TopNovel未来Top>灼熱*常夏*パラダイス・おまけ 
・・・お祭り後の、それぞれのことをちょっと?だけ。


   

      

     


---------------------------------------------------- おまけのおはなし◇

「ねえねえ、岩男くんっ! お魚、どれがいい?」

 赤、白、黄色……と、童謡のようにはいかないけど。それでも蛍光灯の照明に浮かび上がる氷いっぱいのケースの中、ぴかぴかにパックされてるお魚たちはどれもすごく美味しそう。
  お目々ぱっちりの金目鯛も捨てがたいけど、あたしはどっちかというと光りものがいいなあ。まだ、夏も本番を迎えたばかりで秋刀魚の美味しい秋に遠いのが残念。パパのかまどで炭火焼きした秋刀魚、本当に絶品なんだよ。お隣の田辺さんちのおばちゃんも、「一緒にお願いしますぅ〜」ってやってくるもん。

「う〜ん、鯖のみそ煮もいいねえ。これは冷凍鯖だから、脂も乗っていて美味しいと思うよ。今は冷凍技術も進んでるからねー、旬を外したお魚は冷凍物の方が美味しかったりするのよねっ」

……はああああっ、自分の台詞にほれぼれ。

 いいわ〜、あたしっていっぱしの若奥様してるじゃない。一日お疲れで戻ってくる最愛のだんな様にとびきりのディナーを手作りするのが妻としての大切なお仕事。うんうん、あたしもその日が来るまで頑張らなくちゃ。出来るだけレパートリーを増やすのっ!

「……あの、菜花ちゃん」

 だから、手押しのがらがらを使えばいいって言ったのに。あたしの後ろをくっついてくる岩男くんは、両手にさげた買い物かごをえっちらおっちら。高校までは柔道で鍛えまくっていて、今だってあたしを軽々と持ち上げちゃうくらい力持ち。多分、肩車とかも出来ると思うよ? そんな岩男くんの買い物姿……ああ、やっぱりすごく可愛いかもっ。

「もう、これ以上はいいよ。ウチの冷蔵庫は小さいし。今は夏場でモノが腐りやすいから、あまり買いだめはしないほうがいいと思うよ? それに……頂き物の肉がこんなにあるし――」

 そう言って彼が揺り上げるのは、肩からさげた保冷バッグ。帰りにウチのママに渡されたものだ。そこには今日使い切れずに残ってしまった、お肉とかお野菜とか特製焼き肉のたれまで入ってる。最初、あたしが持とうと思ったら、手にした瞬間、ずーんってきて無理。同じ大きさのものを梨花の彼氏くんも渡されてたけど、彼は今頃大丈夫かしら?

「まああっ、駄目よっ! そんな、昼も夜もお肉なんて栄養が偏っちゃうわっ! そんなことしてると、カロリーは足りていても栄養失調になったりするんだからねっ、もうしっかりしてよ!」

 う〜ん、全てにおいて完璧な知識を誇っている岩男くんだけど、「食」の部分だけはちょっと弱かったりするのよね。高校生のときまではお料理上手のおばあちゃんと住んでいて美味しい手料理を食べていたし、大学生になってからは下宿先のおばさんの賄い食。自分で考えて買い物して……っていうの、実はあまり経験してないヒトなのね。

 ……まあ、それはずっと自宅通学・自宅通勤で過ごしてるあたしも同じことなんだけど。いやいや、あたしはそれに甘えちゃ駄目なのっ! こう言うのは日々の努力よ、その時が来てからの付け焼き刃では絶対に続かない。日頃の成果を今夜はとくとご覧に入れなくちゃっ!

「まあ、任せておいてよっ! お夕ご飯は岩男くんの疲れた胃を優しく癒す特別メニューにするからね。この前、岩男くんのおばあちゃんに習った鯖の梅干し煮、おさらいしてみようかな? さっぱりして夏の食卓にはぴったりだと思うよ」

 そう宣言して、あたしは鯖の切り身をぼんぼんと2パックかごに追加する。わずかばかりの重みが加わっただけなのに、岩男くんってばふらっと来るんだもん。ああ、やっぱりお疲れなんだわ。コレは絶対にあたしの出番なのよっ!

