食べる

食べることによって肉体を維持する事。それはこの世では(特殊な人を除いて)当たり前のことだ。その為に法則は様々な物を人間に与えてきた。人間の口に入るものはみな命のあるものである。そうすることによって人間は肉体を維持している。人間は、生きる為に他の生命を奪って生きているようにも思える。食べることは勿論、たとえば歩いているだけで道に居る虫達を踏んでいる。水を飲めば水中の微生物を飲んでいるだろう。勿論それは人間だけでは無く、地球の生物はみなそうやって生きているのだ。
これは、そうすることよって共に生きるということなのだと思う。自分の肉体を提供することによって他者の中に自分が生きると言う事なのだと思う。食べるとは、他者を受け入れ(食べる)自分の中で消化し(理解)供に生きることなのだ。そしていらないものは排泄し、それが又食物を育てることによって、又自分に帰ってくるのだ。エネルギーを与えてくれたものに感謝して食せばよいと思う。
自分以外の人間が沢山いるように、食物も沢山の種類がある。それはあたかも人間の多様性を示しているように思える。人が口に入れて生命を維持できるもの、美味しく食べられるものは、それは食べていいということだ。地球は人間にあわせて作られているからだ。動物の肉は食べてはいけなくて、野菜ならいいと言う論理は魂を差別化している。自分の体にあわないものは食べるべきではないが。自分の体が求めるものが自分が食べるべきものだと思う。そのように思っていればそのようになるのも事実だが。

現 象

意識が現象をつくり出す。先に意識があってそれに基づいた現象が現われる。それは決して反対にはならない。現象が先にやってくる事は無い。
しかし自分がどんな意識でいるか、どんな意識を持っているかということを解る人は少ない。『自分を知る。』ということをやっていくと、自分がどんな意識でいるのか解るようになる。私は一時、喋る度に自分の意識が解ってしまって辛かったことがあったが、良いと悪いの基準をなくしてゆくと共に、自分を攻めるよりそのエネルギーを『どうしてそう思うのか。』という所に持っていった。原因が解ると、自分がとても楽になった。
しかし、なかなか意識の全てを把握できる訳ではない。ではどうしたら良いかといったら。現象を見てそこから探っていけばいい。『どうしてこういう事になったのか。』ということを見てゆけばいい。それが解らなかったり間違っていたりすると又、同じ現象が起るから又そこからみてゆけばいい。解るともう同じことをくり返す必要がなくなるので、同じ現象は起らなくなる。
法則はうまくできているものだ。

見返り

自分の行動に見返りを求めるということはどういうことか。私は、人は本来は行動に見返りなど求めずにあらゆる行動ができる存在だと思う。それなのにどうして見返りを求めてしまうのか。そこは損得の意識が働いている。自分の出したエネルギーに対しての見返りを相手に求めるということは逆に言えば、見返りが無いと行動しない、行動できないということになる。これは自分の行動を規制していることだ。例えば、出先である家の前を通りかかったら、ゴミ箱の近くに火のついたタバコがころがっていたとする。見返りを求めている人は、自分にとってそれを消しても何の得にもならないと、通り過ぎてしまうだろう。その為にその家は全焼し、何人もの死者が出るかもしれない。そういう人は自分には関係ないと言い放ってしまうだろう。これは解っていても出来ない状況を自分でつくり出しているのだ。本来の自分は、どのような場面でもどう行動すればよいか解っている。所がそこが解らないというこは、自分の中の自然な行動を阻害するものを自分が持っているということだ。解らないのはマヒしてしまっているのだ。人は見返りなど求めなくても自分の出したエネルギーは、循環してまた自分の元に帰ってくる。そのこと事態に損も得もない。得と思うことも損と思うことも自分で勝手にそう思っているだけだ。自分がやりたいことをやってゆくのがいい。それはやるべき事かも知れないし、やった方がよいことかもしれない。しかし、自らが規制してしまったものを指して、やりたくないものと言わないでほしい。人はもっともっと色々な行動ができる。もっともっと自由に行動できるのだ。

