法 則(神)

すべてのものを自由に選んで、その選んだものが何なのか解るようになっている。
善と言われるもの悪と言われるもの、全てが法則の中に組み込まれているものだ。
そして、自由に選択することによってその方向性を示しているように思う。
『善と悪は同じ所から出ている。』
『すべては神(法則)の現れである。』
これは内なる自分が言っていました。

内なる自分(神)

人は誰でも自分の内に魂の領域から来るもうひとりの自分を持つ。もうひとりと言うと自分以外のもののように思うが、それは本当の自分に他ならない。その自分こそが自分をより自由自在な方向へと導いてくれる。その自分と一つになって生きると、より心地よく人生を過ごす事ができる。
内なる自分は何も最近側に来た訳では無い。最初からずっと一緒に歩んできて、今も変わらず色々教えてくれる。皆、自覚のないままにその声を聞いて生きてきた。それは誰か一人のものではなく、すべての人にあるものだ。自覚が無くても自分の本当の声に従って生きている人はいる。しかしその反面、物質や形に余りにも捕われ、自分を見失って生きている人は多い。今の世の中の混乱は、又自分に帰る為の現象だと思う。

想 念

この世は想念で出来ている。肉体が全てと思えばそのように。意識が全てと思えばそのように。思っただけで実現してゆく。欲しい物を意識のままに引き寄せ実現させそして、確認して選んでゆく。
時代は意識の総意によって変化してゆく。

意 識

想念の基幹をなすものが意識。
人は自覚しようとしまいとその意識によって、その意識のように生きている。
苦しみは苦しみのように。喜びは喜びのように。その意識の基に現象は現われる。
現象は、自分の意識の投影なのだと思う。形がそれを教えてくれる。物を介し、人を介し。
意識は変えられる。簡単なことだ、思うだけでいい。その意識はいらないのだと思えばそのようになってゆく。変わりたいと思えば変わってゆく。変れないと思えば変れない。それだけの話し。
それでも「自分は、否定的、悲観的にものを考えてしまう。」と思う人は、『そうならないように気をつけようと思えばいい。』そこから意識は転換されてゆく。

自由自在

魂は本来自由自在。自由であって自在。簡単に言えば、どのようなものも選べ、実現してゆく力を持っている。
それが出来ないのは自らが規制をしてしまっている為に他ならない。
学ぶための現象は魂の自由性から呼び起こされる。

進 化

『ミジンコは最初は分裂して仲間を増やしていました。でも、分裂を重ねていくと、だんだんいろいろな機能が劣ってくるそうです。そこでミジンコは突然変異のように全く違うもの(異性)をある日生み出すのだそうです。それで今度は、その異質なものものと交わることによって、また全く違うものを生み出すそうです。そしてミジンコは、オスばかりが多いと自分をメスに変化させてそのバランスを保ち、交わって仲間を増やしてゆくのだそうです。』
確か何かのテレビ番組でこんなミジンコの話しをしてた。「へえ〜なるほどなあ。」と思った。人類もこうやって進化してきたのだなあと、今さらながらいろんな縮図が用意されていることに驚く。男女は本来は一つのものだったということが解かる。男女は進化する器としてこの地球では子供(肉体)が必要なのだなあということが解かる。人間が何故分裂という道を選ばなかったのか解かる。細胞の奥底の無意識の領域に、後退よりも進化を選んできた意識の総意が見て取れる。男女の間には、進化=子供というものが介入している。そしてそのこと事態が個々の進化の行程にもなっている。そのことから自分が今学ぶべき相手を引力(愛と呼んでいる、法則、神の力かな)を持って選んできているのが思い測れる。自分とまったく同じものでは、例え何百人居たとしても学んで行かれない。自分と違う他人がいてこそ進化という過程を辿ることが出来る。それが魂の総意であることが感じられる。
人類は確かめている。確かめながら進んでいる。それが例え一時的に後退しているかのように見えても、それが違うと心から思った時、又、違う道を確かめることになる。それが時代という大きな流れとなる。
行き着くところはたった一つだ。

