■ 研究要旨 ■ 『碁盤太平記』は、現代では「忠臣蔵」という名で知られている赤穂事件を、その名の通り『太平記』の世界に仮託して脚色した近松門左衛門作の浄瑠璃である。 高師直の讒言のために詰腹を切らされた塩冶判官の家臣大星由良之介および同志四十余人が、主君の怨みを晴らそうとし、見事本望を遂げるといった内容になっている。 第一章では、『古今いろは評林』を参考に他の「忠臣蔵」作品を挙げながら『碁盤太平記』の重要性を研究した。その結果、初めて「大星由良之介」という名が使われているという事や、上演された時期、その内容などから「忠臣蔵」作品の先駆けとなっている重要な作品である事がわかった。 第二章では、前半部分に登場する人物の心情を、(一)下男岡平、(二)由良之介の母と女房に分け読み取り、それぞれの行動に対する由良之介の心情も併せて考えていった。そしてそれらの心情を読み取ることによって後の討ち入りの場面がより色濃くなり、自分の心の中に入り込んでくるのに気付いた。 第三章では、近松門左衛門の作品として、『碁盤太平記』を研究した。近松の勧善懲悪の意識は、大星由良之介ら「忠臣」を善とし、「敵役」であった高師直を悪とするところに表現されている。『碁盤太平記』は近松の精神がよく表れている作品である事が理解出来た。 以上の事を研究して、『碁盤太平記』の魅力は何かを考え、それぞれの章で調べた事全てが魅力に繋がっていると結論を出した。 『碁盤太平記』はあまり有名ではない作品であるが、「忠臣蔵」作品としては重要な位置を占めている。「忠臣蔵」に興味を持っている人にとっては必見の、魅力詰まった作品なのである。 (平成五年発行 「国文科紀要」記載文より) |
以上が卒業研究の要旨ですが、国文科としての研究であったため、「作品の読み取り」「作家作品として」の研究に重きをおいた内容になっているのはおわかりだと思います。
ただ、私がこの研究で一番に追究したかった事柄は、第一章で取り上げた『碁盤太平記』の重要性です。史実に基づきそれらを研究でき、自身とてもいい勉強になったと感じています。
このHPでは「史実としての赤穂事件」を扱いたいと考えていますので、第一章を当時のまま全文ご紹介したいと思います。研究不足・稚拙な文章だらけでお恥ずかしい限りですが…(注目すべき点を間違っているとか、見当違いの見方をしているとか、専門家から見ればとんでもない内容のような気もします。無知なくせに偉そうな文面も…赤面)いずれは再研究してまとめ直したものを掲載出来るようになれれば、と今後も勉強して行きたいと思います。
■ 第一章 ■ (全文) 『碁盤太平記』で脚色されている赤穂浪士の事件の発端は元禄十四年三月である。江戸に下向してきた勅使の接待役である赤穂城主浅野内匠頭長矩が、殿中松の廊下において、指南役の高家筆頭吉良上野介義央に刃傷に及ぶという事件が起きたのである。長矩は即日切腹、改易に処せられ、義央は何の咎めも無かった。それから一年九ヶ月後の元禄十五年十二月十四日の夜、長矩の家臣大石内蔵助良雄等四十七士が吉良邸に乱入し、義央を討ち取るという第二の事件が起き、二ヶ月足らず後に赤穂浪士たちは切腹を命ぜられ、一連のこの事件は終幕を迎えた。 この赤穂事件は、その後浄瑠璃や歌舞伎に取り入れられ、あちこちの劇場で上演されるようになったのである。 この章では『古今いろは評林』(補注1)を参考にそれらの演劇の幾つかを挙げ、『碁盤太平記』の重要性を研究していきたいと思う。 『古今いろは評林』の「發端」で引用されている俳諧師其角が何某へ宛てた文の中に「境町勘三座にて十六日より曾我夜討に致候」演劇の事が書かれてあり、『古今いろは評林』は「是ぞ此趣向の始」としている。その後の『仮名手本忠臣蔵』までの「忠臣蔵」作品を箇条書きに挙げていく。 ○碁盤太平記(浄瑠璃) 近松門左衛門作。宝永三年五月(補注2)、竹本座にて上演。 ○鬼鹿毛無佐志鐙(補注3)(歌舞伎) 吾妻三八作。宝永七年六月、大坂篠塚庄松座にて上演。これが「歌舞 伎狂言にての始」としている。 ○忠臣金短冊(浄瑠璃) 並木宗助・小川文助・安田蛙文作。享保十八年十月、豊竹座にて上演。 ○大矢数四十七本(歌舞伎) 並木永助作。延享四年六月、京都中村粂太郎座にて上演。 ○仮名手本忠臣蔵(浄瑠璃) 竹田出雲・三好松洛・並木千柳作。寛延元年八月、竹本座にて上演。 