自分を責める人へ

自分なんかダメだと思っている人。自分はダメな人間だと思っている人。自分なんか居ない方がいいと思っている人。良い事なんて何も無いと思っている人。自分は悪い、ひどい人間だと思っている人。あらゆる理由で自分を責めている人。
そんな人は思い出してほしい。あなたは、本当は素晴らしい人間で、愛情に溢れていて、光り輝く人であるということを。今の自分と正反対のそんなあなたがいるからこそ、あなたは苦しんでいるのだ。悩んでいるのだ。そうでなければ苦しみはしない、悩みはしないのだ。安心していい。あなたは美しく気高く、素晴らしいものを持っているのだ。人を羨む必要も無く、自分を攻める必要も無い。
あなたは今一つの現象の裏側を学んでいるだけなのだ。学んでしまえばもうそこに居る必要はない。
人は皆二面性を持つ。良いだけの人は居ないし、悪いだけの人も居ない。
前にこんな話を聞いたことがある。
『100人の人を集めて良い人と悪い人に分ければ、良い人50人悪い人50人に別れるだろう。その50人の良い人を集めると、又良い人と悪い人半分づつに別れる。又その25人の良い人を集めると、又半分づつに別れる。これをえんえんくり返す。』良い世の中にしようとしても、絶対に良い世の中になんかならないことがよく解る。
あなたは、良い世の中にしようとしている人々にとっては、その半分の悪い人50人である。けれどその良い世の中にしようとしている人50人を集めてみれば、また良い悪い半分に別れてしまう。そんなものなのだ。何の実体もない。
だから自分を責めてはいけない。
それでも辛いのなら、自分の中にある素晴らしく、美しく、愛情深い部分が確実にあることを思えばいい。
そうして自分の中でバランスが取れたなら、暫くして自分のまん中(中心)に納めてほしい。世の中の基準で自分で自分に価値をつけてしまったことを。そんな自分を許してあげてほしい。自分で自分を責めてきた日々を許してあげてほしい。あなたは何一つ失ってはいないのだ。
ダメな自分を生きるのではなく、良い自分を生きるのではなく、本当の自分を生きることだ。
自分は誰であったか思い出してほしい。
あなたはいつも、はじめから『神』であったことを。

性を着る

魂は肉体に宿った時から、その肉体の持つ性を着ることになる。
しかし多くの人はその性というものに附随する『決めごと』のようなものに影響され生きている。
『決めごと』とは女はかくあるべきだ。男はかくあるべきだというものだ。
女(男)として生まれると小さな頃から女(男)とはこうあるべきだというものを植え付け(洗脳)られていき、女らしい人が良いとされ、男らしい人が良いとされる。
例えば、『女は優しく、美しく、か弱く、温かく、母性的、等々。』 
    『男は強く、たくましく、頼りがいがあり、優しく、包容力がある、等々。』
勿論これは人によっても違ってくるが、結局人々はそういう性に附随するものに、大きく左右されて生きている。性に附随する意識というものを自分にまとっているのだ。そしてそれを当たり前のようにしている。人はその『決めごと』を若い時や、特に結婚前にはよく意識的に使う人が多い。それをまるで売り物のようにしている人もいる。地球上で生活してゆく上で、そういうものが必要だったこともあっただろう。しかしそういった『決めごと』はもういらないのではないだろうか。
ずいぶん前になるがアメリカで女性解放運動というものが盛んに叫ばれていた頃、一方で男性解放運動というものが起こっている。と言うニュースを見たことが有る。そのセミナーで父親と息子が肩を抱きあって泣いている場面が紹介されていた。「男は強くなければならない、泣いてはいけない。」という意識を手放す場面だった。その頃はまだ若かったので、『男の方が自由でいいな。』と思って居たのでそんなニュースを見てビックリしたものだ。男性も女性も結婚前は好んで使うが、やがてその意識が重荷となってくるのが良く解る。自分がつくり出したものに、自分が縛られるということだ。
そういう意識でやっていると(『決めごとを』使って相手をゲットする。)、結婚してその相手をよく知ってみたら、『全然違ってがっかりした、騙された、嫌になった。別れたい。』ということになる。
これは性を否定したり、男女の役割分担を否定するものではない。その性というものに附随する意識が、本来の自分で生きる事を阻害しているように思えるのだ。特に現代に於いては、そうゆうもの(『決めごと』を駆使する。)を有することがすごく得するかのように思われている。そうゆうもので、より良い人生が送れるかのように思っている。

もうその基準はやめて、『ありのままの相手を愛する。』という基準に変えてゆく方が、より快適な人生を送れるだろう。女であること、男であることをことさら強調するものでもない。

