自分の行動に見返りを求めるということはどういうことか。私は、人は本来は行動に見返りなど求めずにあらゆる行動ができる存在だと思う。それなのにどうして見返りを求めてしまうのか。そこは損得の意識が働いている。自分の出したエネルギーに対しての見返りを相手に求めるということは逆に言えば、見返りが無いと行動しない、行動できないということになる。これは自分の行動を規制していることだ。例えば、出先である家の前を通りかかったら、ゴミ箱の近くに火のついたタバコがころがっていたとする。見返りを求めている人は、自分にとってそれを消しても何の得にもならないと、通り過ぎてしまうだろう。その為にその家は全焼し、何人もの死者が出るかもしれない。そういう人は自分には関係ないと言い放ってしまうだろう。これは解っていても出来ない状況を自分でつくり出しているのだ。本来の自分は、どのような場面でもどう行動すればよいか解っている。所がそこが解らないというこは、自分の中の自然な行動を阻害するものを自分が持っているということだ。解らないのはマヒしてしまっているのだ。人は見返りなど求めなくても自分の出したエネルギーは、循環してまた自分の元に帰ってくる。そのこと事態に損も得もない。得と思うことも損と思うことも自分で勝手にそう思っているだけだ。自分がやりたいことをやってゆくのがいい。それはやるべき事かも知れないし、やった方がよいことかもしれない。しかし、自らが規制してしまったものを指して、やりたくないものと言わないでほしい。人はもっともっと色々な行動ができる。もっともっと自由に行動できるのだ。
一、
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頭の力を抜く。 | 頭で考えている時は頭に力が入っているものです。 |
一、
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心の力を抜く。 | 心、これは自分の解りやすい表現でいいと思います。例えば、意識、精神など。 |
一、
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体の力を抜く。 | リラックスするということです。タコの様になることではありません。 |
地球で肉体を持つ我々は、生きて学ぶ器としての肉体を存続させるということを基本にしている。勿論そうしなければここで(地球)学ぶことが出来ないからだ。その為にあらゆることが設定されている。セックスが気持ちよいのも子孫を残す為の感覚だし、刃物で手を切れば痛いと感じたり、病気で苦しむのもそのままにしておくと死んでしまうから痛みや苦しみがあるわけだ。そうやって死なないように警告することで生きる事を示唆しているのだと思う。何かの事故にあっても、生きる可能性がある限り、反射的に生命を維持する行為をほとんどの人は取るだろう。人は自分の肉体的にも意識的にも生きるということをインプットして存在する。
この世のものは、全て朽ちてゆく、無くなってゆく運命にある。この地球も。全てがいつか無に帰するのだ。人間もいずれはこの世を去り肉体は朽ちてゆく。言い変えればこの世に生まれ落ちたその時から自分のまわりから少しずつ何かが去ってゆく。それはどういうことなのかといったら、本当は得たと思っているものは実は何も無かったということなのだと思う。何かを身に付け、いっぱいいっぱい自分のものにして、それを維持しようとしても、本当は何一つ自分のものになってはいないということなのだと思う。勿論これは逆の言い方も出来る。総てが自分のものなのだと言い換える事も出来る。形は無くなっても、全ては自分の内にあるからだ。そして自分の内から出て来ているものだからだ。だから無くなっているように見えても実は何一つ失ってはいないのだ。しかしもはや自分の内に留めて置かなければいけないものは何一つとしてないのだと思う。留まっているものは何一つとしてないのだ。
形というものは、人間の内側を表しているに過ぎない。自分が身に付けて来たものを、一つ一つ捨ててゆくこと。それをこうやって形から学んで(知って)ゆくことをやっているのだと思う。
肉体生命(命)もその一つの形として存在する。