それぞれのヴィーナス◇2番目の沙彩

    
   

 この部屋は一見ワンルームに見える造り。手前にカウンターキッチンがあって、奥はリビングスペース。一番窓際にはベッドが置かれている。でも今その場所は、照明が暗く落とされて足下もよくわからない状態だった。
「……あっ、ああっ……」
  閉じたドアに背中を押しつけられたまま、口内を貪られている。艶めかしい舌の動き、互いの唾液が混ざり合って、口の中が泡立っていく。
  そうしている間にも、主任の手は私の頬から首筋、そして胸元へとせわしなく動き、留まることを知らない。ブラウスの上から胸を触られると、布地に当たった部分が普段とは違う感覚を与えられる。
  半月ぶりの行為に知らないうちに高まっていく身体。いいように飼い慣らされてしまった自分が哀れで仕方なかった。
「……しゅ、主任っ……待って!」
  ブラウスのボタンを引きちぎられるほどの勢いで外されて、胸元が露わになる。そこにいきなり唇を当てられて、私は悲鳴に近い叫びを上げていた。
「駄目っ、まずシャワーを浴びないと……」
  今はまだ春先で、今夜もひんやりした夜風の中を歩いてきた。
  そうは言っても、丸一日動き回った身体をこのまま晒すことなんて出来ない。ふたりが抱き合うときにはいつでも同じボディーシャンプーの香りをさせていた。
「何故、そんなことをする必要がある」
  主任は動きを止めてくれない。あっという間にブラが外され、まるで柔らかく体臭を楽しむかのように丸い膨らみに顔を寄せられる。先ほどまで私の口の中をこれでもかというくらい暴れ回っていた舌先が、今度は膨らみの下の方からゆっくりと頂きに向かって上がってくる。
「恋人同士なら、そんな気遣いなど無用だろう。互いのこと以外、何も考えられないはずだ」
  さらにスカートも落とされ、下着の中に手を差し込まれる。もちろん、そのことに対しても何の確認もないまま。硬いガードルの中に窮屈そうに進入していく手のひらはいつもよりも強く肌に吸い付いて、少しの動きだけで私を翻弄する。その頃には、すでに立っていることすら危うい状況になっていた。
「……やっ、やあっ……!」
  いきなりやってきたその瞬間に、逃れるすべもなかった。足下から頭の先へ突き抜けた衝撃に我を忘れる。しかし、意識が戻ったときに見たのは、玄関先の鏡に映るあられもない半裸状態の自分だった。
  ―― こんな風にみだらに愛されて、それで悦んでいるなんて……。
「どうした」
  まるで私の心の中を覗き見したように、主任が私の耳元に吐息を落とす。その部分から、またじんと熱いものが広がっていった。
  そして、また唇が重なる。最初は戸惑うばかりだったやりとりにもようやく慣れてきた。おずおずとこちらから舌を差し入れると、嬉しそうに絡み取られる。
「お願いします、……ベッドに」
  こんな場所で全てが終わってしまうのは、どうしても嫌だった。最後に抱いてもらえるだけでも幸せだと思わなくてはならないのに、性急に全てが進んでいくとあとに何も残らないような気がする。
「何だ、これじゃ物足りないというのか。気が早い奴だな」
  どうして、そんな解釈になるのかわからない。でも、眼鏡越しに覗くその瞳はとても優しげに見えた。そうだ、私はいつもこんな風に見つめられたかったのかも知れない。本気で愛されるのがどういうことなのかは全く想像もつかなかったけど、主任の中にある温かいものを少しだけでもいいから分けて欲しいと願っていた。
「すぐには楽にしてやれないぞ。今夜はお前のよがる顔がたくさん見たい」
  そう告げたあと、主任はおもむろに私を抱き上げる。鏡に映ったその姿はまるで「お姫様抱っこ」と呼ばれているそれだ。信じられない、こんなのおよそ主任のキャラじゃないのに。
「何をそんなに驚いている。恋人同士だったら、これくらい普通のことだろう」
  ……やっぱり、どんな行動に出たとしても主任は主任のままだと実感する。
  いちいち「恋人」という言葉を強調して、今のこの時間が作られたものであることを知らしめてくれるなんて性格悪すぎ。そりゃ、そんな関係を求めたのは私自身だけど……でも、そこまで執拗に確認しなくたっていいじゃない。
「……」
  私は主任の腕に揺られながら、その首に腕を回して乱れた身体を押し当てていた。両手が塞がっていたら振り払うことも出来ないはず。相手の弱点を逆手にとって、今までやりたくても我慢してしまっていたことを片っ端からしてしまおう。そっちのお言葉どおり、「恋人」三昧しちゃうから。
「ほら、お前のお気に入りの場所に着いたぞ」
  カーテンのひかれていない窓越しに、月明かりが静かに差し込んでいる。私をシーツの上に下ろすと、主任は自分の身につけているものを乱暴に脱ぎ捨てた。かちり、とサイドテーブルに眼鏡が外される。
  そして、仰向けになった私の上に覆い被さると、再び唇を重ねてきた。
「……あっ、そこは……っ!」
  数え切れないくらい身体を重ね合ってきたこの一年間。主任は私の全てを知り尽くしている。気持ちなんてどこにもなくても、お互いをたかめあうことは簡単。そんな実感ばかりを再確認してきた日々だった。
  ぬかるんだその場所を自在にもてあそぶ指先。私の特に感じる場所だって、全部わかってる。だから迷いもなくそこまで一気に突き進んできた。