一体感

一体感というものがある。以下はその体験談である。
私は以前宗教団体の中で太鼓をたたいていた。
日本一の太鼓の先生と言われるような、個人ではとても習えないような先生に教えてもらっていた。
教えはとても厳しいもので、男も女もなく、『干上がるまで打て!』とよくいわれました。マメの出来た手に又マメが出来、手のひら全体が太鼓を打つ度にズルズルとよれていくのがわかるといった状態がよくありました。限界から始まるようなそんな太鼓でした。
4人で打つ太鼓で鉦が数人といった編成でした。肉体的な限界の中で、それでも4人の意識を合わせて打つという事をしていくと見えないものが見えてくるものです。その一体感がすごいのです。
自分の打つ太鼓の面しか見えていないはずが、他のメンバーの顔がパーっと浮かんできて、皆が何を考えているか解かったし、自分が絶対音やリズムを外さないということが確信をもって解るのです。
それで100%も200%も自分の力が出せるような気持ちになります。しかし体は熱くなっていても、自分の意識はとても冷静なのです。そんな人がメンバーの中に2人いると、他の人を巻き込みすごい事になります。それは見ている人も巻き込み、絶賛の嵐となります。
以前に何かのラジオの番組で、オーケストラの奏者の人が話していたのですが、しばしば『神が降りてくる』というのです。そういう時は自分は絶対間違えないことが解ると言っていました。皆が一つになり、神が降りてきたとしか思えないような状況になる。ということです。
人が一体になるということは、かくもすごい世界が開かれるものなのだということだと思います。
体力の限界などから自分のエゴの部分が全く無くなり、空の状態になったのだと思います。そうすることによって自分の本来の繋がっている部分が出てきたということです。何ごとも我を捨てて取り組めば素晴らしい世界が展開するということです。
そういう事を経験すると、何気ない普通の生活の中にもそういうことが起っている事に気が付きました。ケーキ屋さんのアルバイトで、狭いデパートのブースで大勢のお客さまを皆で対応している時、皆一体で作業をしているのに気が付きました。そういう時はうまく流れて滞りがありません。それがとても心地よかったのです。
他者と一体になることは、何かをすることでもなく自分の足元にいつもあるのもです。
それは言いたい事を言い合えない事ではありません。言いたい事を言い合ってなおかつ、それは決して失われないものなのです。なぜならそれは相手に合わせるものではないからです。相手の意見を聞かないものからは調和は生まれません。それは相手を受け入れる前に拒否をしている状態です。相手に合わせるということは相手を拒否することになるからです。
調和や一体を目指すからこそ、お互いが自分を偽る事無くさらけ出して生きること。それが本当の世界を生きることになります。
統合され調和された一体の世界は自分の内に常にあります。

何処に行くの?

人は皆何処へ行こうとしているのだろう。良い場所は無いかと探している?自分の居場所を探す?自分が理解した人間だと解る様な場所(良いところ)?けれどちょっと待ってみよう。現実逃避をしていないだろうか?本当に学ぶべきものはいつも自分の足下にある。自分にふさわしい場所に行くのではなく、何処にでも居られる自分になることだ。(無理して我慢するという意ではない。)そうなればこの地球上どこでも自分の居場所になる。そうすれば自分にとって居心地のよい場所は向こうからやってくる。
しかし、間違ってはいけない。これを方程式にとらないでほしい。
人はいろいろな理由で移動するものだ。動くことが必要な場合もある。時には移動することで苦しみを手放すこともある。肝心なのは、何処を基準に判断するかということだ。自分がそこで何を学ぼうとしているのかが解れば一番いい。内なる自分を基準にしてゆけば、より快適な方向性を得られるだろう。