愛とは何だろうか?良く言われることは『無条件の愛』というものだ。見返りを求めない愛。その代表として言われることは、母親が子供に対して向ける愛だという人がいる。
しかし、その無条件と呼んでいる『愛』というものの正体は一体なんなのだろうか?
そもそも愛とは何なのだろう。
私は『相手を自分と同じように思うこと』なのだろうと思っている。自分にするのと同じように、心配したり、考えるたり、思ったりして行動する。その行動は自分の持っているものに準じているだけで、行動そのもの、その表現事態は愛と呼ぶものではない。
又、自分を愛せないない人が、他人を愛する事ができないのもうなずける。
ではどうしてそのような事になっているのかといったら、前の[進化]の所でも述べたように、進化というものが関わっているからだと思われる。人は、もしたった一人であったら、(愛という糊のようなものが無かったら)果たして全くの他人を自分の事のように思ったりするだろうか。子供に至っては自分の血を分けた分身であるわけだから、自分と同じように考えざるをえない。他人から学ぶということが、一番やりやすい環境をつくり出しているように思う。はじめの一歩のようなものだと思う。
自分は他人だということ、他者と自分は同じだということ、他者が自分を教えてくれる、見せてくれる。そして、調和してゆくことを表しているのではないでしょうか。『自分以外のものを自分と同じように愛する事』が行き着く先は、人々が統合され調和する世界のように思う。分裂したものが又、一つに帰ってゆく過程なのだろう。
『無条件の行動』を愛と呼ぶかどうかについては意見の別れるところだと思うが、私はことさら愛と呼ばなくてもよいのではないかと思っている。むしろどうして『見返り』を求めてしまうか?と言う所に着眼したい。そこには損得感情や善悪の基準が働いているように思う。けれどよく考えてみると行動に損も得も無い。良いも悪いも無い。自分が勝手にそれを決めて勝手にそのように思って行動しているだけなのだ。損も得もなく自分が出来ることを出来る範囲でやってゆけばいい。
魂は多くの魂と交わりながら進化している。それが魂が自ら選んできた進化への道。
私は、魂は本来は自分が行動すべきときに行動し、その行動に意味を付けないと思う。本来そのようであるのに、人は勝手にそこに意味をつけ、行動を規制している。もうその規制はいらないのだ。
本当は、もうとっくに(最初から)そういう存在だったのだ。それなのに自分で規制を作っているのだ。本来の所に戻っていくだけだ。

男女の関係

この世には男と女しかいない。それは進化の為だということは「進化」のところで話した。そのために子供が介入していることも話した。男と女は生み出す為の性なのだと思う。
又、もともと一つであったものが又元へと帰る過程の様に思われる。
そして、共に今生を歩む相手でもある。よく人は自分の鏡だと言うが、自分が選んだ相手は、他でも無い自分なのだ。相手が自分を見せてくれる。教えてくれる。一番自分が学ぶために解りやすい人を選んできている。それはあらゆる意味でその人を選んだのだ。
自分が自分である為に他者はいるのだ。
大昔、この地球は弱肉強食だった。強いものが生き残る世界だった。その中にあって人間は(自分達の学ぶ器を増やすべく)種族を増やす為に役割分担を行った。男は外敵から身を守り、自分の家族を守る為に、体は大きく力も強くしてきた。女は子供を産み育てる為に体は柔らかく胸を大きく腰も大きくしてきた。人は自分達の子孫を増やすということがどういう事であるか、魂の奥深くで知っていたと思われる。人々は、弱肉強食の時代にあって自分達の子孫を残すべく、その中で優秀と思われる者を選んできた。男性にあっては、より体が大きく力があり、外敵から身を守ってくれる者を女性は好んだし、女性にあっては、子供を沢山産んで育てられる体系(安産形か)を男性は好んだ。そうゆう所に魅力を感じるようにしてきた。それは種を増やし進化していく為の選択であった。最初は子孫を増やすこと、自分達が学ぶ器としての肉体を増やす為に、かなりのエネルギーをさいたことだろう。弱い子供は直ぐ死んでしまう為、沢山子供を作った。
勿論それは今も変わっていない。ただ環境は著しく変わり、人々は昔のように猛獣や天災に身を脅かされることは、あまりなくなった。医療も発達し子供の死亡率もかなり違う。そうすると男性は大きく強い肉体でなくてもよくなったし、女性も子供の死亡率が減ったことで沢山子供を作らなくてもよくなった。そうすると今迄魅力に感じてきたものも変化した。人は進化の為、優秀なものを多く残すという意志が知らずに働いている。何を優秀とするかは、時代によって変わってゆくだろう。それに従って、人間の器としての形も当然変化してゆく。それは人々の意識の変化によって容易に変わってゆく。現代に於いては、外見、容姿、人気、お金といった内面よりは外面に魅力を感じる人が多い。
所が、よく考えてみると、人はそれだけでは自分の伴侶を選んではいない。男と女を結び付ける大きな要因は子供である。そして縁によって結ばれる。縁とは地球に来る前に約束してきたということだ。人は自分の好みより、縁が優先される。とすると、自分の相手を探して歩いたり、自分の優秀さをアピールすることなく、自分の相手と必ず巡り会うことになっている。そろそろ、その優秀さで自分のパートナーを選んでいないことに気づいてもいい頃だと思う。

