---------------------------------------------------- おまけのおはなし◇1/2/3/4 「……大丈夫? 少しは楽になったかしら……?」 窓の外はすっかりと暗くなってる。でもいきなり部屋の照明を点けるのは気が引けて、ベッドの脇の小さな灯りだけを灯した。ふんわりした蜂蜜色の光の中、うつぶせのまま枕に埋もれてる彼がいる。 「……ん……」 もぞもぞっと動いて、それからゆっくりと寝返りを打つ。彼が身につけているアンダーシャツは、襟元から見えてもセーフなネイビーブルー。くっきり浮かび上がった胸のラインがすごく野性的だなと思っちゃう。 「あれ……もうこんなに暗いのか。――何時?」 まだ半分、寝ぼけているみたいだ。そうだよね、今日はかなり疲れたと思うもの。昨日の夜もほとんど寝てないんじゃないかな。このところ昼間はお店で夜は今日の準備。私がいくら手伝うよって言っても「全部自分でやるからいい」って聞かなかった。 「そろそろ、7時かな? ……おなかはすいた?」 私の問いかけに、彼は静かに首を横に振る。 そうだろうなあ、私も全然だもの。それどころか未だに喉のところまで食べ物がつかえている気がして、胸が苦しいの。脂っこいものって、あとがこうだから困るわ。それなら量を過ごさなければいいって言われればそこまでなんだけど……今回はねえ。調理しちゃった分だけでも頑張って平らげなくちゃって思ったから、ついつい。 「あれ、……みんなは?」 半分起きあがりかけて、やっぱりもう一度枕に倒れ込む。ああ、眠そう。こんなにくたびれてる彼って珍しいわ。申し訳ないけど、ちょっと可愛いなとか思っちゃう。 「ええと……みんなそれぞれお見送りに出掛けたわ。梨花ちゃんたちが一番最後まで片づけてくれてたの、彼あれでいてなかなかの働き者よ? すごく気が利くわ、驚いちゃった」
夫婦の寝室……とは言っても、シングルのベッドをふたつ置いてほとんど足の踏み場がなくなってしまう狭さ。大きく窓のある角部屋だから実際の大きさよりは広々してるけど。 私は……ある朝目覚めたら、彼の奥さんになっていた。そしてすでにふたりの娘を産んでいたの。記憶喪失なんて映画やドラマの中の出来事だと思っていたのに、実際にもあることだったのね。その頃はまだマンション暮らしだったけど、やっぱりこんな風な部屋だった。ドアを開けると奥行きがあって、手前にチェストで奥にベッドがふたつ。突き当たりに大きな掃き出し窓。 そんな私の辛さを、彼はきちんと理解してくれてた。「今」と「未来」が私たちにとって大切なこと、もう終わってしまった「過去」は振り向かなくていいって。新しい毎日を積み重ねて作り上げてきた私たちの歴史、気付いたらあれからももう十数年。長かったような短かったような。 「ああ、分かるわ。私も覚えていないこととか多いよ〜。子供が何人もいるとごっちゃになっちゃったりしてね、いきなり本人たちから訊ねられたりするともう大変。頭に血が上っちゃうわ」 もちろん、私の記憶のことは彼以外誰も知らない。分からないことを彼に訊ねることもあるけど、いくら子煩悩なパパでもあの頃は普通に会社勤めだったし。う〜んって頭をひねられたりすると、かえってホッとしたりした。
「残り物はほとんどお持ち帰りにしてもらったし、あとは樹が自分で散らかした分を片づければおしまい。あれくらいはひとりでやらせましょう、……ちょっと今回の樹はひどかったと思うわ。ごめんなさいね、透も大変だったでしょう……?」 ふたつのベッドの空いてる方、普段は自分が使ってるそこに腰掛ける。彼と向き合って話が出来るように。人ひとりが通れる広さに離された隙間に、足を下ろした。 「きっと、薫子ちゃんにいいところを見せたかったんでしょうね。あれほど強情で聞く耳を持たない樹は初めてだったわ。男の子って、いずれはあんな風に外に目が向いていくものなのね。ふふ……でも、彼女もしっかりしていて真面目そうないいお嬢さんだったわ。何だか、嬉しかったな」 そう話を続けながら、私は自分の胸元に手をやった。 半透明のピンクの石がころころと並んでいるネックレス。ちょっと若すぎてどうかなと思ったけど、シンプルなかたちだったから使い勝手がいい。私はあまりゴージャスなアクセサリーとか駄目で、こんな風にさりげないのが好き。だから作者の薫子ちゃんにもとても会ってみたかったの。 「……千夏」 彼はこちらにごろんと向き直って、横になったまま私を見上げた。 「君はどうしてそんなに冷静でいられるのかな? 何だか……この状況を楽しんでいるみたいだよ。もっと慌てるのかと思っていたのに、意外だな」 「えっ……、そう?」 私には彼の言葉の方が意外だった。そうかな、別に楽しんでるとかそんなじゃないんだけど。それじゃあ、どうなの? 彼の方は……楽しくないのかな。 「俺、千夏がだんだん逞しくなってくるような気がする。時々、無意識のうちに田舎の母親と間違えそうになるよ。やっぱりなんだかんだ言っても、女性は強靱な精神の持ち主なんだなあ……」 ――それって、誉められてるのかどうなのかかなり微妙だと思うんですけどっ……? 