過去・現在・未来

この世では時間の流れがある。しかし全く時間の流れに左右されない自分(内なる自分)というものがある。その自分が肉体というものを着ていつも今を生きているだけだ。過去・現在・未来という言葉はあるが、よく考えてみると自分と言う存在はいつも今しかない。今と言っている間にもどんどんと過去になってゆく。いつもその一瞬の今に生きている。言い換えれば今の自分が時間の流れを生きている感じ。それはさらに言い替えれば(時間という概念を外せば)過去・現在・未来は同時に起っているということだ。
しかし時間の流れを意識すれば、過去は記憶になり自分の中にのこるだけだ。記憶は意識になり現在から未来を作ってゆく。
たとえば過去に何か傷を受けたこと、それはそこから現在を通って未来に影響を与える。
仮に、幼少の頃に親に虐待を受けた子は、それがトラウマとなって未来に暴力を振るう夫を持つことになったりする。そして自分の子供に対して暴力を振るったりすることもしばしばだ。兄弟の中で自分だけが虐待受けていたりすると、それはより色濃いものとして現われる。これは極端な例だが、こういうことが多分に見受けられる。(実際には一つの意識ではなく、いろいろなものが混ざって現象は起きている。)
これは、最初に自分がそういうものを持っている為に起きている。だからそういう人を引き寄せているのだ。他人によって自分を見せられている現象なのだ。気づいた今、自分を変えてゆけばいい。そうすれば過去も現在も未来も変わってゆく。
傷はそこ迄(原因)自分が遡って理解することが必要になる。それが何であったか理解してゆくことだ。傷が傷で無くなった時(過去が変わる)、今から違う人生を生きるきる事になる。(未来が変わる)
しかし現象は過去の出来事による自分の意識というものが大きく左右しているにしても、未来からの現象も同時に起きている。
これはどういうことかといったら、肉体に左右されない自分(内なる自分)は自分にとって必要なものがよく解っているからだ、それはしばしば表の自分にとっては厳しいのであったり、つらいものであったりする。しかしそれは自分次第でどうにでもなることなのだ。
自分がすべて決めてきた。自分が理解すべきことを中心に、時間軸のもとに現象は起っている。(視点を変えれば、理解している自分が、時間軸の上に居る。)
時間というものが無かったたら、過去・現在・未来も同時に起きる。
同じように、輪廻というものも地球での時間の中に出来ているものだ。時間が無ければ、地球に何度生まれ変わってきても、やはり同時(次元は違う)に起きている。時間を取り外してしまえば、人は多次元に生きていることが解る。

頭 脳

頭の良い人、記憶力の良い人、頭の回転が良い人、等々、頭のよい人が人間として優れているように思われている。所が社会に出てみると、あながちそれが仕事ができることと繋がらないことに気づく。
頭脳は自分の経験を記憶しておく所である。実際の現象は自分の方程式通りにはいかないものだ。人生を切り抜けてゆく本当の力は頭脳にはない。
現代人は頭脳を使って『あれが良い』とか『あれが悪い』と決めて来た。それはほとんどが頭脳の判断である。相対的なものや、方程式になってしまった思い込み、『ああじゃないか』『こうじゃないか』という想像。すべて頭脳でやっていることだ。頭脳は自分の経験以上のものは出てはこない。
頭脳を超えるもの、それは自分の内側にある。源へと続く内の自分が、自分のあらゆる経験を超えて自分の存在を教えてくれる。本当の自分は頭脳の中にはいないのだ。(内の自分が頭脳に知覚させるが、それは言葉ではなかったりする。)
頭の判断から内側の判断に変えてゆく時だ。頭脳からのものを知覚するには、頭脳を使わなければほぼ知覚できないが、内なるものから出てきたものは、だれが聞いても何も考えずにスンナリ自分の中に入ってゆく。物事を複雑にしているのも頭でこねくり回していることが多い。頭でないところでやってゆけば、物事はもっと単純になり、本来の自分が見えてくるだろう。

美容整形

最近は美容の為に整形をする人が増えてきた。社会全体がそれを良しとする傾向が得に最近大きくなってきた。しかし人は本来意味があってその姿形に生まれてきている。自然であること、それが一番なのだ。その自然な形を(あるべき形)を無視してしまうとその歪みが他に出てくる事になる。例えば歯列矯正もその為に普通の性格だった人が、精神的な問題を抱えるようになってしまったりする。一見反対に見えるが、人によってはそのようになることがある。人間は様々な形でバランスを取っている。
私の知っている人なのだが、その人は心臓が悪くて17才迄生きられないと言われていた、所がよい医者に恵まれよい薬とも巡り会い心臓はよくなったのだ。しかし、その人は今度はアトピー性皮膚炎になってしまい又苦しむことになった。
これは形が変わっただけなのだ。その人が持つものが、心臓病になったりアトピー性皮膚炎になったりしてその形を通して教えていることなのだ。
要は、どのように形を変えても、外見的なものを取り除いたとしても、根本的なものは変わらないという事だ。そこを変えない限りはそこを知らせる現象はなくならないだろう。
人は本当に完璧な機能を備えている。
形というものを重視する人はまだまだ多い、形は大切だがそれよりもっと内面に目を向けたほうがよいのではないだろうか。何と言っても、内側が外側を形作るからだ。
私の目には、どんなに外見が整っていようと、美しく感じられない人が多い。逆にそれ程顔だちは整っていなくてもなんとも言えない魅力が滲み出ている人が居る。そういう人は男女を問わず、ジッと見入ってしまうから不思議だ。その人の精神性は顔に出る。(特に目の周辺)容姿いかんではなくそういうものに私はとても引かれる。
自分の容姿に振り回されている人は多い。
外見というものを自分の中心にすえて生きればそういう現実しかあらわれない。その意識はもういらないのではないだろうか。何も身につけない自分で生きる事が、より自由であり快適だと私は思う。