生きる証し

人は生きている証しを求めている。自分の居場所、自分が認められること、その場所を探している。それは家庭であったり、学校であったり、社会であったり、自分の趣味の世界であったり、その人の持つものによって変わる。その時、良いと思っているものによってその居場所は変わる。
他者からの愛を受けることであったり、結婚であったり、会社での評価であったり、人気であったり、地位であったり、名誉であったり、正義の味方であったり、正しい自分であったり、解っている自分であったり、勉強ができる自分であったり---、そこに自分の価値を見い出そうとしているのだ。それらが生きている証しなのだ。これらはみんな同じ意識から出ている。形は人によって様々にいくらでもかわる。そうゆうものを手にいれることがまるでより良く、より安心して人生を送れることのように思っている。
たとえ、その証しを手に入れたとしても、そこには何も無いことに気づくだろう。
人生の成功。人生の勝者。一見他人から見れば羨むような人も、今度は手に入れたものを維持し、手放さないように人生を送る事はよくあることだ。勝者から敗者へ転落する事が恐くて恐くてしかたないだろう。 それは認められる事を求めて生きた結果なのだ。
いったい何が良くて何が悪いのだろうか?
結局は自分が勝手にそれが良いと思い込んでいるだけであって、本当はそこに良いも悪いも何も無いのだ。結果を求めて歩いたり、結果に捕われて生きることはとても不自由な事態を生む。
結果は後からついてくるものだ。そしてそれ事態には何の意味もない。評価は人が勝手に付けるものだ。
そんなものを気にするより、自分がやりたい事をやり、充実した人生を送る事。それで充分なのだ。

相 対

この世は相対に働くことが多い。それは人々の基準が“良いと悪”いという二足方向の判断をすることが多いからだ。もともと物事には良いも悪い無い。それを世の基準、自分の基準で良いと悪いに分けて見る。善と言うものを持てば悪というものを同じだけ持つ。これが良いというものを持てば、それ以外のものは悪いものになってしまう。たとえば流行などがそうだ。流行に乗らない人は流行遅れと言ってバカにしたりしてしまう。年令も若い人がいい。と思えば年寄りをバカにしてしまう。いじめ問題も然り。所がそこには落とし穴がある。結局は自分が今度はダメなグループに入らないように、いつも気を使って生きることになる。年令などは皆歳をとってゆく訳だから、必然的にダメだというグループに入ってしまう。これはマスコミや流通業界が視聴率や販売促進の為に行っていたり、競争社会の原理のようなものに振り回されているのだ。いじめにしても、人を中傷したり、バカにしたりする事によって、自分の優位性を確保しようとしているに過ぎない。そしていつも悪者を作り出す。
もうそろそろ相対の世界は卒業してもいいのではないかと思う。
良いと悪いの世界から、そういうもので人やものを判断しない世界へ行ってもいいもではないだろうか。
その価値判断は、すぐに変わってしまい社会の動向によってそのつど変わってしまう。
そういうものに振り回されて生きるより、少し力を抜いて、自分が本当にやりたいものをやってゆくということと、自分と違う他人を認めて生きることは結果的には自分が心地よく楽に人生を送る事ができるようになる一歩でもある。
善と悪、右と左、上と下、相対なるものは同じ所から出ている。人はそろそろそのまん中、本来のポジションに戻る頃だと思う。善と悪のまん中、右と左のまん中、上と下のまん中。それはニュートラルなポジションであり、仏教でいう空であり、ゼロと言っている人もいる。そこには全てがあり、また何も無い。全てがよく見渡せる所でもあり、必要なものを即引き寄せ、即手放せる所。握れば現われ放せば消えてゆく。
たいていの人は、何か問題や悩みなど起きて、ガツン!(気づきの音)ときてそれが違っていたと気づいた時、それがいけないと思って全く反対のものを選ぶ。そして又反対側で、ガツン!ときて又反対を選ぶ。そのことのくり返しで右に行ったり左に行ったりする。けれど少しづつその振幅が狭くなり(理解した分)やがてまん中へと辿り着く。