別に佐野のお義母さんに似てるのはいいけど、……でも。 「何だか、子供たちがそれぞれに、どんどん遠くに歩いていくんだなと思ったよ、今日。みんな同じ方向じゃないんだ。くま手みたいに根元はひとつなのに、進んでいくうちにそれぞれの道に分かれていく。分かっていたつもりなんだけどなぁ、実際に目の当たりにするとかなりくるかも……?」 ふうって、大きな溜息。彼の胸の中にわだかまっていたものが吐き出されていく。必死に自分の中で状況を理解して受け入れていこうって努力してる……大人になりかけた子供みたいな彼がいる。 「……そうかぁ……」 改めて言葉にされると、私もちょっとしみじみしちゃうかな。 まあ、菜花ちゃんと岩男くんのことはちっちゃい頃からのことだし、いつかはあんな風になったらいいなって思ってた。菜花ちゃんは岩男くんが大好きだし、岩男くんも菜花ちゃんといるときが一番楽しいみたいだし。結局のところ、ふたりはお似合いなのよ。あんな風にお互いが寄り添うことで強くなれるって、理想的な関係だと思うの。 梨花ちゃんは……いきなりだったから、ちょっとびっくりしたかな。あの子は小さな頃から感情の扉をぴっちりと閉ざして、強く自分を表現することが極端に少なかった。そのくせ、こちらの些細な変化を敏感に察するから、親として年長者としてはとても緊張した付き合いをしてきたと思う。 樹は……う〜ん、まだよく分からないな。だって、現役の高校生だし、あの子はとにかくやんちゃで危なっかしいし、人の言うことを小馬鹿にする傾向にあるし……。ああ、私に対してはかなりいい子だと思うのよ、約束はきちんと守るし、学校から呼び出しが来るほどの不祥事も起こさないし。でも……父親である彼に対しては、小さな頃からかなりの確執があったみたいね。
――ほぉんとに、樹は。そして樹に対する彼は。 とっくに「父子」の関係を越えてるって思うのは私だけかなあ……? もう少し、上手に距離を置かないと、もっともっと辛くなる気がするんだけど。でも、私が出しゃばって忠告するのも変かなって思っちゃうのよね。
「透は……とってもいいパパだったもの。今までたくさん頑張ったから、色々考えるんじゃないかな? 菜花ちゃんも梨花ちゃんも樹も、みんな透がいたからあそこまで育ったのよ。透がいつでも私たち家族のことを一番に考えてくれたから」 あれ、ちょっと気障過ぎたかな。彼、すごくびっくりした顔してる。……でも、本当にそうだと思うわ。彼はお仕事も一生懸命だったけど、いわゆる「家族サービス」についても半端じゃなかった。私はそんなに出来た主婦じゃなくて、休日の朝とかどうしても寝坊しちゃったりするんだけど、そう言うときも朝ご飯作るの引き受けてくれたりして。 ――俺の仕事は千夏を喜ばせることだから。 あの時の言葉通りに。決して平坦な道じゃなかったし、いろんな分岐点で悩んだり迷ったりしながらここまで歩いてきた。それでも今、私がこの場所にいてこんなに満たされた幸せな気持ちでいられるのは、ずっと隣に彼がいてくれたから。どんなときにも互いの手を取り合って、導きあって。選び取ってきた道はいつも正しかったと思う。 「あ〜、そんな風に言ってくれるのは千夏だけだな」 そんな風に言って、ふいに視線をそらすの。でもね、耳が真っ赤になってる。ふふ、照れてるんだわ……可愛い。 「え〜、そんなことないと思うわ。みんな言ってるもん、『槇原さんちのご主人は素晴らしいわ』って。あんな風にあなたばかりが誉められると、逆に自分が情けなくなったりするけど……」 あら、本当のことなのに。そんな風に驚いた顔で振り向かないでよ。彼は相変わらず寝そべったままで、私をお出でお出でする。何だろうって顔を寄せたら、耳元でそっと囁くの。 「じゃあ……、俺は千夏に言われたかったんだな。千夏に認めてもらえるのが、一番嬉しいよ?」 ……え、はあ……そうですか。 今度は私の方が真っ赤になる番だ。えー、何で? どうしてそんなことを言うの? 別に誰が言ったって同じ言葉でしょ? 私が言うからって、特別なものにはならないはずだよ……。 「こんな風にふたりきりでいると、昔に戻ったみたいだな。千夏、全然変わってないよ、……ほら髪型だってあの頃と同じだし」 ――いや、いくら何でもそれはないわよ。 彼は思いやりを込めて言ってくれたんだろうけど、心の中で激しくつっこみを入れてしまった。 ああ、……それを言うなら彼の方よ。どうしてこの人はこんなに変わらないのかしら? それどころか年齢を重ねるごとに、ますます魅力的になっちゃって。毎日毎日こうして一緒にいても、いつもドキドキしちゃうの。こんなこと誰かに知れたら「あら、いつまでもお若いわね?」とか笑われちゃいそうだけど……でもでも、本当にそうなんだもの。 「ふふ……いい匂いがする。今度のシャンプーもいいね?」 ひっ、ひゃあああっ……! 何っ……!? どうして人の髪に口づけたりするのっ、信じられない、この人はっ! 私たち、蜜月の恋人同士じゃないんだよ、もう二十数年連れ添ってる夫婦だったりするんだからねっ……!
