自然に生きる

いつも自分が見るべきものは目の前にある、自分の足下にあるものだ。
自分のひっかかったものをやってゆくと、自分で自分をより自由な世界に解き放つことができる。
苦しいと思う事や悩み、(本当はその反対のものも同じようにある。)不自由に思っていること、疑問などを自分の中に入って見てゆく事をやってゆくといいと思う。
「どうしてだろう?」「何故そう思うのか?」と「どうして?」ということをずっとやってゆく、そして「自分は本当はどうしたかったのか。」とやってゆくとその原因に辿り着く。(どこで作ったか解ることもある。)そしてそれは苦しい事(悲しい事、嫌な事、悪い事、等々)だったのか検証してみる。
こうやってゆくと、だんだん自分が解ってくる。色々な自分を知ってゆくと、自分の中に全てがあることが解ってくるだろう。善悪、正否、上下、大小、美醜、その他、良いと思われることも悪いと思われる事も、その他全て、ありとあらゆるものが自分の中にある事に気が付くだろう。そしてこの世で起きている事の全てが自分のなかにあったことにも気づくだろう。それが解ってそれを自分が受け入れると、とても強く(?)なる。今度は自分の中から何が出てきても、それによって自分が乱れる事がなくなってくる。
又同時に全て自分が作ったことも解ってくるだろう。自分がこの世の創造主であることを知るだろう。そうすると、今度は「何処にも何もない」ことが解ってくる。自分が勝手にそこに何かがあると思い込んでいただけなのだということが解ってくる。自分が勝手にそれを作り出したのだ。
私はそれが解った時、焦燥感に襲われた。「何をやっても何もないんだ。」と思ったら何もする気が起きなくなってしまったことがあった。でも「それは違う。」という事が解ってきた。
「何もない」と思い人生がつまらなくなってしまったということは、「何か」をずっと求めて生きていたということだ。その何かを例え手に入れたとしても、自分は何も変わりはしないということに気が付いた。自分の本質は変わらないということだ。
それに気が付けば後は、楽しい時はたのしめばいいし悲しい時は泣けばいい。でもそこには何処迄行っても何にもないのだ。そのことによって自分がどうにか(良くも悪くも)なることは決してない。
それに気が付いて真に理解してそれが自分のものになったなら、必要なものを引き寄せる事も、ためらわず手放す事も自在にできるだろう。そして何ものにもこだわらずに生きている自分を知るだろう。
そして人は自然に生きてゆく事が宇宙の流れに添っている事なのだと言う事が解ってくる。
何かにいちいち理由をつけて生きる必要のないことが解ってくる。
宇宙の流れに身を任せて生きてゆく事が淡々と生きることであり、宇宙(自分)に任せて生きる事がどんなに自由な世界をかいま見せてくれるか解るだろう。

カルマを超える

カルマを超えるなんて大層なことを書いていると思うかもしれないが、実は簡単に超えられる。
無くしてしまうのとはちょっと違うが、だんだん気にならなくなってゆくのは確かだ。

その昔私は、自分の業(カルマ)を切ったり超えたりするなんて簡単に出来る事じゃないと思っていた。それこそ苦行をしなければ無くならないものだと思っていた。しかし、そうではない。

一応、私のカルマの認識は「こころぐせ」「こだわり」といった所だろうか。
たとえばAさんとBさんが居て、AさんがBさんを殴ったとしよう。この場合殴った事実は取り消せない現実で、Bさんとの関係を修復し許してもらうには、謝ったり(Bさんが望めば)同じように殴らせることだろう。
しかし、もしAさんが「Bさんはいつもむかつくんだ。殴って何が悪い!」と言って謝らなかったらBさんとの関係も崩れ、『気に入らないやつは殴っていい』というAさんの意識は又どこかで「気に入らない」と人を殴るだろう。そんなことをしていると周りの人間は、あいつすぐに人を殴って危険だからと刑務所に入れられてしまうことだって有りえる。
要するに『気に入らないやつは殴っていい』というAさんの意識(こころぐせ)が変わらない限り、同じ事をずっと繰り返す事になる。Aさんの様な人に限って「あいつが悪い」「社会が悪い」と言ってしまうだろう。
結局はその意識がみんなから嫌がられ社会から弾かれる元となるのだ。

しかし一歩自己の内側に入って「自分はなぜ気に入らない人を殴ってしまうのか?」という内省をやってゆくと次第にその理由がわかってくるはずだ。自分の事は自分が一番よく解かっているのだ。
それは例えば、相手が自分を馬鹿にした態度で思わず自分の身を守るためだったり、自分が幼い頃同じように殴られた経験からだったり。人によって様々だろう。
しかし、その原因が解って、人を恐れたり、自分を守ったりしていたものがいったい何であったのかと解ると、もう人を殴る必要が無くなってゆくのだ。これでAさんは一つカルマを乗り越えたことになる。
この調子で次から次と色々と自分を見てゆくと、ある日全く違う自分に出会うことだろう。

カルマは形にしてしまったら、その形を元に戻す努力と、形にしてしまった意識の両方をやる必要がある。
一つ出来ると大体は応用が利く。大本は一緒だからだ。

焦らずにちょとずつ試してみることをお勧めしたい。

人間が内在している能力

内側の自分に従ってゆくことが一番自分にとって良い方向性であることは言うまでも無い。しかし、人は様々な理由によって本来の自分が指し示す方向に行かれない時がある。(つづく)

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