それぞれのヴィーナス◇2番目の沙彩

    
   

 水底から不意に浮き上がったような感覚に、ふっとまぶたを開けた。
  照明の落ちた部屋、余計なものの何も置かれていないこの場所は住み着いているはずの人間の気配を全く感じさせない。初めて訪れたときに感じた違和感は、一年経った今も全く変わらずに私の中にあった。
  バスルームからシャワーの音、いつもなら隣に寝ているはずの人が消えている。
「起きたか」
  やがてその音が止んで。かちりとドアが開くのと同時に、蜂蜜色の灯りがこちらまで細長く差し込んできた。
「お前も早く浴びろ。―― 大通りまで送っていく」
  その姿をぼんやりと見送る私を一瞥して、主任は肩に掛けたタオルで髪を拭きながらキッチンへと消えた。

 午前二時、もうとっくに終電のなくなった時間。
  ふたりの靴音だけが、人影の消えた住宅街に高く響いていた。普段はひとりきりで歩く夜道、隣を歩くもうひとりの存在が不思議で仕方ない。
「前に一度、電車が止まったときにタクシーを拾ったことがあっただろう」
  こんな時間でも少し足を伸ばして大きな幹線道路まで出れば、すぐに空車を見つけることが出来る。乗車時間は十分足らず、多少懐は痛むが翌朝のことを考えればそうする方が得策だ。
「良く、覚えてましたね」
  いわゆる「頭がいい」と言われる人種は、記憶力も行動力もすべてが突き抜けている。最初から競争する相手ではないと言うことを、この人と過ごした数年間で痛いほど実感した。
  私には想像も出来ないレベルの膨大な情報が、主任の頭の中にはぎっしりと詰まっている。そしてそれらはすべてがきちんと整理され、使いたいときにすぐに取り出せるようになっているのだ。
  彼は私の言葉を無言でやり過ごす。そのまま、また沈黙が続いた。
「―― 月、だ」
  角を曲がったところで、主任がふと空を見上げる。急に視界が開けたことで、遠い東の空が私たちの目の前に現れた。その方向には街灯りはなく、闇色にかすんだ場所に細い糸のような月が浮かんでいる。
「ずいぶん頼りないな、あれはもう沈む間際か」
  その声に、私は思わず彼の方を振り向いていた。その眼差しは、変わらず遠い空に向けられている。
「いえ、あれは今、昇り始めたところです」
  別に答えを求められたわけではないとわかっていた。だけど、気がついたら口から言葉がこぼれ落ちている。
「―― 下弦の月、っていうんですよ?」
「下弦?」
  主任が眉をひそめたのが気配で感じ取れる。
「だが、あれでは弦の部分が上を向いているじゃないか」
  私はすぐには答えなかった。だから、またしばらくの沈黙が続いていく。履き慣れているローヒールのかかとがこんなに大きく響くなんて知らなかった。
  遠く見える細い月は曲線の部分を下にして、ちょうど器を置いたかたちをしている。確かに見た目だけで言えば、主任の言うとおりだ。
「昇り始めるときはあの向きなんです。でも、空を回って沈むときに逆向きになります。『上弦』『下弦』という名称は西の空に沈むときのかたちを元につけられているみたいです」
  夜更けの帰り道、同じかたちの月に幾度となく遭遇していた。
  真夜中過ぎに人目に付かずにひっそりと姿を見せる月。その存在があまりに切なく悲しげに思えて、あとから何となく調べてみたのだ。
「あれは、もうすぐ消える月なんです」
  そんな風に改めて言葉にしてみると、まるでこの世の終わりを告げているみたい。だけど、本当にそう。昇るときにはたくさんの希望を抱えていても、天上から下る頃にはすべてを失ってしまう。あとには何も残らない。消えていく存在には、必要なものなんてひとつもないんだ。
  ―― まるで、今の私と同じ。
「何言ってるんだ」
  しばらく経ってから。主任は、まるでどこか遠くに投げかけるかのようにそう告げた。
「月のかたちなんて、本当はいつも同じだ。俺たちが見ているアレは太陽に照らされている仮の姿だろう」
  さらさらと透き通った風が通りすぎていく。それが主任の無造作に羽織ったジャケットを、私の髪先をふわりと舞い上がらせる。
「見せかけのものに惑わされるなんて、愚か者の行為だ」
  闇に消えていく言葉たち、その真意がどこにあるかなんて私にわかるはずもない。
「そう……なのでしょうね」
  主任は常に真っ直ぐ前を見て揺るぎなく進んでいく人だ。ときには強引とも思える行動もあるが、そこには緻密な計算がなされているから間違いなど起こるはずもない。
  だから私はいつもこの人の背中ばかりを見ていた。そこを追いかけていけば、道に迷うことなどないから大丈夫。それはわかっているけど……でも、いつも寂しかった。
  ―― 主任は決して振り向いてはくれない。
  私があとについていこうといくまいと彼の歩みは変わらないし、そもそもそんなことを気にしているはずもないと思う。
「沙彩」
  大通りまでたどり着いたところで、彼はようやく私の存在を思い出してくれた。
「はい?」
  突然名前を呼ばれて、ちょっと驚く。それまで長い長い物思いにふけっていたせいか、ひどくぼんやりした受け答えになってしまった。
「―― いや、なんでもない」
  タイミング良く流れてきた緑色の空車ランプ。主任は車道ギリギリのところまで歩み出て、そのタクシーを止める。
「気をつけて帰れよ」
  背中に投げかけられた声に振り向くと、彼はもう今来た道をひとり戻り始めたところだった。