「全く、あっという間にこんなになりやがって。本当にこらえ性のない奴だな」
  冷たいひとことが、私をさらに酔わせる。いいの、どんな風に蔑まれたって。ひとつひとつの動きが、言葉が、私に永遠に消えない痕をつけてくれるなら。
「だっ、だって……本当にすごくて……」
  絶望の淵に突き落とされても、それでもまだ私はこの人のことをこんなにも求めていたんだ。
「でも、まだ足りないんだろう。それくらい、わかってるぞ」
  ―― だって、主任に夢中だったんだもの。一緒にいられるだけで、毎日が夢みたいだった。
「だっ、駄目っ……そんな風にしたら……!」
  片足を高く持ち上げられて、腰も不安定に浮いている。そんな体勢で敏感な部分をかき混ぜられたら、もう我慢の限界。
「……あっ、……んあっ……!」
  激しさが一気に突き上げてくる衝動に射貫かれて、私はまた我を忘れた。一呼吸ののちに気を取り戻すと、それを待ちかまえていたかのように身体の向きを変えられ、また指が差し込まれる。
「……いっ、嫌っ! こんな風にしてたらっ……」
  今に気持ちごとみんな吹き飛んじゃう、私の中が空っぽになっちゃう。どうして今夜はこんなにしつこいの。もうそろそろ、本番いってもいいんじゃない?
  そんなこと、恥ずかしくて実際には口に出来ないけど。それでも恨みがましい眼差しで見つめると、主任は喉の奥で低く笑う。
「何だ、泣くほど感じてるのか。仕方のない奴だな」
  伸び上がって顔を寄せられて、次の瞬間には生暖かい舌先が頬を辿っていく。
「でもまだ許してやらないからな。今日は俺のやりたいようにさせてもらう」
  太股のあたりに硬いものが当たる。主任だって、もうギリギリになっているんじゃないの? それなのに、私のことばっかり。こんなのいつまで続くんだろう。
  その後もさんざん乱れさせられて、何度も気が遠くなった。どれくらい時間が経過しているのかもわからない。最初のうちこそは終電の時間を気にしていたんだけど、途中からはそれすらどうでも良くなっていた。
「……ぁふあっ……」
  また、熱い息を吐き出す。顎がガクガクして、まるで呼吸の仕方も忘れてしまった感じ。身体のあちこちがひくついて、とにかく辛い。辛いけど……もっともっと欲しい。だってこれきりなんだもの、最後なんだもの。だから、一生分愛して欲しいと思う。
「そろそろ、いいか?」
  焼け付くほどに熱を帯びた眼差しに見つめられる。返事をする代わりに、顔のすぐ脇に置かれていた彼の腕に指を滑らせた。何て熱いんだろう、もしかして主任も私のことを求めてくれているの?
  今まで、そんなことも考えたことがなかった。私たちが身体を重ね合うのは、自分自身の欲求を満たすため、それだけだったはず。互いに気持ちよくなればそれでオッケーなのだと思っていた。
  そう、……だから別に相手が誰でも同じこと。
  そんな関係で心から満足できていたなら、もっと割り切った終わり方が出来たと思う。主任の誤算は、私の心の内側をわかっていなかったことだ。だから、こんな風に最後に来てとんでもない番狂わせなことが起こってしまった。
  ―― でも、やっぱり嬉しい。
  足を大きく開かれて、主任がゆっくりと自身を埋め込んでくる。そのたとえようのない存在感と熱さに気持ちが半分飛びかけた。でもすぐに柔らかいキスで我に返る。
「……いい顔だ」
  前髪をかき上げられて、額に頬にキスを落とされる。意地悪な言葉と激しい責めで追い詰められているはずなのに、それでも私はふわりと微笑んだ。そして、主任の首に腕を回して、私からもキス。最初は呆れられたけど、たった数時間のうちにとても上手に出来るようになったと思う。
「今夜の沙彩は、信じられないくらい締め付けてくるぞ」
  普段通りの冷静な声でそう言われると、たまらなく恥ずかしくなる。だけど、目は逸らさないの。どんな顔も残らず見つめていたいから。
「そっ、それは……主任がすごいから」
「雅也、だ」
  息が掛かるくらい近くにある主任の顔。形のいい眉がぴくりと動く。
「恋人なら、役職名で呼ぶな。ここは仕事場じゃない」
  そして、ゆっくりと動き出す。身体を傾けて、私の感じる場所をそろりそろりとなぞっていく。それがあまりにもこそばゆくて、背筋にぞくぞくしたものが走った。
「しゅっ、……雅也っ! そこばかり、やめて……!」
  もちろん気持ちいいことは確かなんだけど、あんまりひとつのことばかりを繰り返されるとそれだけでもう何というか……我慢できなくなってくるの。
「何だ、じゃあこっちがいいのか」
  大きな手のひらが私の胸を掴んで、柔らかく揉みほぐす。かと思うと、今度は特に感じる花色の部分を執拗に責め立てて。更に吸い付かれて歯を立てられたらたまらない。
「……っん、あああっ……!」
  また、つながりあった部分がじん、と熱くなる。次の瞬間には身体の真ん中から何かが溶けて流れ出す。
「困った奴だ、そんなに急かすんじゃない」
  そう言うと、主任は私の身体を横にして、更に深く自身を送り込んできた。

 

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2010年6月28日更新