肉 体

この世で生き、学ぶための器。
そしてその肉体を保ち維持してゆくこと、生活を保つ(生きる)ことが基本になっている。
人はその為に働いてお金を得るということをする。勿論、お金がなくても肉体を維持することは可能だが。

霊能者(チャネラー)

不成仏霊(マイナス)の声を聞くのも、高次元の霊(プラス)の声を聞くのも霊能。どちらもチャネラー。霊能者はそれぞれの役割を果たす。片方だけではダメ。双方の霊能者は両方があることを知って歩むべきだと思う。苦しむものを助けることだけが良いわけでは無い。より高いものを見ることのみが良いわけでは無い。どちらが良い、悪いという問題ではない。何処と繋がるかは自分で決める。

戦 争(武器)

多くの人は戦争はいけないと言う。武器を廃絶しようと言う。けれど現象だけを無くそうとしてもなくなる事はないと思う。何故かといったら、人々の意識の奥底から出ているからだ。あなたは誰かを『あいつなんかいなくなってしまえばいい。』と思った事はないだろうか。あるいは人に傷つけられる事を恐れ、武装してないだろうか。牽制していないだろうか。結局はその意識が戦争を生む。武器を生むのだ。その意識が、国レベルでは戦争という形となって現われる。それは無防備に生きることの進めではない。本当は必要ないけれど、使わなくてはいけない場面がまだまだここでは有るかもしれない。それは気に入らない相手を排除してゆくということを良しとしている人がまだまだ多いように思うからだ。解って選ぶのと、解らずに使っているのとでは、全く違う結果になる。どの意識でやっているかということが大きなポイントとなる。排除するものは、排除されるものになり、排除されるものは排除するものになる。双方は同じ所にある。環境によってどっちらにでもなる。自分と違う相手を認めて生きることが必要だということが解る。自分を守っている人は人を攻撃している事が多い。『守るべき自分とは一体何なのか』をやってゆけばきっとそこから解放されるだろう。それは自分が一番よく知っている。本当は誰も自分を傷つけられない。少しも傷付いていない自分と出会うことだろう。自分が変われば世の中は変わってゆくのだ。

他人を認める

結局は自分と違う他人を認めてゆかないと、自分の居場所が狭くなり限定され、そこにしか居られなくなる。認めてしまった方が楽になり自由になる。
しかし、誰でも一人や二人自分にとって合わない人や、嫌な人がいるものだ。ではそういう人に対してどう接したらよいのだろうか?
100人いたら100人自分に合うということがあるだろうか?中には自分を嫌う人がいてもしかたのないことなのだ。100人いたら100人に好かれようと思うととても大変だ。人によって自分の接し方を変えなければならなくなる。又、全ての人によく思われたいと思えば、自分も又、全ての人を良く思わなくてはならないだろう。「私は、あの人とあの人は嫌いだけれど、皆は私の事を嫌いになってはダメ!」などということが通用するはずが無い。
だから人にまず好かれようということを、捨ててしまうことだ。そして自分を嫌いでいることをを認めてあげればいい。認めたところで自分は何一つダメになる事も、良くなる事も無いのだ。それで、自分を保つということをすればいい。自分の態度を変えないのだ。相手に影響されずに生きるのだ。相手と同じレベルにならなくていいのだ。自分で行けばいい。
そうすると結構相手が変わってくるものだ。そうやってみれば、人を憎んだり、嫌がって生きるよりずっと快適に生きられることに気が着くだろう。

子育て

子供は自立するように育てる。自分の責任に於いて選択し、自分の責任の元に生活できるように育てるのが一番良いと思う。だから親が何でもやってしまわないで、子供が自ら考えて決められるようにしてゆくのが良い。親はアドバイスをしたり、相談にのってあげる形が良いと思う。

先を見る

『今が良ければいい。自分さえ良ければいい。』その意識が今日の公害を生み出している。垂れ流し、使い捨ての先にあるものは何であったのか。今人類は知る事になった。『これを続けてゆくとどうなるのか。』と先を見る事が、結果的には自分達の為なのだ。