 社会人の特権で「今日のおごり」を決めたあたしがお財布を手にレジに進む後ろから、岩男くんはやっぱりえっちらおっちらくっついてきた。

***

 そうよねー、実際問題でかなりハードなスケジュールをこなしてくれたと感謝してる。

 今年が大学の最終学年・四回生の岩男くんの日常はとても多忙だ。
  春前からは就職活動が本格化して、今住んでいる関西から日帰りで何度も上京してきてたって言うし。まあ早いお友達は去年から初めて3月頃には決まっちゃった人もいたらしいけど、岩男くんはずっと進路を迷っていたもんね。ちょっとスタートが遅れちゃったみたいよ。 もちろん卒論のための研究とか、ゼミの発表とか、ほとんどバイトも入れられないほどの有様だってぼやいてた。

 めでたく就職も内定して前期の試験が全て終了したからって、それで普通の学生みたいに長い夏休みを満喫出来る訳じゃないのよね。
  今回の帰省も、わざわざ今日のバーベキューに合わせて決めたものって言うし、ちゃんと資料用にコピーした過去の論文とかいっぱい持ってきてるんだって。それがね、国内のものだけじゃないの。アメリカとか、フランスとか、そっちのもあったりして……もちろん原文のまま。それを辞書片手に解読しちゃう岩男くんって本当に素晴らしいわ。

 そんな感じで、昨日の最終の新幹線でこっちに戻ってきたんだって。で、今朝はもう8時前から準備作業でしょ? ちゃんと睡眠取ったのか、本当に不安だったよ。

 でも、そんなことを言っても、こう言うときに頼りになるのは岩男くんなのよね。弟の樹もこの頃ではでっかく成長して、かなりの力持ちでもあるんだけど。その分、言うことも一丁前で、ことあるごとにパパと青白い火花を飛ばし合ってる。あれじゃあ、下手に使ったらフレンドリーな一日が台無しよ。ほーんと、使えないんだからっ。
  その点、岩男くんなら大丈夫。何しろパパとのお付き合いは樹と同じくらい長いんだから。それに人間の出来ている岩男くんはパパの大のお気に入りで、アウトレジャーの時には必ずお声が掛かってた。ホント、あたしを無視しても岩男くんは忘れないの。
  それにパパだけじゃないよ、樹だって岩男くんのことが大好き。その昔、あたしたちが付き合いだした頃は、樹の反発がものすごかったもん。「よくも僕の岩男兄ちゃんを取ったなっ!」って、闘志むき出し。あれ、本気だったよな、怖かったもの。

 もちろん、ママだって妹の梨花だって。岩男くんは私たち家族みんなのアイドルだった。でもね、そんな岩男くんに一番愛されてるのはあたしだから。これってすごーい優越感。たまらないわ、もうっ。

 ……とと、話が少しずれたか。

 まあ、そんな感じで。一触即発のぴりぴりした緊張感の走っていた場面で、岩男くんの存在にどんなにか救われたことか。本当にいい加減にして欲しいのよ、パパも樹も。何張り合ってるのかしらね、本当に訳が分からない。

 岩男くんはパパと樹の間を行き来して、さらに後からやって来た梨花の彼氏くんのフォローまでして。挙げ句に樹の彼女さんが倒れちゃったら、リビングと庭を絶えず気遣って行ったり来たりしてくれた。さりげなく氷とか飲み物とか取りに行く振りをして、ね。
  それにほら、岩男くんってこの通り人並み外れてでっかいでしょ? だから、きっとご飯も普通の人の二倍も三倍も食べるだろうって良く思われちゃうみたいなの。でも、実際はそうでもないんだよ? そりゃ、チビな私よりは多いかなって量だけど、一般的な成人男性の食事量と変わらないと思う。ラーメンだって、大盛りじゃないんだよ?
  でも、今日みたいな場面で。パパと樹がそれぞれ予想人数の1.5倍分くらいずつの食材を用意しちゃって、とても食べきれないよーって感じになると、頑張っちゃうんだよね。みんなのお皿が空っぽにならないように気配りしながら、残りそうなお野菜やお肉を自分のお皿に移すの。ほぉんと、その姿は神業で。見ているだけで惚れ惚れしちゃう。

 ああ、こんな風にしてると「西の杜学園」で過ごした懐かしい日々が走馬燈のように蘇ってくる。いつもいつも、学園の至るところで、岩男くんのりりしい姿を目にすることが出来た。あれはホント、幸せだったわ。あの頃はそれが当然だと思っていたからそれほど実感湧かなかったけど、こうして離れてみて岩男くんの偉大さが再確認出来たと思うよ。

 ……あと、半年ちょっと。

 そしたら、岩男くんはこの街に帰ってくる。昔のように朝お迎えに来てくれて……って訳にはいかないけど、それでも今よりはずっと頻繁に会えるようになるはず。困ったときも辛いときも、そばに岩男くんがいてくれると思うだけですっごく心強いと思うよ?

