Puppy Panics !
その二 室井さんと子犬(1)
ゆらゆらとまるで揺り篭の中にいるような気分が続いてる。
子供の頃、母親の胸の中で眠り続けていた時のように、暖かくて優しくて…。
聞こえてくるリズミカルな鼓動がまるで子守唄の様で。
気持ち良いなぁ…。ずっとこのまま、ここに居られたら…。
と、揺り篭の外から出される感覚。全身を包んでいた優しい温もりから、冷たい外気に晒されて思わ
ず身震いする。
寒さに震えた体に、何か暖かい物が掛けられたけど、一度感じた心細さに耐えられず。
俺は夢の中から逃げ出す様に、ゆっくりと目を開けた。
…あれ?
ここ何処だろう?
覚醒し切っていない目に映ったのは、やたらと広くて、でっかい部屋。部屋だけじゃなくて目の前に
あるテーブルも、向こう側に見えるクローゼットもテレビもオーディオセットも何もかも巨大で。
こ、ここはいったい何処なんだ?
俺は何でこんなヘンな所に居るんだ?
「……きゅう〜ん…」
湧き上がった不安に、思わず声が漏れる。
あれ?今の声って…オレの声…か?
ぼんやりとしていた意識が急速にはっきりとしてくる。
そうだ!今の俺は!!
慌てて体を起こし、纏わりついてくる布の塊から抜け出す。分厚いシーツみたいなそれは、たぶん
室井さんが俺に掛けてくれたタオルケットだろうけど…。
ああっ、もう!どうでもいいけど重いっ!!
なんとか這い出して、もう一度辺りを見回す。
視点や目に映る大きさは変わっているけど、間違いない。ここは室井さんの部屋だ。前に二度ほど
来た事があるけど、このテーブルや、今俺が寝ていたソファーにも見覚えがある。
『行く所が無かったら家に来るか?』
病院で室井さんに見つかった後、あの人は俺を抱いてここに連れてきてくれたんだ。確か、看護婦
さんに見つからない様にコートの中に入れてくれて…。
そっか。俺そのまま眠っちゃったんだ。だって、あんまり室井さんのコートの中が気持ちよくって。
子供の頃の事なんてあんまり覚えてないけど、揺り篭の中って、きっとあんな感じだったんだろうな。
ところで、室井さんは何処に行ったんだろう?
部屋の電気が点けっぱなしってことは、家の中にいるんだろうけど…。
聞き耳を立てて物音を探る。聞こえてくる水の音。
これってたぶん風呂に湯を溜める音だ。ってことは、室井さんはバスルームに居るってことかな?
しっかし、どうでもいいけど良く聞こえるよなぁ。といっても雑音いっぱいで煩いって訳じゃなくて。何
て言うんだろう?一つ一つの音が凄くクリーンに聞こえるっていうのかな。
ふむ。犬の耳ってこんな感じなんだ。知らなかったな。
頭のてっぺんに生えているであろう、耳を触ろうとして。
…失敗した。
「…きゅ〜〜〜」
前足一本上げただけで、何で顔面から転ばなきゃいけないんだよ。…どうもこの体はバランスが悪
い。頭が重過ぎるんだね。お尻もふらふらしてて危なっかしいし。子犬だから仕方がないんだろうけ
ど、これは慣れるまでが大変だ。
とにかくここでこんな事をしていても仕方がないので、一先ずこのソファーから降りる事にする。が。
…た、高い。
まるで高い崖の上から、下を見下ろしているような気分。
短い前足を必死で伸ばしても、床には全く届かない。
あーっ!もう、何でこんなに高いんだよ!子犬の事も考えてサイズ作れよなーっ!
やけくそになって、もう一方の前足も床に伸ばす。そして。
「きゃんっ!!」
…やっぱりこの身体って、バランス悪すぎ。
両方の前足を伸ばしたとたん、重心の狂った身体は重い頭に引き摺られる様に、見事にフローリン
グの床の上に転がってしまった。
全くこれで何回目だろう。この身体に移ってからというもの、顔面ばかり打ってるような気がするぞ…。
何はともあれ、床に降りる…というより落ちる事に成功した俺は、探検がてら室井さんを探すことに
した。
きちんと片付いているというより、もともと物の少ない簡素な部屋を見渡す。
前に来た時も思ったけど、ここってあんまり生活の匂いがしない感じがする。室井さんは寝るために
帰ってくるだけだとかなんとか言ってたけど…。
いろいろな物が散乱している俺の部屋とは大違いだ。
でも、なんだかちょっと…寂しいよな。
そんなことを考えながら歩き出した時だった。
「なんだ。目が覚めたのか?」
「わんっ」
室井さん!
バスルームのドアを開け、室井さんが出てくる。
お!珍しい室井さんの私服姿だ!
いつものぴしっと決めたスーツ姿も良いけど、私服の室井さんも良いよね。服のセンスも良いし、
スーツとは違ったカッコ良さがあって…って、これって惚れた者の贔屓目かな?
滅多に見れないその姿が嬉しくって、顔が綻んでくる。意識してた訳じゃないけど、気が付いたら小
さな尻尾も力いっぱい振っていた。
室井さんの手が、俺の身体を抱き上げる。
「目が覚めたなら丁度良いな。お前も風呂に入るか?」
はい?
「このままじゃ泥だらけだからな。一緒に風呂に入って綺麗になろうな」
……。
は、はいーっ!?いいいい一緒にフロ――――っ!?
ちょ、ちょっと待って!!そんないきなり!
「こら!暴れるなって」
だってそんな急に!