自分を知る

他人の事はよく見えるものだが、自分を知っている人は少ない。(これは表層の自分と言う意。自分が自ら作ってしまった自分。)多くの人は社会や教育によって本来の自分ではない自分を生きている。けれどもうその作ってしまった自分が、とても窮屈なものだということに気づいてもいい頃だと思う。
自分を知っているということは他人のこともよく解る。
又、自分を知っている人は強い。
自分を知るということは、何も難しい事ではない。自分が引っ掛かっている事。嫌だと思っていること、不自由だと思っていることを『どうしてそう思うのか。』とやってゆけばその原因に辿り着く。そしてそれが何であるのか、本当に必要なものであるのかをやってゆく。それが解れば自分を縛る一つの鎖がはずれてゆく。
私は自分を見ていったら、自分の中に『善と言われるもの、悪と言われるもの』ありとあらゆるものがある事に気が着いた。0.001%でもあればそれは有ると言う事で法則は忠実に見せてくれる。
それからは、自分の中から何が出てきても恐くなくなった。
又『こんなものが!!』と自分を攻めるより『どうしてそう思うのか?』というところに意識(エネルギー)を持ってゆけるようになってきた。原因が解ると少しずつ自分が軽くなる。いろんな自分を知っても自分を責めてはいけない。それがいけない事と自らが(社会が)決めているだけの話で、本当は良いも悪いもないのだ。
そうやってゆくうちに作ってしまった自分ではなく、本来の素の自分が現われる。
『神は全て(ありとあらゆるもの)が有るのに何一つ持ってはいない。』

病 気

人はあらゆる病気になる機能を自分の内に持っている。条件によってどんな病気にでもなる。癌やエイズ、風邪、精神病etc。全部自分の中から出てくるものだ。一つの病気がなくなったとしても、人は又違う病気を変わりに作り出すだろう。
多くはストレスによって自分が病気を引き起こしている。肉体的なもの精神的なものそれらのストレスが条件によって病気を引き起こす。だからだいたいの場合、その原因をさぐってそれを取り去れば(理解すれば)病気は消えていく。
『病気は必要。』と言っていた人がいたが、まさに病気は自分を知る為にあると思う。
人は肉体という船の舵をうまくとって、沈む事のないように人生を渡ってゆく。

どうやって生きる

結局、何を解っても自分がどうにかなるものではない。ただ毎日の日々がくり返されるだけ。偉くなる訳でも、高くなる訳でもない。もともとの所、本来の自分に戻ってゆくだけだ。
ただ自分が快適に日々を送れるということ。でもそれこそが一番なのだと私は思う。自分が何かを着て、誰かのように生きるのではなく、何もないただの自分を生きること、それが本来の姿だ。何にもなる必要はない自分は自分であるだけだ。宇宙でたった一人の自分であるのだ。

この世

『人間の本能といわれているもの、それは結局この地球での決めごとに過ぎない。』内なる私はそう言っていた。肉体がなくなってしまえば、それはなくなてしまう。
別の所に行けば、またそこの決めごとで歩んでゆく。

方程式

人は自分の方程式を持っている。1+1=2、5×3=15といったように自分の生き方も『こうすればこうなる。』、『これはこうなるはずだ。』、『こうでなければならない。』というものを使って生きている。それにあてはまらないと相手を責めたり、非難したり、攻撃したりする人もいる。
方程式を持っているということは、自分の中に枠を持っていることでもある。社会の枠や自分の枠にあてはめて人を判断すること、それは又自分をもその枠に当てはめて自分を判断しているに他ならない。枠を持っているとその枠以外のものは、例えそれが自分にとって必要と解っていても選ぶことができない。それを選んだら自分がダメになってしまうと思うからだ。
方程式や枠を持てばその狭い枠の中で生きる事になる。自分も他人もそこに縛ってしまう。
その枠や方程式はもういらないものだ。それは勝手に自分が作ってきたものだ。その方が安全に生きられると信じて。でも人はより広い大きな世界で生きることができる。無限の世界で生きる事が出来る。枠を外せば、必要なものは自由に選ぶ事ができる。全てが自分の範疇におさまる。
その方がより快適に生きられると私は思う。

知るということ

知っていることと理解していることは違う。本を読んだり人から聞いたりしたことは、そのままでは知識に過ぎない。それを自分の生活で実践してこそ本当に自分のものになる。
知ったことを理解につなげてゆくことだ。

夢は自分を教えてくれる。起きている間によく学んでいれば、あまり夢は見ないようだ。
寝ている間どこかで学んでいるらしく、起きてみると気になっていた事がどうでもいいようなことになっていたりする。