 

 それに……ねぇ。うんうん、えへへ。

 昼間もちらっと考えたりしたけど、あたしたちの将来のこと。岩男くんの頭の中でどれくらい具体化してるかは分からないけど……でも、きっと動き出すと思う。仕事柄、いろんな取引先を回っているとね、やっぱり目に入ってくるんだ、その手の衣装とか。
  デザイナーさん相手に打ち合わせも多いでしょ、そうすると売れっ子な方ってだいたいブライダルのお仕事も入ってくるらしいのね。「今一番トレンドな○○さんデザインのドレス」とか、肩書きをつけるとすごいらしいもん。事務所に入ったら、ばばーんと飾られているときもあったりして、ドキドキしちゃう。

「菜花ちゃんは、きっと普通の貸衣装は無理だからね。もしも必要があれば、ボクが喜んで引き受けてあげるよ?」

 幾重にも重ねられたチュールを眺めていると、そんな風に言われたりする。あちらは冗談のつもりだろうけど、あたしはもう心臓ばくばくよ。ええ、お願いしますっ! ……とか速攻で予約入れたくなっちゃう。

 あんまり浮かれ過ぎちゃってひとりで盛り上がったら、さすがの岩男くんもドン引きしちゃうだろうな。だから、口には出さないけど、絶対。こういうのって、想像している時間が一番楽しいね。

***

「……楽しそうだねえ、菜花ちゃん」

 ひとつくらい持つよ、って言ったのに。あたしの申し出を断った岩男くんは、スーパーの袋を4つもさげてる。その上、肩からはクーラーバッグ。一体全部で何十キロの荷物になってるんだろう。

  岩男くんのその言葉にはいろんな想いがぎゅーっと詰まってる気がした。そうだ、さっきのバーベキューのときも、「ちょっと浮かれすぎかも?」ってこっそり注意されちゃったもんね。そんな風にたしなめられることも稀だから、さすがにしゅんとしちゃう。そしたら、昔から全然変わらない笑顔で言ってくれるの、あたしの頭をおっきな手で撫で撫でしながらね。

「ううん、明るくて元気なのが菜花ちゃんのいいところだからそんなに気にしないで。でも……初対面の人はやっぱり驚くからね? 控えめにしたほうがいいと思うんだ」

 ううう、こんな風にきちんとフォローしてくれる岩男くんが大好きだわ。

 

 確かにねー、ちょっとテンション上がりすぎてたと思うわ、あたし。

 だってだって、樹の彼女さんに初めてお会いしたんだものっ……! もうね、樹が「当日は、俺の彼女を呼んでもいいかな?」な〜んて言い出したその瞬間から、妄想しまくりだったのよ。

 梨花の彼氏さんに初めて会ったときも、すごくドキドキしたわ。梨花は姉の私から見ても、とにかくスーパーに完璧な女の子。そんな子が選ぶ相手ってめちゃめちゃ興味あるじゃない?
  もしかして20代半ばにして会社専務で滅茶苦茶イケメンとか、年収三億とか、本物の俳優さんとか実力派のシンガーとか元オリンピック選手のタレントとか……ちょっと妄想が大きすぎたせいで、普通の男の子が出てきて「あれ?」だったけど。

 で……、今度はあの樹でしょ?

 まあ、正確に言えば今までにだって「樹の彼女」っていう女の子は何人も、ううん何十人も見てきた。あたし自身はそんなに察しのいい方でもないし、どっちかというとぼんやりとして大切なことにも気付かなかったりするけどね。ほら、あたしにはスーパー情報通な友達がいたでしょ?

