻した住宅街のど真ん中。

 やたら冷静に、ぽつりと呟き溜息をついた真下の目の前で。

 民家の間に立つ小さな駄菓子屋の店先で、道の端に積み上げられていた空き瓶や空き缶に埋

もれ、仲良く並んで道に横たわる二人の男の姿があった。

 

 

 その後、付近の住民から、騒音の通報を受けてやってきた警邏の巡査と共に、空き瓶の山に

埋もれた青島と犯人を総手で掘り出し、完全に気を失っている犯人を確保して、事件はようやく落

着した。

 騒ぎを通報した駄菓子屋の老婆は、騒ぎの原因が現役の刑事だったという事を知り、驚いてい

たようだったが、割れた空き瓶の破片でボロボロになりながらも、散乱した商品の片付けを手伝

い、叱られた大型犬のような顔でひたすら謝る青島を見ると、顔に刻まれた無数の皺を更に深くし

ながら微笑み、『ご苦労様』と一言いって、彼に両手一杯の飴玉をくれた。

 

 

 

 

その帰り道。

 署に帰るパトカーの中で、コートのポケットに詰め込んだ飴を取り出そうとした青島の手が、飴玉

の中に混じった違和感を感じて止まった。訝しみながらも取り出した飴玉の中に混じっていたの

は、色鮮やかな包装紙の中に隠れた深く澄んだ青緑の硝子玉。

「……ビー玉?」

 商品として売られているビー玉のように、美しい模様が刻まれているわけでも、宝石のように輝

いているわけでもない。 大きさだけは一人前の、無骨な硝子の真球。

 何故こんなものが。と、首を傾げた青島の脳裏に、先程の捕り物で駄菓子屋の店先に散乱した

昔懐かしいラムネの空き瓶が浮かんだ。

「そっか。あの時、ポケットに紛れ込んじゃったんだ」

 散乱した空き瓶の中には、原形を留めないほど割れてしまった空き瓶も幾つかあったのを思い

出す。

 おそらく犯人との格闘の最中、割れた瓶から飛び出したビー玉が、何かの拍子にポケットに潜り

こんだのだろう。

 掌の中に鎮座しているビー玉をしばし見詰める。

 走る車内の中。通り過ぎていく光を浴びて、微妙に色を変化させる小さな硝子玉。

「……」

 思いつくまま、飴玉に混じったビー玉を取り出し、車内差し込んでくる秋の陽射しにかざしてみる。

 彼の指先で、陽の光を受けてビー玉が青く輝く。

 その透明な煌きは、青島の心の奥に眠っていた懐かしい思い出を小さく揺り動かした。

 

 

 

 淡い水色の硝子瓶の中で、透き通った炭酸の泡に包まれて踊る硝子玉。

 瓶の縁にぶつかる度に、澄んだ音を響かせて転がる硝子玉。

 子供の頃、この小さなビー玉がどうしても欲しかった。

 ただビー玉が欲しいだけなら、玩具屋に行けば簡単に手に入った。

 だが自分が心から欲しいと望んだのは、決して取り出すことの出来ないラムネ瓶の中に浮かぶ

ビー玉だった。

 瓶を割らなければ手に入らない。

 だが瓶を割ることは出来ない。

 目の前に在りながら、手に出来ないもの。

 無いもの強請りだと笑われた。

 別のもので妥協しろと説得された。

 無駄な事だと呆れられた。

 それでも。

 欲しいと願い続けた硝子玉は、その後無事に自分の手の中に収まった。

 一人では無理だった。

 友達が一人、自分の願いに協力してくれた。

 二人で一つのビー玉を手に入れて、二人揃って陽に透けた一つのビー玉を見上げた。

 あの時の煌きが蘇る。

 陽の光を湛えて輝くビー玉。どんなに高価な宝石よりも美しかったあの煌き。

 あれから長い時間が過ぎた。

 手の中で輝く硝子玉を見詰め、ふと思う。

 あの煌きは、何処に行ってしまったのだろう…?

 

 

 

 懐かしい思い出の中と寸分変わらぬ輝きを放つ硝子玉を、暫くの間無言で見詰める。

 やがて、その顔に浮かんだのは、恐いもの知らずな無邪気な少年の笑顔だった。

「……ま、失くしたなら、また手に入れればいいんだよね」

 そう呟いて手の中の冷たい硝子玉を握り締める。

 無いもの強請り。

 無駄な事。

 妥協のない戦い。

 今も昔も、やっている事は変わらない。

 しかし、願い続けて行動すれば、望みは叶うとあの時知った。

 そして、自分は一人じゃない。

「頑張るしかないってことだよな!」

「先輩?」

 独り言にしては大きすぎる呟きを聞きとがめた真下の訝しげな視線を笑ってかわし、もう一度

手の中の硝子玉に視線を送る。

「なんでもないよ」

 首を傾げる真下を横目で見ながら、手の中のビー玉をポケットにしまい込む。

 暖かな光を感じて振り向いた窓の外には、あの日と同じ。爽やかな秋晴れの空が広がっていた。