Puppy Panics !
その三 猿と猫と子犬(1)
「それじゃ、行ってくるからな。大人しく待っているんだぞ」
「わんっ!」
はいっ!行ってらっしゃい。
いつもの朝の、いつもの出勤風景。
規則正しい足音が遠ざかって行くのを耳で確認した後、リビングに戻る。
仕事に出掛ける室井さんを見送った後、部屋に残っているのは俺一人。後は何をしようと俺の自由。
今日は何をしようかな?部屋の捜索は出来るところは大方終ったし。
うーん、どうしようかな?取り敢えずTVでも観ようかな。
助走をつけて勢い良くソファーにジャンプ。更にそこからジャンプしてローテーブルの上に飛び乗る。
よし!今日はうまく行ったぞ。
この身体にも大分慣れてきたな。
最初は満足に歩く事も出来なかった身体だったけど、だんだんと扱いにも慣れて、今ではこうやって
テーブルの上に飛び乗る事も出来るようになった。
この身体が凄い勢いで成長してるってこともあるんだろうな。
自分でも日に日に足腰が強くなっていくのが良くわかる。
子供の成長って凄いね。改めて感動するよ。ホント。
…なんて考えながら、ローテーブルの上に置いてあるリモコンでTVを点ける。
小さな爪を立ててボタンを一つ一つそっと押す。
これも最初は、一度にいくつものボタンを押したりして、全く駄目だったんだけど、今は自由自在…
とまでは行かないものの、それなりに上手くなった。
何事も訓練だね。人間…って、今は犬だけど、やれば何でも出来るもんだ。うん。
などと、自分で自分を誉めながらTVを見る。
平日の朝。
ブラウン官の中から流れてくるのは、相変わらずよく解からない芸能ニュース中心のワイドショー。
妙にハイテンションなレポーター達が、まるで重大ニュースの様に次々と芸能人に関するレポートを
流していく。
朝早くから何であんなに元気なんだろうねぇ。何処の誰かが不倫して誰かと誰かがくっ付いて。浮気
がどうとか三角関係の縺れがどうとか。他人から見たらどうでも良いようなことばかり放送してる。他
にもっと政治とか経済とかに関する重要なニュースがあるだろうに…。
なーんて、この数日ですっかり芸能通になった俺の言う台詞じゃないか。
その他めぼしいニュースが無いかどうか一通りチェックした後、TVを消す。ついでに置いてあった新
聞も読もうかとして。
…止める。
実は、前に一度読もうとしたことがあったんだけど、ページは上手く捲れないし、紙面一杯に広がっ
た字を追うのは結構体力使うんだよね。
おまけに、読んだ後の新聞を上手く畳む事が出来なくて、ぐちゃぐちゃにしてしまった。
おかげで帰ってきた室井さんに悪戯したと思われて、散々叱られたのだった。
ホント、あの時は参った。
テーブルから飛び降りて窓辺に向う。
今日も世の中は平和そのものだ。
湾岸署の皆はどうしてるかな?相変わらずドタバタと走り回っているのかな?
晴れ渡った蒼空が、薄いカーテンの向こうに見え隠れしている。
今日もいい天気になりそうだね。
俺が室井さんの所に転がり込んでから四日。最初はいろいろ戸惑った。
そりゃ、生まれてから今までの32年間、二本足で歩く人間やってきた俺が、突然四本足の、しかも
子犬になってしまったんだよ?これを戸惑うなって方が無理って言うもんでしょ。
おまけに、どういう経緯か室井さんの家で世話になることになって…。
ホント人生って何が起こるかわかんないよね。
まさかこんな日が来るなんて、思いもつかなかった。
それでも日が経つに連れ、いろいろな事に慣れて余裕が生まれてくると、今度は今まで気付かなか
った事とかが見えてきたりして、俺はこの生活を結構楽しめるようになっていた。
それにしても、やっぱり一番以外だったのは室井さんかなぁ。
普段、三つ揃えのスーツをきっちりと着こなしたあの姿からは全く想像つかなかったけれど…。
室井さんは以外に大雑把な性格をしている。
仕事から帰ってきて、脱いだスーツをハンガーに掛けずソファーに放りっぱなしにしていたり、着替
えもせずスーツのままで、しかもエプロンを着けずに料理したり。
他にもTV点けっぱなしで捜査資料を読んでたり、風呂に入っててそのまま寝ちゃったり…さすがに
これはやばかったんで、慌てて起したけど。
とにかく、普段のあの毅然としたキャリアのイメージからは想像もつかなかった室井さんの実態。
あの人を神聖視している真下が知ったら、卒倒どころじゃ済まないだろうな。
でも。
そんな室井さんも俺は好きだ。
そりゃ、仕事中の室井さんは毅然としてて。一部の隙もない堂々とした態度で、本当にカッコイイなぁ
って思うけど、何も飾らない素の室井さんも、人間味があって大好きだ。
ただ遠くから憧れていた人が、今は凄く身近に感じられる。
もし子犬にならなかったら、あんな室井さんの姿、永遠に見れなかったかもね。
そう考えると、死神に感謝かな?
後はあいつが生き返りの手続きを早く終らせてくれれば、何の問題も無いんだけど。
…だけど。
窓辺から離れて、寝室に向う。
ドアの隙間に身体を捻じ込み、強引に部屋に入る。
薄暗い部屋の中には、室井さんの大きなベッドと、その脇に室井さんが作ってくれた俺用の小さな
ベッド。
小さなベッドの横を通り、大きなベットに飛び乗る。
ベットの上には、昨夜室井さんが着ていたパジャマが無造作に脱ぎ捨てられていた。
…全くもう、だらしないなぁ。
真下に言ったら、「そんなの室井さんじゃないっ!」とか言って泣いちゃうかもしんないな。
その時のことを想像して、可笑しくなってくる。
でも、これはやっぱり内緒にしておこう。本人の名誉の為にもね。
それに…。
これは、俺だけの秘密にしたいし…ね。
誰も知らない室井さん。
俺しか知らない室井さん。
俺だけの秘密。
俺だけの室井さん。
これって独占欲になるのかな?
……。
…笑っちゃうね。
振られた男が、何言ってるんだか…。
脱ぎ散らかったパジャマの上に丸く蹲る。
室井さんの匂いがする。
あの時のことを思い出す。
玉砕覚悟の告白だった。おそらく一生に一度の、ありったけの思いを込めて告げた言葉。
でもその言葉は室井さんに届く事無く見事に砕け散った。
あの時の、眉間にはっきりと皺を刻んだ室井さんの顔。
冷たい…顔。
恐くなる。
もしこのまま生き返ったとしたら、室井さんはどんな目で人間の俺を見るんだろう。
またあの時と同じ冷たい瞳で見られたら…。
生き返るのが…恐くなる。
あんな目で見られるぐらいなら、このまま『しゅんさく』として、優しい笑顔を向けられているほうがいい。
だけど。
病院で見たもう一つの室井さんの顔。
今にも泣き出しそうに眠り続ける俺を見ていた室井さん。
あれは?
あれはどういう意味なんだろう。
解からない。
生き返りたいけど。
でも、生き返るのが恐い。
俺…一体どうしたらいい?
教えてよ…。
………むろいさん。
つづく
またしてもヘンな所で切ってしまいました。
次回はおかしな二人が登場します。
一応事件の鍵を握る人物達なんですが…
さてさて?