 ね、覚えてる? 春菜ちゃん。いろんなカルチャーのお教室を開講してる春菜ちゃんママも最強だしね。この母子に掛かれば怖いモノなし、樹に新しい女の陰が見えるたびに光の速さで教えてくれた。

  それこそ、色んな女の子がいたよー。ごくごく普通の子から、ハッと振り向く美少女まで。姉御肌の体育会系に、しっとり奥ゆかしいさる家元のお嬢さん。その名前を聞くだけで椅子から転げ落ちそうになる、某大企業の孫娘なんていうのもいたっけ。その子が頭取の長男の一人娘だって聞いて、さすがのパパも青ざめてたわ。

 でも、所詮噂は噂。どんなに信憑性のあるものだったとしても、結局は当の樹がどう思ってるかってことでしょ? 思い起こしてみれば、樹が自分から「彼女を家に呼びたい」って言ったことなかったよ。それどころか「彼女」って言葉すら聞いたことがなかったような。「押しかけ彼女」ならいっぱいいたけど、絶対に玄関で追い返してたもの。

 今日、一番最後にやってきた、その彼女「小杉薫子」ちゃん。西の杜で樹のクラスメイトなんだって。でも、高等部から入ってきたって言うから、かなり頭いいんだろうな。
  もう、どきどきわくわくで、色んなこと聞きたくてたまらなかった。すっごく恥ずかしがっちゃって、顔を真っ赤にしちゃうところなんて本当に初々しくて良かったわ。妙に飾ったところもないし、どこまでも高校生らしくて清潔感に溢れてた。ビー玉みたいな真っ直ぐな目がすごく綺麗だったよ。
  梨花って妹なのにすごく落ち着いてて、何かどっちが年上なのか分からなくなっちゃうでしょ? でも、その点この子なら大丈夫。確かに身長は私よりも高いけど、それでも可愛いものよ。「お姉ちゃんが色々教えてあげるね♪」……って感じですりすりしたくなっちゃう。

 ふっふっふっ〜! これから楽しみだなあ……、樹には頑張ってもらって、彼女をしっかりとキープしてもらわないとね。あとで良く言い聞かせておかなくちゃっ。

 

「――あ、そうか。何かのんびりしちゃったね、時間時間っ……!」

 慌てて携帯をポケットから引っ張り出す。うわー、ヤバイっ! 早めに出てきたつもりなのに、もう6時過ぎてるじゃないの……!

「ええとっ、ごめんね〜。おばあちゃん、新幹線が何時って言ったっけ? もう、先に着いちゃってるかなあ……」

 そうそう、後片づけも早々に飛び出してきたのには訳がある。岩男くんの帰省に合わせて、今は田舎に住んでる岩男くんのおばあちゃんが久し振りに出てくることになってるの。就職内定のお祝いもしたいからって。うわー、そうだった。本当は駅前まで行って、おばあちゃんの大好きなレアチーズを買おうと思ってたけど、それはやめにしたほうがいいかな?
  足腰があまり丈夫じゃないおばあちゃんは、駅の階段とかが辛いって言う。だからこの頃は私鉄に乗り換えないで、少し遠くのJRの駅からタクシーを使うんだ。幹線道路を使えば30分か40分だって言うし。

「えっ……あ、……うん」

 そしたら。岩男くんは急にもごもごしちゃって、あさっての方向を向いちゃうの。

「そっ……、そのことなんだけど……」

 え、何? ……どうしちゃったのっ? もごもご岩男くんは慌てる私を無視して、ずんずん歩いていく。えー、だって。今日はお夕ご飯に間に合うようにおばあちゃんが来るから、ちゃんとご馳走作って待ってようねって話だったでしょ? お昼に確認したときには「うん」って言ってたじゃない。

 何か……今更不都合でも? もしかして、ふたりきりでお祝いしたいから、あたしはいらないとか言い出すのっ……!?

「ねえええっ、岩男くんっ……!」

 ただですら、コンパスの長さが違うんだからっ。そんな風に大股で歩かれたら、どんどん差が開いちゃうでしょう? まるで三輪車と26インチのマウンテンバイクみたいだよっ……!

 ようやく追いついた岩男くんの背中。シャツをぎゅううって引っ張っても振り向いてくれないの。それに……どうして、耳が真っ赤? まさか、岩男くんも樹の彼女さんと一緒で熱があるとか??