否定と肯定

否定と肯定、ネガティブとポジティブ。
よく肯定的にポジティブに物事を考えるということをよく聞く。前向きに考えることはいいと思うのだが、ひとつ気を付けたいのは、自分の都合のいい様に良く解釈するのは違うということ。そこには自分のエゴの部分が多分に含まれてる。
もともと現象は中立であって良いも悪いも無いのだ。起きている事をそのまま捕らえればよいことで現象を肯定的にも否定的にも捕らえる必要は無い。
そのままをそのまま受け取る。そして自分のものにすればいい。
内の私によると『前向きに生きる。』という意識状態が『本来の自分の状態』に近いそうだ。

お 金

生命エネルギーの形になったもの。
大昔は物々交換だった。自分の生命エネルギーを使って作物を作り、あるいは狩りをし、あるいは漁をし、果実を収穫し---それらを交換したのが始まりだった。交換したことにより役割分担がうまれ、物の価値というものが出来た。
それは人々の知恵だった。一人で 衣・食・住 を全てまかなうのは結構大変だが、皆で得意な物を持ち寄れば割合楽に出来る。
これは自分のエネルギーをお互いに交換しているのだ。そのエネルギーをお金という形にしただけのものだ。このことから、お金は自分の出したエネルギーであることが解る。最初は生活全般から成り立っていたのものが、より多くの人を巻き込む事により余裕が出来、嗜好品やその他様々な物をつくり出し手に入れるに至った。現在に至っては、お金を得る手段は星の数程あり又自由につくり出す事も出来るようになった。
お金自体は単なるエネルギーに過ぎない。物に価値を付けたのは人間だった。しかし人々が、より多くの人が求めるものに高い価値をつけたのも、生きるためには必要なことだっただろう。
自分の出したエネルギーが、お金という形になって帰ってくるだけだ。たくさんのエネルギーを出せばそれだけお金も入ってくる。それだけの話しなのに、時にお金は悪者になってしまったりしている。「お金が欲しい。」と思いながら、一方では「お金を沢山得ることはいけない事だ。」と思っていたりしていると、アクセルを踏みながら一緒にブレーキを踏んでいるようなものだ。だから出したエネルギーに見合ったお金が入ってくる訳が無い。多くの人は自分の出したエネルギーに自ら価値を決めている。お金に関して言えば、法則はそのように働き、そのような金額を手にする。
世の中のお金持ちは、それなりのエネルギーを出しているし、お金を悪いものなどと思ってはいないだろう。宝くじなども、たとえば一億円当たったとしても、労働という形ではなくてもそれなりのエネルギーを出している。それが楽しいものか、嫌なものかは問題では無い。(その人の持つものによる。たとえば、色々な人から「お金を貸してくれ。」と言われ苦慮したり、金融機関などからの預金の誘い。その他諸々。そのお金を手にして発生したものだ。)
自分の出したエネルギーは、そのままその金額を手にするに値する。それは当たり前なのだ、手に入って当然の金額なのだ。それは自分の生命そのものなのだから。
人はその生命エネルギーを使って様々なものを自分のもとに引き寄せることができる。
勿論それはお金という形でなくても、人は常に自分のエネルギーを使って様々な現象を引き寄せている。
『生きる』ということはそういう事なのだ。

洗 脳

世の中は『これがいいんだ。』『これが正しいんだ。』という情報がまんえんしている。
私達は、何の抵抗もない赤ちゃんの頃からその情報の中で暮らしている。無意識の間に、いろんなことをインプットされてきた。親からは「親の言う事を聞くいい子」になるように「勉強ができる子」になるように、だいたいは世間の常識といったものを『これがいい。』と押し付けられる。(実際には世間の常識というものを知った上で、自分の力で選択できるようにするのがよいと思う。)
テレビや雑誌といった媒体は、視聴率や購読部数を上げる為に『これがいい、これが正しい』というものを意識的に作り出している。新聞や雑誌、流行などもしかり。勿論それが悪いと言っている訳では無い。
しかし多くの人は、その情報を受け入れ、それを楽しんでいる迄は良いが、振り回されていることが多い。とくに子供の教育の場ではそういった既成のものを押し付けられ、本来の自分ではない自分を生きなければならないことになったりする。
世の中の混乱はそういったものを良しとして、自分と違う自分を生きてきたことが修正されていく現象なのだろう。そういうものを容易に受け入れず、まず自分の中で噛み砕いて見てゆく事が必要だと思う。その上で本当に自分にとって必要なものを選択することだ。自分が本当に自分らしく生きる為に。