Yamag 仕様・取扱い説明書
Last Update 2010.07.13
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目次
- 種別
ヒト科モンゴロイド
オス A Rh+ 型
- 製造年月日
1952/02/10
- 原産地
長崎県佐世保市
- 全長・平均質量・足長
170cm、65〜6768〜70kg(^^;、25.5cm
- 認定マーク(取得順)
普通一種運転免許・社会学士・初級システムアドミニストレータ、ってあまり権威ナシ
2007年11月に「NPOパソコン整備士協会」が認定する「パソコン整備士(2級)」資格を取得
- 嗜好
- 音楽
演歌、コムロ系、つんく系、HipHop 系以外。
60〜80 年代の和洋 POPS が得意分野(できればカラオケじゃなくギターの弾き語りで...)。
2006年秋、エレキギターのアンプその他セット売りを購入。ギター本体はストラトキャスター・モドキ(^^;、アンプは一応VOX。ZOOM製マルチエファクタG1Xに繋いで、'60年代サーフィンサウンド(ベンチャーズ)やらスペースサウンド(スプートニクス)、あるいはディストーションを効かせてジミヘンサウンドなどで遊んでいる。
また、2007年に入ってからは足立区にあるリサイクルショップのWebサイトで、Epiphone製のアコースティックギターPR-350が\19,000(ハードケース付き)で売られているのを発見!。早速、現地に赴き現物を手にとって失われた1弦を除いてチューニングし音を出したところ、予想外の「鳴り」だったので即購入。
というわけで、現在、我が家には学生時代に買ったモーリスF-10(注:リンク先の画像ではピックガードが取れているようだが、うちのにはちゃんと付いている。表板に少々キズがあるが…)と、Photogenic製ストラト・モドキ、それにEpiphone PR-350の3本のギターがある。ちなみにモーリスF-10は、永年の使用の結果、1〜2弦の4フレットと5フレットが磨り減ったため、アルミホイルを細く切って接着剤で貼り付け窪みを埋めるという掟破りのリペアの結果、弦高を少し高めにすれば音を出せるようになり、12弦ギターの高いほうの弦のみを張るという、ナッシュビル・チューニング・ギターとして生き延びている。そのうちに、このモーリスとEpiphone PR-350とで多重録音をやってみたいとおもう。
で、日常的には夜しか弾ける時間がないので、当然、ドラッド・ノート・サイズのEpihponeを鳴らす訳にはいかず、もっぱらストラト・モドキをアンプに繋がないで弾いている。そのせいか、休日の日中にEpiphoneをしばらく弾くと、弦の硬さのせいで指が、サイズのせいで未だ完治しない五十肩が、ともに痛くなるという情けないことになっている、今日この頃…
- 見るスポーツ
子供のころは「西鉄ライオンズ」(鉄腕、稲尾投手に合掌…)だったが、今はなんといっても「浦和レッズ」 \(^o^)/
その他、ラグビー、バスケットボール、ゴールキーパーのいるボールゲームの他、「昔とった杵柄」の陸上競技など人間の「基本性能」を競う競技が好み。
- やるスポーツ
基本的にスキルとお金を要求されるスポーツはやらない主義。
だけど、ジョギングなどの安上がりなものも、腰痛や挫骨神経痛などもあって、ここ 15 年くらいほとんどご無沙汰。もっとも、その腰痛もそうした運動不足による腹筋と背筋の衰えが原因なんだけど...(^^;
- 読書傾向
「本棚」から推測されたし。
- 作動実績
佐世保競輪場隣の中学から佐世保市郊外の高校へ進学。同じ頃、あの村上 龍が街中の高校にいた。
1970年4月「よど号」が日本赤軍を乗せて平壌へ飛び立った翌日の夕刻、同じ福岡空港からジャーナリストを志望して東京へ飛び立つ。
学生時代は池袋界隈を徘徊。
某新聞社系の広告代理店 A 社の営業として社会人生活をスタート。
コピーライターを目指して現宣伝会議社主催の養成講座に通うも、なぜかマーケティングに目覚める。学生時代にマーケティングの講座があったが、土曜日の午後という時間割だったため取らなかったことを悔やむ(^^;
A 社でマーケティングリサーチ部門へ移る。このとき初めて「コンピュータ」なるものを購入する。
当時は「プログラマブル関数電卓」として売っていたシャープ PC-1201 という「ポケコン」で、MS 系 BASIC が使えるというのが売りだった。
その後データ量の増加と処理内容の高度化にともない、会社と交渉して生まれたばかりの 16 bit PC 名機 NEC PC-9001を手にする。N88-日本語 Disk BASIC 86 上で動く大塚商会の PC-PAL いう、表計算ともデータベースともつかない(当時は「簡易言語」といっていた)ソフトでデータ処理をしていた。今にしておもえば、これが本格的なパーソナルコンピュータ事始め!