「あのね、菜花ちゃん。昼過ぎにおばあさんから連絡が来て……、その、急に来られなくなっちゃったって言うんだ。何でもお守りさんしてる小学生のひ孫さんが熱を出しちゃったとかで。ごめんねって、……」

「……え……?」

 何、それ。聞いてないよっ! お昼過ぎに連絡来たなら……あの、騒ぎの後の携帯がそう? だったら、……何で今まで黙ってたの? あたし、おばあちゃんのためにご飯作りする気ですごく張り切ってたのに〜っ!

「そ、そうなの? ……それじゃあ……」

 もっとゆっくりウチにいれば良かったのに。残り物だけど、晩ご飯とかも作れるし、その方が良かったんじゃないの?

「ううん」

 まるで、私の言葉の続きが分かってるみたいに、岩男くんは静かに首を振る。

「千夏さんがね、今日は朝から疲れたでしょうからもう帰りなさいって言ってくれたんだ。だから、……お言葉に甘えることにして。やらなくちゃならないことも溜まってるし、今日は一日くつろいじゃったからね」

「は、はぁ……そうか」

 引っ張ってたシャツの裾をするっと手放してた。

 

 ……なるほど、そうか。そうだよねえ……、岩男くんはすごく忙しいんだもの。今日はウチの家族にずっと付き合ってくれたけど、岩男くんは他にも大切なことがちゃんとあるんだ。頭、切り替えて頑張らないと駄目なんだね。

 急に現実に引き戻された気分になって、あたしは立ち止まっていた。どんどん遠ざかっていく岩男くんの背中。大きな身体の脇で揺れるスーパーの袋。……鯖の梅干し煮、自分で作ってもらおうかな? もうこのまま、あたしも帰ろうかなー……。

 

「菜花ちゃん」

 だいぶ歩いて、もう夕闇の中に岩男くんの姿が消えそうになるまで離れて。でもって、やっと立ち止まる。でも……振り向かない。

「おばあさん、いないんだけど……その」

 歩道に立つ岩男くんのすぐ脇を、車が通りすぎていく。一瞬、明るく照らし出される輪郭、耳が赤いのは過ぎ去ったテールランプのせい……?

「今日、泊まっていかない? ……久し振りだし」

「えっ……」

 

 色んな雑音に紛れて、ほとんど消えそうな声。

 あたしの耳にやっと届いて、思わず声がうわずっていた。そして次の瞬間、私もうなだれてしまう。私たちの間に、何だかとてつもなく幅の広い河が流れていくような気がした。

 

「だ、駄目だよっ、明日は月曜日だもんっ。あたし……仕事、行かなくちゃ」

 そうなんだよなー、こればっかりは仕方ない。出来ることなら夏のお休みを今回の帰省に合わせて取りたかったんだけど、丁度仕事が詰まっている時期なんだもん。昨日の土曜日も休日出勤で残業まであって、岩男くんのお迎えにも行けなかった。
  明日だって、どうなるか分からない。仕事が順調に片づいたら晩ご飯くらい食べられるけど、コレばっかりは行ってみないとどうにも。

「そう……か」

 大きな背中が揺れて、また歩き出す。岩男くんも何かを感じ取ったのかも知れないね。10歩くらい進んで、また立ち止まる。そして今度は、静かにこちらを向き直った。

「じゃあ、あと3時間だけ。それくらいなら、いいでしょう……?」

 岩男くん、笑ってた。すごく恥ずかしそうに……でも、ちょっぴり寂しそうに。ずっと会いたかったんだよって、ちっちゃな目が私に訴えてるみたい。

 ゆっくり。

 ……ゆっくりゆっくり歩いていく。あたしを待ってくれてるその場所まで。心臓の音がどんどん強くなって、痛いくらい。ようやくシャツの袖に手が届いて、そのままぎゅーっとしがみついた。

「……やっぱり、朝帰る。早起きすれば、間に合うはずだから」

 それだけ言い切ったら、張りつめていたものがぷちっと途切れたみたい。はあっと脱力しちゃう。ごとんとクーラーボックスにぶつかって、岩男くんが「おっと」って揺れた。

 

「オレ、……そんなにおなかすいてないから。晩ご飯はあとでもいいんだけどな」

 少しかがんで、あたしの耳元にそんな言葉を落として。岩男くんはまた、歩き始めた。

 

 

おしまい♪(051005)

      

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