自分と繋がる

では内なる自分と繋がるにはどうしたらよいのでしょうか。
しかしその前に、皆もともと繋がっているという事を言っておかなければいけないと思います。
内なる自分の声、それは第六感と呼ばれたり、良心の声と呼ばれたり、虫の知らせと呼ばれたり、インスピレーションと呼ばれたり、言われ方は様々です。こう言うと、どんな人も思い当たる節があると思います。
私自身は、精神世界を知るずっと以前から自分の内に道標の様なものがあって、いつもそれを感じて生きていました。私はいつもその道標にそって生きていたようなものです。と言うと、何かとてもすごい事のように聞こえるかもしれませんが、何の事はない、自分のやりたい事をやっていたというだけです。でも何だか自分がこれでいいんだというものを何時も感じていたわけです。だから人生とても充実していたし、とても楽しく生きていました。これはバシャールが言っている『ワクワクすることをしなさい。』ということの実践をしていたのだと思います。ワクワクすることが自分が選んで来た事のヒントだということなのでしょう。
内の自分から来た事は、スンナリと納得できるものです。それは直ぐに、それが行くべき方向なのだということが解ります。しかし頭の判断でずっと生きて来た人は自分の経験のみから判断しますから、内側の自分が『そっちではない。』と言っても、「いや、これはこっちのはずだ。この場合はこれで良いはずだ。」と、何か違うような気がしてもその方向に行けません。
逆に自分にかなっている判断であれば、内の自分は何も言いません。自分はとても安定しています。
自分からのメッセージはリラックスしている時に解りやすいです。お風呂に入っている時や、トイレの中や、寝入りばな、目が覚める直前など表の自分の意識のガード(表層意識、バリアー、エゴなど)が外れている時に解りやすいですね。より的確に知る為に、瞑想をしたりしますが、これは自分の中のガードを外す事をしている訳です。
でもそれ(内の自分)が解らなくても、例えば電車のつり広告などを何気なく見ている時、『あなたしかいない。』など書いてある広告が目に入って来て思わず「ハッ」としたりして、その時の自分に必要な情報を与えてくれたりします。(その広告の言葉の本当の意味は関係ない。)その他色んな現象で教えてくれます。偶然はありません。
精神世界を知った初めの頃、瞑想がどうも自分に合わなくて(難しく考えていた。)諦めてしまっていました。しかし『書く』という事をしたら、自分が次第にハッキリして来たのです。自分の問題点を、良いと思われること悪いと思われる事全てを書き出したのです。勿論、誰に見せる訳ではないですから、本心を思いっきり書くわけです。そういう時は自分が開いています。そうすると自然に真ん中の答えが見えてきたのです。自分の持つ意識もよく解りました。(これは一種の瞑想状態なのだと思ってます。)
それからは毎日、自分が引っ掛かったことや、何故だろうと思った事を書いていましたが、あるとき書かなくてもで出来るのではないかと思い、意識の中でやる事にしました。最初はまとまらなかったのですが、今ではわりと直ぐに自分と繋がる事が出来るようになりました。暫くして、久しぶりにたまには書いてみようと思って、書こうとしたのですが、意識の中の方が速くて書くのはまどろこしくてダメでした。
『書く』ということは、自分の内のものを吐き出すことでもあり、視覚的にも自分の内の気持ちや感情を整理しやすいと思います。
何時でも何処でも自分と繋がるコツは、
 
一、
頭の力を抜く。 頭で考えている時は頭に力が入っているものです。
一、
心の力を抜く。 心、これは自分の解りやすい表現でいいと思います。例えば、意識、精神など。
一、
体の力を抜く。 リラックスするということです。タコの様になることではありません。
試してみて下さい。 特に生活の中も『心の力』をい抜いているととても気持ちいいです。
でも頭で考え込まないで下さいね。自分に問いかけたことは忘れてしまうぐらいがいいですね。
暫くすると「ああそうか!」と思える答えが湧いてきます。それは言葉ではなく意識で来ます。直ぐに来る事もあるが、暫くしてから、あるいは数日絶ってからのこともあります。慣れて(解って)くると直ぐに解るようになります。
これは死んで肉体が無くなっても、使える(同じ)ものだそうです。物質的なものは死と共に置いていきますがそこはずっと自分のものだそうです。
幽体離脱をよくする人は、試してみては?