「そんなに恐がらなくても大丈夫だから」
違うんですっ!恐いんじゃなくて。…その…あの、心の準備というものがですね…!
「綺麗に洗ってやるからな、大人しくしてるんだぞ?」
俺の気持ちも知らず、室井さんは俺を片手で抱いたまま、さっさとバスルームに直行してしまう。
そして俺を脱衣場の床に置くと、これまたさっさと服を脱ぎ始めた。
うっわ―――――っ!!そんな思いっきり良く上も下も脱がないでよ〜〜。
人間のままの俺だったら、たぶん顔が真っ赤になってるはず。…もっとも人間のままだったら、一緒
に風呂なんて入る事は無いんだろうけど。
とにかく恥ずかしさのまま、逃げようとしてバスルームのドアを開けようとするが、子犬の力で開くよ
うな軟なドアじゃない。押しても、爪で引掻いてもびくともしない。
あーっ!!なんでこんなに頑丈に作ってあんの!?もう少し子犬の気持ちになって…うわっ!!
「いい加減観念しろって」
気が付いた時には、またしても室井さんの腕の中。
「きゅ〜〜〜〜ん」
情けない声だしても、室井さんが離してくれる訳なくて。
結局二人…いや、一人と一匹で風呂に入る羽目になってしまった…。
「ほら、気持ちいいだろ?」
…気持ちいいです。
「風呂なんて、ちっとも恐くないんだからな」
…別に恐かったわけじゃなくて。その…。
プラスチックの洗面器に少しぬるめの湯を張ってもらい、俺はそこに頭だけ出して浸かっている。
…バスタブにのんびり浸かっている室井さんに背を向けて。
「おい、こら。何拗ねてんだ?こっち向けって」
向けませ〜〜ん。
別に男同士だし、何も恥ずかしがる事なんて無い筈なのに、でも、やっぱり恥ずかしい。
自分でも意識しすぎてるとは思うけど、でもでも…。
「仕方が無い奴だな」
済みませんね…。
「それじゃ、そろそろ洗ってやるか」
えっ!洗うって…!
そこから先のことを想像して、逃げ出そうとした俺を室井さんがあっさり捕まえる。
「綺麗にしてやるからな」
「きゃん!きゃん!!」
いいですっ!もう十分綺麗になりましたっ!!
「大人しくするっ!」
は、はいっ!!
「…よしよし。良いコだな」
室井さんの声に思わず従ってしまう。…あぁ、これって殆ど条件反射だよ。
「お前って、人の言葉が解かるのか?」
そりゃ、中身は人間ですから。
「だとしたら凄いな」
すっかり観念して、大人しくシャンプーされている俺に、室井さんがいろいろな事を話しかけてくる。
優しい声。
この人って、こんなにお喋りだったんだ。
…初めて知った。
仕事中は勿論、プライベートで一緒に飲みにいった時だって、いつも喋ってるのは俺のほうで、室井
さんは自分から話し掛ける事なんて殆ど無かったから。
「何処か痛いところは無いか?」
痛いところ…は、別に無いです。
「一応、明日獣医に診てもらおう。もしかしたら何処か怪我してるかもしれないし」
御迷惑お掛けします。
「…何しろ、あんな大きな事故だったんだから…な」
俺を洗う室井さんの手が震えてた。
室井さん、もしかして人間の俺の事考えてる?
気になって、室井さんのほうを見ようとしたけど。
…止めた。
今の室井さんの顔…。見たらきっと俺は…。
「よしっ!そろそろ洗い流すか」
その声に沈みかけた俺の思考も浮上する。
反射的に見上げた室井さんは。
笑ってた。
「暴れるなよ。暴れて耳に水が入っても知らないからな」
はい。大人しくしまっす!
「…お前、ホントに人間の言葉が解かるんだな」
室井さんの言葉に応える様に尻尾を振った俺を見て、室井さんの笑顔がますます優しくなる。
あんたのこんな顔始めて見るね。
いつも眉間に皺よせて仏頂面してるくせにさ。なんだよ。こんな顔も出来るんじゃないか。
ホンのちょっとだけ悔しくなって、抱いている手に軽く歯を立ててやる。
「おい、こら。痛いって」
知らないよ。室井さんが悪いんだからね。
「この悪戯小僧が」
笑いながら室井さんが俺を抱き上げる。
この笑顔。
子犬にならなかったら見ることが出来なかった笑顔。
この人のこんな顔、他の誰も知らないよね。きっと。
…これって得した事になるのかな?子犬になっちゃった時は、死神の奴の事恨んだけど、まぁ…悪
い事ばかりじゃないね。
「何を喜んでいるんだ?」
えへへへ。秘密です。
「しょうがない奴だな」
室井さんが、俺を更に高く抱き上げる。あ、室井さんの笑顔がすぐそこにある。…って、室井さん
何処見てんの?
見下ろした形になった室井さんの顔は、俺の顔よりその少し下を見てて…。
「おっ!お前、オスかぁ!」
……!!
次の瞬間、俺は本気で室井さんに噛みついていた。
「いっ―――――っ!!」
室井さんなんて、もう知らねっ!!
つづく
前回までの第1章は、以前HPに掲載してたので、ここからがHP初掲載になります。
さてさて。共同生活の始りが突然の入浴シーン(笑)
そりゃ青島君だって驚きますわな。
あ、ところで。
室井さんは官舎住いなのに犬なんて飼って良いのか!?
などと言う突っ込みは無し…ということで(大汗)
是非是非宜しゅうお願い申し上げます(滝汗)