MS-DOS の時代となり、 PC-PAL から 本格的 RDBMS informixへ移行。大塚商会の営業マン(よく勉強している人でした)の口車に乗り(^^;当時、青山にあったアスキー本社までいって DEC の VAX 上で動いているデモを見せてもらいにいったなぁ...
同じ頃、オムロンが銀座に持っていたパソコンショップ「マイコンショップ銀座」で Mac の魁となった Lisa のデモを見て、マウスでチョチョイのオペレーションに感激したことも...
300 bsp の音響カプラを使ってパソコン通信を始めたのもこの頃。
経理部門のオフコンのリプレース時期になり、よせばいいのに「これからはパソコンの時代だ!RDMBS の時代だ!」と「情報化の提言」を会社に提出。「ほんじゃ、言い出しっぺのおまえやれ!」ということになり、これまた、よせばいいのに ZENIX (MS 製の UNIX SYSTEM V。その後 SCO に売却された) 上で動く RDBMS UNIFTY でのシステム構築に取り掛かる。ハードウェアは今でいう IBM AT 互換機アーキテクチャの 80286 CPU マシン。
途中、3%という悪魔のような税率の「消費税」が導入され、演算誤差への対応に四苦八苦。そしてついに「壊れ」てしまう。
約3ヶ月後職場復帰したが、いろいろあって、外資系ソフトウェアベンダ B 社に転職(^^;
表計算ソフトやデータベースソフトのテクニカルサポートを担当し、日経 MIX や NIFTY SERVE(現 @nifty) といったパソコン通信システム上のベンダー会議・フォーラムの議長・SubSys を務める。
その後、担当していた製品が部門ごと売却されたことなどもあって、開発部門へ移り QA (Testing) を担当する。
開発部門に移るも、担当した製品が次々と売却され、ついには自分自身も「自由契約」となる(^^;
なお、担当していた製品のうちの2つは、最終的にカナダに本拠地を置く C 社に買収された。
半年後、今は化粧品通販で有名になった D 社の創業部門である、翻訳・通訳事業部門のソフトウェア関連ドキュメント類の日本語化を業務とするセクションへ。A 社〜 B 社 〜 D 社と「 C 」を飛ばして(^^;、3つ目の勤務先ということになる。
翻訳されたオンラインドキュメントからの WinHelp や HTML の生成・デバッグを主業務とするかたわら、翻訳スタッフの技術サポートやツール類の作成を担当している。
今があるのは、B 社在籍中に得た知識・経験・人脈ともにこの時代の貴重な遺産のおかげだろう。一言でいえば「芸は身を助く」v(^^)
2001年10月以降は事業部内の販売管理システム(VB + Access)のメンテナンスを担当。最近はこっちがメインだが、このシステム、引継ぎ時間わずか 20 分、ドキュメント無し、ソースコードにほとんどコメント無しのシロモノで、しかも前任者は引継ぎの翌日には退社という地獄のようなシステム...(;_;)。もっとまともな RDBMS を使い Delphi で1から作り直したいと切望する日々を過ごしている。
2003年11月、部門縮小に伴いD社を会社都合退職。
2004年08月、前出 A 社の先輩が経営する零細Web広告代理店に入社。
ネットワークやサーバの構築・保守などをしながら技術的アドバイザーを担当。
2010年05月、業務縮小・撤退に伴い上記Web広告代理店を会社都合退職。
- 取扱い上の注意
- 元々アセトアルデヒド分解能力が劣っているところに加え、最近になって消化器最下部に不具合が見つかっているので、アルコール類を与えないこと。
- 大地に足の裏をつけていないとどこか安心できず、特に落下するときの、あの消化器最下部からゾワ〜っと沸き上がってくるような感覚が苦手なので、無理やりにジェットコースターの乗せたりしないこと。また、心身ともに拘束されることへの耐性も低いので、飛行機も 2 時間が限度とおもわれる。
- PC に向かってしきりにブツブツいうことがあるが、それだけ集中しているということなので気にしないこと(^^;
- 「単純作業のくり返し」が大の苦手。だからせっせとプログラムを書く...(^^;
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