ありのままに生きる

今のそのままの自分を認めて生きる事。
どのような自分も今のその自分でそれでよいという理解。
ただその方向性(自分の内側)がとても大切。そこさえ無くさないように生きればいい。
自分のありのままの姿を認め、受け入れるからこそ、他人のありのままの姿を受け入れられるのだ。

自分を偽る

ありのままの自分をさらけ出して生きる(偽らない)事が自分をもっと自由にする。
知っている振りをしない。知らない振りをしない。
解っている振りをしない。解っていない振りをしない。
出来る振りをしない。出来ない振りをしない。等々。
嘘を付くと何かしら居心地が悪いものだ。しかし現代の多くの人は嘘をつかなければよく暮らせないと思っている。だが他人を騙す前に、まず自分を欺いていることに気が付かなければならない。
自分を騙して生きるのはもう止めよう。結局は自分が苦しいだけだ。
ありのままの自分を偽らずに生きることだ。100%の自分(何もない自分と言い換えてもいい。)で生きる事がどんなに気持ちのよいことか解るだろう。そこから何も足す(+)必要も無く、何も引く(−)必要も無い。自分がそうやって生きられれば、そういう世界がどんなに居心地よいか解るだろう。
それは勿論学ばないという意味では無い。その100%の自分だからこそ、自分が変わることも受容できる。その自分が一番楽で一番早い。(そこにこだわるものではないが。)
ただし、嘘が悪いものと決めつけてはいけない。必要な嘘もあることを知らなければならない。それは自分に背くものではない。
でもどうしても自分を偽ってしまうという人もいるだろう。しかしそんな自分がいても、その自分を認めて生きる事だ。大切なのはその方向性なのだ。それさえ無くさなければ大丈夫。あせらずにいけばいい。

理 解

理(ことわり)を解(かいする)と書く。
「ことわり」とは法則であり、神である。「かいする」とは、ほどく(理解)という意。
よく仏(ほとけ)と言うが、『ほどけた人という所から来ている。』というのを昔何かで聞いた事があるが、納得できる。
自分(神)を知り、法則(神)を知ることを『理解』と言う。
色々な事を理解してゆくと、感情の起伏がなくなってくる。だんだん人生を 淡々と生きられるようになる。人によってはそれを、『人間らしさがなくなる。』と言って恐れる人もいるが、自分を考えてみると少し違う。以前とは全く違う所で感動し、喜びを感じているからだ。
それは自分のエゴを中心とした世界とは全く別の世界だからだ。
理解してゆくということは、自分を縛っているものを(エゴ、等)手放してゆくということだ。
神はすべてがあるのに何一つ持ってはいない。

苦 手

人生には時折苦手なものがやってくる。学んでゆく(自分を知る)為には時には苦手なものが必要だったりする様だ。自分の得意なものばかりではなかなか学べないことが多いし、自分が嫌だと感じたり苦手と感じたりすることから学ぶものの方が今の時点では多いように思う。そういう意味では人生は苦手なもので形成されていることが多いようです。(勿論人によって違います。又担ってきた役割によっても違います。)
それは一歩前へ出れば済んでしまうものから、自分の今生のテーマであったりします。
しかし結局はその苦手意識は自分で作っている事がほとんどで、その根本を知るとその苦手なものはなくなってゆきます。苦手が苦手でなくなってゆくのです。そうすると自分がまた一つ自由になり解放されます。
私は今迄自分のやりたい事しかやってきませんでした。ところがひょんなことから自分が最も苦手だと思っていた事務の仕事をすることになってしまいました。もともと事務系の仕事をバカにしていた上に、その他のやりたい事がすべて実現してきてある程度の評価をもらっていたので、自分にとても自信があったのです。ところがそのバカにしていた事務の仕事をやりはじめて自分はそのバカにしていた事務の仕事が本当に出来ないのに気がつきました。
とてもみじめな気持ちになりました。
しかしその自分を認めて、気を取り直して、一生懸命事務の仕事に取り組んだ結果、ある程度事務の仕事も出来るようになり、認められ、逆に頼りにされるようにもなっていきました。
その体験から、どんなに苦手だと思っていることも真剣にやってみれば出来るようになるものだということを学びました。そしてその仕事の奥深さも学びました。
「自分がやりたい事をやる」こと。もちろんそれがいちばんいい訳ですが、この事に限らず人生には苦手なことや嫌なことでもやっていかなければならない時もあるわけです。
でも苦手なものが来たら、まず恐れずにそのなかに一歩踏み込んでみてください。
今迄自分が知らなかった世界が、そこにはあるかもしれません。
そして又、自分の知らなかった自分を知ることができるでしょう。