以上、五作品を並べてみた。「忠臣蔵」作品としては初期にあたるこれらの作品での大石内蔵助に擬する役名を見てみると、大星由良之介(補注4)(『碁盤太平記』)、大岸宮内(『鬼鹿毛無佐志鐙』『大矢数四十七本』)、大岸由良之介(『忠臣金短冊』)、大星由良之助(『仮名手本忠臣蔵』)と、それぞれ違った役名になっている。しかし、 此狂言のほまれつよくして、始の大岸宮内の名は、是にて消て、是よりして大星由良之助にぞあらたまりたり と『古今いろは評林』にある。「此狂言」とは『仮名手本忠臣蔵』のことである。『仮名手本忠臣蔵』が爆発的な人気を呼び、それ以後、大石内蔵助は大星由良之助という組み合わせが通例となったようだ。 しかし、漢字一字こそ違うが、「ゆらのすけ」という名が初めて使われたのは『碁盤太平記』なのである。その事は、 尤此淨るりには、高師直、鹽谷判官、また大星由良之介と出し初たり と『古今いろは評林』に書いてある。また、上記のように高師直・塩冶判官の名も初めて使われたのである。即ち舞台を『太平記』の時代に置き換えたのは近松門左衛門が初めてだという事だ。塩冶判官が浅野内匠頭、高師直が吉良上野介に擬してあるのは言うまでもない。『仮名手本忠臣蔵』でも舞台は鎌倉であり、高師直や塩冶判官など足利時代の人物名が使われている。『碁盤太平記』が後の「忠臣蔵」作品にどれ程の影響を与えているかがこれでわかる。重要性の一つと言えよう。 しかし、実は高師直、塩冶判官という名は『碁盤太平記』で初めて出てきた訳ではない。同じく近松作の『兼好法師物見車』(補注5)という作品で先に登場するのである。『碁盤太平記』はその続編にあたる。それについては内題に「兼好あとをひ」とあるところから窺える。ちなみに、大星由良之介は、『兼好法師物見車』に登場する塩冶判官の家臣八幡六郎の改名した名となっていることが『碁盤太平記』の冒頭でわかる。 前編にあたる『兼好法師物見車』では討ち入りの誘因となる、史実で言うなら松の廊下の刃傷そして長矩の切腹に相当する内容になっている。塩冶判官が高師直に詰腹を切らされるのである。そしてそれを引き継ぐ『碁盤太平記』では討ち入りの部分が描かれているのである。 私が『碁盤太平記』の重要性としてもう一つ挙げたいのがこの討ち入りの場面及び討ち入る四十余人の名である。『碁盤太平記』では勇士一人一人の行動までその様子が克明に描写されている。「この中段に當る討入の場面は、殆ど史實通りといってもいい」と戸板康二氏は述べられているのだが(補注6)、この意見について私は次のように考える。史実では吉良上野介に最初に槍を刺したのは間十次郎とされている(補注7)。そして『碁盤太平記』で高師直を組みとったのは矢間重太郎である。塩冶判官の家臣四十余人の名は全て赤穂浪人の名に音感を似せて名付けられているのだが、それぞれを繋ぎ合わせてみると、矢間重太郎が間十次郎に当たるのは間違いない。これが史実に近いとされる理由の一つではないかと思う。また、他の同志の名にしても、史実の誰を指しているかは一目瞭然である。従って、根拠は少ないが、私は戸板康二氏の意見に賛同したい。 こうした「史實通りといってもいい」討ち入りの場面と、討ち入った四十余人のそれとわかる名がこの時期に出された事に私は注目したいのである。前述したように、赤穂浪士が切腹してから三年目に当たる宝永三年に上演された『碁盤太平記』は、『古今いろは評林』に拠ると「此趣向」の作品としては二作目になる。しかし一作目である曽我夜討になぞらえた狂言は、「當時の事遠慮も有べきよしとて三日して」(補注3)止められたらしい。幕府への「遠慮」であろうか、その後三年間は赤穂事件の際物は演じられなかったようである。そして近松門左衛門が『碁盤太平記』によって口火を切ったのである。曽我兄弟になぞらえた訳でもなく、「赤穂浪士の討ち入り」そのものを史実に近く見事に脚色し、最初に世に出された作品が『碁盤太平記』なのである。 以上の事を研究してきて、『碁盤太平記』は「忠臣蔵」作品の先駆けである事がわかった。前述した通り、後世の作品に及ぼした影響は絶大であるに違いない。「忠臣蔵」演劇史上重要な浄瑠璃作品と言えるであろう。 (注) テキストとして、岩波書店「近松全集第六巻」を用いた。
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