◇ ◇ ◇

「……主任が、欠勤?」
  翌朝。ヤバイと思いつつも始業ギリギリになってしまった私に、予想もしない事態が訪れていた。
「はい、先ほど連絡が来ました。今日のことは沙彩さんに一任するそうです。そこに言付けをメモしてありますから、確認してください」
  朝一番早く出社することを信条としている後輩・佐藤くん。まるで女の子みたいな丸文字で書かれた走り書きが私のデスクの上にペン立てを重しにして置かれていた。
「そう……なんだ」
  どうしたんだろう、急に。いきなり風邪ひいたとかじゃないよね? 昨日の夜は少しも変わった素振り見せなかったし。
「あ、それで。これ、昨日の見積書です! 今度はちゃんと出来ていると思うので、チェックしてください」
  にこにこ顔で書類を手渡してくる後輩くんとは裏腹に、何だか気の重い私。まあ、もちろん、主任が一日中外回りでいないことは過去に何度もあったし、そう言うときの臨時司令塔のポジションは必ず私に回ってきていた。でも今までだったら、そう言うときには必ず事前にちゃんと引き継ぎをしてくれてたんだけど。
「うん、わかった。ところで他の人たち、今朝はまだ? 確か、林くんも提出書類があるんじゃなかったっけ」
「あ、林さんなら、田辺先生との打ち合わせの時間が早くなって直接ご自宅に向かうそうです。……そうだ、スケジュール表、直してきますね!」
  幸いなことに、チームメンバーの動向はすべてチェックできている。主任がああいう人間で、どんどん自分ペースで仕事を進めちゃうから、私はひとつひとつのやりとりを確認しつつどんな風におのおのの話が進んでいるかを必死に把握しようと心がけていた。
  そしてまたメンバーの方も、すべてにおいて厳しい鹿沼主任よりも私の方が気軽に声を掛けやすいらしく、気づけば双方の情報の橋渡し的な役割も果たしている。まずはこちらに相談されて、手に負えないものだけを主任に回す。いつの間にか、そんなやり方が当然になっていた。
「あとはK書店とのイベント打ち合わせだね、こっちは木田くんと安原くんの担当だったっけ」
  確かこちらも順調に話が進んでいるから、あとは最終チェックだけになっているはず。その他、飛び込みで営業しているメンバーもいるけど、そこで話が動いたとしても今日中に即決する必要はないから大丈夫かな。とりあえず報告書だけはきちんとまとめてもらわなくちゃ、だけど。
「でも、珍しいな。夕方まで一切連絡が取れないなんて……」
  先ほどの佐藤くんのメモ、その旨がご大層に驚いたときの漫画の吹き出しみたいなかたちで囲われている。 たぶん、そのときの私のぼやきは、かなり恨みがましい響きになっていたと思う。佐藤くんはすでに自分の席に戻っていたから、聞こえなかったみたいでホッとする。
  そりゃあね、何でも洗いざらい話してくれとは言わないよ? いくら同じチームの一員とは言っても、ひとたび仕事を離れればそれぞれが他人なんだから。でも……話を切り出すチャンスならいくらでもあったはずなのに。何だかとても突き放された気分。
「ええと、……ちょっと総務まで行ってくるね?」
  いつの間にか経理担当者にお伺いを立てなくちゃいけない事案が溜まっていた。それらをひとまとめにしたファイルを手に、私はチーム内でひとり部屋に残っている佐藤くんに声を掛ける。
  そうよそう、余計なことを考えてたって始まらない。とにかくは今日一日をしっかり乗り切らなくちゃ。
「はいっ、わっかりました〜!」
  ふふ、そんな風にパソコン画面に向かっている姿はすっかり一人前かも。
  今年は販売部署には新規の配属がないから、後輩が出来なくて残念だったね。でもまあ、また一年頑張れば、彼も立派に先輩風を吹かせることが出来るまでに成長するだろう。
  そして、販売部署のドアに手を掛けようとしたとき。廊下の向こうからけたたましい靴音が響いてきた。
  思わず後ずさりしたわよ、だってここは内側に開くドア。飛び込んできた人間と出会い頭に衝突という危険も大いにあり得る。
「……うわっ、沙彩さん……っ!」
  果たして、私の予感は的中。いきなり開いたドア、もう少しのところで鼻先をかするところだった。
「え、……何?」
  物音の主は、いつも元気印の高橋くん。でもその尋常じゃない様子には、さらに数歩後ろに下がってしまう。
「良かった〜っ! あのですね、沙彩さんは今日はこれから部屋を一歩も出ちゃ駄目です! 昼飯の買い出しも俺たちが引き受けますから、絶対に勝手に歩き回らないでください!」
  ―― は? 一体何を言い出すのよ、いきなり。
  驚いた私が何度か瞬きをする向こうで、どうも全速力でここまで走ってきたらしい彼は必死で呼吸を整えてる。
「あの……でも私、これから経理の人に話を聞きに行かなくちゃならないんだけど」
  全く、冗談は休み休み言えっていうのっ。何考えているのよ、いくらお調子者の高橋くんだって言っていいことと悪いことがあるはずよ。
「そんなの俺たちが代わりにやります! とにかくっ、沙彩さんはここを出ては駄目です!」
  それから彼は首をぶんぶん横に振って、再びこっちを向き直った。
「沙彩さんにはご自分の立ち位置をわかっていただかなくちゃ困ります! あなたは今回のヴィーナスなんですよ!? 今出て行ったら、他の部署の奴らの餌食になっちゃいますから……!」

 

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2010年6月16日更新