才 能

この世にはいろいろな才能を持った人がいる。
なかには人より飛び抜けた才能を持っている人がいる。
それはそのことにより発揮されたものを世に出す役割を担ってくる人もいるだろう。
しかしたいていは望めば出来るようになるようだ。今生でだめだったら来世にかけて実現する事ができるようだ。
前にこんなことを聞いた事がある。
『若いうちに才能を身に付けたいと思えば、それが出来るようになっている。』というのだ。
勿論これはあの世での話しでここ(地球)に生まれてくるにあたっての話しである。
しかし、今生だけをみてもそれはある程度実現できるようだ。自分が本当にやりたいと思えばある程度は出来るようになる。人間の能力は際限がないどのようにも実はなってゆくのだ。要は諦めないで取り組んでいくことだ。
だから思う。才能のある人を羨ましがる必要など何もないと。自分がどのようにもなれることを知るといい。今生ダメだったら来世でやればいい。そんな事を考えてゆくと、才能というものが大したものに思えなくなってくるから不思議だ。そんなにこだわるものでも無いように思う。
才能はそれを使って、より他に解りやすく自己表現ができるということだろう。どんな才能もただそれだけにすぎないように思える。勿論他人との関係で、それが大きな意味をもってくる事がある。しかしそれはあくまでも相手の問題なのだ。自分がそのことによって何かになるわけでもなく、何かが変わるわけではない。(偉くなったり、いい人になるという意)
私は前に声優をやっていた事がある。辛い事も結構あったがなかなか面白い仕事だった。私のもつ才能のようなものを認めてくれた人も居た。
そのなかで思う事は、才能だけではだめだということだ。
自分がやりたい事や望む立場になっても、それで終わりでは無い。それを続けてゆく為にはしなければいけない事は沢山ある。その先があるということだ。
才能だけでは先が見えている。
特に芝居(他も同じなんだけど)は才能だけでは「うまいんだけど、伝わってこない。」ということになってしまう。
特に才能というものを力にして振りかざしてしまうととても見ては居られない。自分が他人より秀でているというものをもってやっている人は、何か違うものになってしまっている。
もし芝居に限らず、どんなものでも『自分には才能がある。』と思っている人が居たら、自分のもつ才能というものを使ってよりよい(自分に対して)表現者となってほしいと思います。

はきだす

はきだすということの過程で理解が訪れる。
「はきだす」という行為は自分の内のエネルギーを外に出すと言う事でもあります。
例えば疑問や怒りなどを表に出さずに自分のなかにいつまでも留めてしまうと、そのエネルギーが自分のなかにいつまでも留まってしまいます。そのエネルギーを外に出す事ができる人はいつも自分が安定しています。しかし外に出せずに自分のうちに溜め込む人はそのエネルギーがどんどんたまっていって、不安定でいつか爆発するということになります。爆発出来ない人は病気になるでしょう。
自分のなかにエネルギーが溜まったままだということは、新たなものも自分のなかに入ってくることができないと言う事でもあります。
吐き出してみると、その吐き出したものがなんであったか解ります。「なーんだたいしたものじゃなかった。」「なんでこんなことに悩んで(腹をたてて)いたのだろう。」と思う事もけっこうあるでしょう。又はきだしてそれで済んでしまうものは多いです。はきだしたら楽になったということもありますね。
苦しみや悲しみ怒り悩み、等、はきだせる人がいたらいいのですが、ノートなどに忌憚なく書くことも有効です。
自分が理解したものも、それを表に出してゆくと、又新たな理解が訪れます。
自分のなかにいつも滞るものがなければ、自分のなかにエネルギーがいつも流れ、人生もよどみの無いものになるでしょう。