「えっ……ええっ……!? ちょ、ちょっとっ、……透っ……!?」 ――視界反転。 何か今、自分の状況の変化についていけなかったんですけどっ。だって、……だってっ……うわ。 「……んっ……、駄目だよ、そんなに暴れないの。いや、少しは抵抗された方が盛り上がるかな? こう言うのにも多少の趣向が必要だしね……」 え、……ええとっ……!? 何をしてるんですか、この人。当然のように私のスカートに手を掛けて、一瞬にやっと笑ったかと思うと一気にずり下ろしちゃうのっ……! そう、これってウエストがゴムだったりするから。……で。 「いっ……、ひゃあっ……!」 思わず、腰が跳ね上がる。だって……っ、いきなり下着の中に手がっ。嘘っ、……ちょっと待って! 「ん〜、どうしたの? そんな風に喜ばれると、ますますやる気になったりするんだけどな。ここんとこ、忙しくてご無沙汰しちゃったし、……いいだろ?」 いいだろって、……そのっ。もう、すっかりそう言う感じになってるし。それにそれに、誤解を受けないようにフォローを入れると、今日で中5日だよ? これって、プロ野球のピッチャーのローテンション周期のような……!? 「でっ、でもっ……!」 やっぱり、抵抗しちゃうわ。だって、……実は玄関とか開けっ放しなのよ。もしも誰かが「ただいま」とか帰ってきたら、かなりすごいことになっちゃうと思うの。もうアルコールは抜けてるはずよね? なのに、どうしちゃったのっ……! 「ん〜っ、千夏も人肌寂しかっただろ? ごめんな、その分今日は思い切り頑張って……」 ――くすっ、って。 途中で言葉を止めた彼が、胸に埋めたまま笑う。よいしょって、彼が起きあがったあとに残された私ときたら……何というか、あちこちはだけてるわ、キスマークまでついてるわで、とんでもないことになってる。 彼は、ひょいとベッドから降りると、すたすたと入り口の方に歩いていく。そしてチェストから着替えを出して。 「やっぱり、シャワー浴びてからにしよう。俺、……かなり汗くさいし」 くんくんって、シャツの匂いをかいでる姿が、何だか叱られた子犬みたい。ああ、でもそうね。彼は食事が終わってすぐに倒れちゃったし。最初は薫子ちゃんと同じに熱が出ちゃったのかと相当心配したのよ? 頑張り方が半端じゃない人だから、こうしてひとつ大仕事を終えた後はかなり堪えるみたいなの。いつもはらはらして見てるだけになっちゃう自分が本当に情けないわ。妻として、きちんとだんな様の健康管理が出来なくちゃ駄目なのに。ホント、何年主婦やってるんだって感じよね。
ドアの取っ手に手を掛けて、もう一度振り向く。 その表情が、……何というか信じられないくらい妖艶な感じがして、どきんとしてしまう。ああ、どうしたらいいの。何故、こんな風に今更ときめいちゃうの……? 片方の肩にバスタオルを引っかけたその姿でも、最高にセクシーよ。 「……一緒に入ろうか、千夏。隅々まで綺麗に洗ってあげるよ?」 うわっ……、そこでにっこりと笑うの? 犯罪だと思うわ、それって。私、……もう顔だけじゃなくて、身体中が真っ赤になっちゃってる。ど、どうしたらいいの、これ。
鼻歌交じりで廊下を遠ざかっていく足音。 しばらくぼんやりとそれを見送っていた私は、自分が腰が抜けて動けなくなっていることに随分たってから気付いた。
おしまい♪(051005)
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