人は命がかかるとすぐに解る。今回のアメリカのテロ事件を見てもそう思う。現にアメリカの人々は、方向性はどうであれ一つにまとまっている。人類が一つにまとまることが出来なければ、地球外生命体からの侵略や攻撃もあり得ないことではないと私は思っている。(しかし、人類は自分達の意志で、まとまって一つになることを選んでいると思う。)

地球で肉体を持つ我々は、生きて学ぶ器としての肉体を存続させるということを基本にしている。勿論そうしなければここで(地球)学ぶことが出来ないからだ。その為にあらゆることが設定されている。セックスが気持ちよいのも子孫を残す為の感覚だし、刃物で手を切れば痛いと感じたり、病気で苦しむのもそのままにしておくと死んでしまうから痛みや苦しみがあるわけだ。そうやって死なないように警告することで生きる事を示唆しているのだと思う。何かの事故にあっても、生きる可能性がある限り、反射的に生命を維持する行為をほとんどの人は取るだろう。人は自分の肉体的にも意識的にも生きるということをインプットして存在する。

この世のものは、全て朽ちてゆく、無くなってゆく運命にある。この地球も。全てがいつか無に帰するのだ。人間もいずれはこの世を去り肉体は朽ちてゆく。言い変えればこの世に生まれ落ちたその時から自分のまわりから少しずつ何かが去ってゆく。それはどういうことなのかといったら、本当は得たと思っているものは実は何も無かったということなのだと思う。何かを身に付け、いっぱいいっぱい自分のものにして、それを維持しようとしても、本当は何一つ自分のものになってはいないということなのだと思う。勿論これは逆の言い方も出来る。総てが自分のものなのだと言い換える事も出来る。形は無くなっても、全ては自分の内にあるからだ。そして自分の内から出て来ているものだからだ。だから無くなっているように見えても実は何一つ失ってはいないのだ。しかしもはや自分の内に留めて置かなければいけないものは何一つとしてないのだと思う。留まっているものは何一つとしてないのだ。

形というものは、人間の内側を表しているに過ぎない。自分が身に付けて来たものを、一つ一つ捨ててゆくこと。それをこうやって形から学んで(知って)ゆくことをやっているのだと思う。

肉体生命(命)もその一つの形として存在する。

念の力

人は『力』というものに対してあまり気持ちよく感じないようだ。力を使って動かされた時、大抵は不快感を覚える。どうやらこの世は、プラスマイナスゼロになるように作られているらしい(だから相対に働く。)、プラスにしろマイナスにしろ力が掛かるとその反対の力が働く。
『祈り』も例外ではない、それは想念よりももっと強い力だ。強い祈り、それは『念』という力に他ならない。念ずる力、それは確かに力を持って人や物を動かす。
 
人は日常の生活の中でも意識の影響を受けて生きている。
例えば自分の事を「こいつは嫌なやつだ!」と思っている人のなかにいると、口ではどんなに優しい言葉をかけられていても何か居づらい感じがするだろう。
家庭の中で自分の子供に対して「この子はホントに親の言う事を聞かないし、色んなことが他の子に比べてできない!いったいどんなことになるのかこの先心配だ!!」などと口には出さなくても思っていたなら「この子はダメな子だ。」という親の意識の中でずっと暮すのだから子供に多大な影響をおよぼすことは想像にかたくない。
祈り、念、意識は言葉にならない言葉と同じことなのだ。意識が言葉になり行動になる。
又、祈りや念は一方的な力で、相手との意志の疎通がなされていない所で行われることが大きな原因だろう。どんなに正しいと思われることもこのままでは押し付けになってしまう。一方的な押し付けは、相手を洗脳することになってしまうだろう。
力をもって世の中を変える事は出来ないのだと思う。
どんなに素晴らしい言葉や行動も、感動した言葉や行動も、自分の家に帰ってきて一人になったら「あの時はどうしてそう思ったのだろう??」ということになってしまうこともしばしばあるのではないだろうか。あるいは「あなたの行いは間違っている。」と、さとされ、その時は納得したが、やっぱり一人になって冷静に考えてみると「何でそれが間違っているのだ!?」と思ったりする。
意識や言葉の力に影響を受けること、それは往々にしてあるものだ。
これは自分の理解が伴っていないからだと言える。
どんなに素晴らしい言葉やエネルギーや環境も、それを理解によって自分のものにしてはじめて使えるものとなってゆく。
プラスの力とマイナスの力はお互いに相関関係になっている。
そのどちらの力も持たない所(空、ニュートラル、ゼロ、中心)にこそ真の力があるのだと思う。