TopNovelヴィーナス・扉>下弦の月・11


それぞれのヴィーナス◇2番目の沙彩

    
   

 学生時代は今の仕事とは全く畑違いな建築関係の学部にいた。その話は、以前彼の口から直接聞いたことがある。だけどこの業界はそう言うパターンも多かったし、引き出しの多い人間の方が勝ちみたいなところもあったから、とくに特別なこととは捉えてなかった。
「ずっと、計画していたことだったんですか」
  きっとそうに違いないと確信する。主任が行き当たりばったりな行動をするなんて絶対に考えられない。
「そうだな、だいぶ長いこと考えていた」
  そんなこと、全然気づかなかった。私にとって主任は絶対的な存在で、その背中についていけば大丈夫みたいに安心だと思ってた。
「仕事をしながら、いつでもお前たちとの温度差を感じていた。俺にもあれくらい熱くなれることが他にあるはずだ、それをせずに一生を終えていいものかとね。だが、すぐに全てを投げ出す勇気もなかった。俺にとってもあの場所はとても居心地の良いものだったからな」
  ウチの会社は、とにかく中途採用が多い。他企業から転職してくる人間もたくさんいて、多民族国家のような不思議な雰囲気がある。ひとつひとつの仕事が新鮮で、知識とか経験よりもバイタリティーで押しまくる方が上手くいくこともあった。
「それに、あの場所にはお前がいた。もしもあのときにお前に出会わなかったら、もっと早く決断が出来ていたと思う」
  心が一枚めくれたみたいに、じん、と痛くなる。指を伸ばせば届く距離にいる主任が、たまらなく遠く感じた。
「そんなこと、一度も言ってくれたことなかったじゃないですか」
  こういう状況なのに、「取って付けたみたいだな」なんて思ってしまう私。凄く失礼なことだと思うけど、仕方ないよね。どこまでも大人で落ち着いていて、慌てる姿なんて一度も見たことがなかった主任。愛想を尽かされたくなかったから、私の方も気丈に振る舞うしかなかった。
「言えるわけないだろうが」
  いろんなことが一気に押し寄せてきて、気持ちがパンクしそう。つい数時間前までは自分のことしか考えられなかったのに、今はそこに主任のことまでが加わって。もう、混乱しすぎて気がおかしくなりそうだ。
「転職の話だって、おひとりで勝手に決めてずるいです」
  せめて、私にだけは本当のことを伝えて欲しかった。
  そりゃ、急に話を切り出されたらすごくショックだったとは思うよ。でも、主任が本当にやりたいことを包み隠さず話してくれたら、そのときは心から応援したいと考えられたはず。
「それって、……やっぱり私のことなんてどうでもいいと思ってるってことじゃないですか」
  話を切り出す時間なら、いくらでもあったはず。私たちにはふたりきりで過ごす秘密のひとときが存在したのだから。だけど、あえて行動に出ようとしなかったってことは、それだけ軽く見られてるってことになっちゃうよ。
「いや、そうじゃない」
  もともと、主任は言葉が多い方じゃない。その上、語られない部分から何かを想像するのも難しい人だった。
「お前は、いつでも無理に俺にあわせようとする。そうされることが我慢ならなかったんだ」
  ……それって、どういうこと?
「あの、仰っている意味が……よくわかりません」
  何だか、すごく微妙なところでふたりとも堂々巡りをしているような気がする。すぐ側に大切な真実があるのに、そこに手を伸ばすことをお互いに躊躇していた。
「―― 特定の相手はいないと言い切ったそうだな」
  すると、主任は急に話題を変えた。
「企画の話を聞いたときには正直、かなり戸惑った。でもそれよりも、沙彩がその話を受け入れたと聞かされたことの方がショックだったんだ。三行半を叩きつけられた、って感覚かな」
  え、……ええと。
「その、私……企画のことを、ヴィーナスの話をお受けするなんてひとことだって言った覚えありませんけどっ。もちろん打診だって受けてません。それって何かの―― 」
  そこまで言いかけて、ハッと気づく。
「もしかしてその話って、木暮室長経由ですか!?」
  主任は、すごく決まり悪そうに頷く。
  あっ、あいつめ〜っ! 何でそんな余計なことを言うのよっ。急に雲隠れしたからおかしいなとは思ってたんだよね、あのときのわざとらしい行動にはやっぱり裏があったんだ。
「……そうじゃなかったのか?」
  何なのーっ、それってひどすぎ! やっぱ、あんな会社にはもういられないわ。人の話を勝手にねじ曲げてねつ造して、でもって脚色まで加えるなんて最低。あんな人間がゆくゆくは牛耳ろうとする場所なんて、まっぴらごめんよ。
「俺はもともと企画の対象から外れているし、それを承知の上で沙彩が全てを受け入れたなら仕方ないと思っていた」
  それでいよいよ決心が付いた、と小さな声で付け足す。それって、転職のこと? もしかして、この前の欠勤って入社のための面接とかそういうのだったのかな。
「そ、そりゃあ、特定の相手がいないって言ったのは本当です。だって、主任とはそう言う関係じゃないってはっきり言われてましたし……」
  最初から身体だけの関係と割り切っていた、寂しいと思ったこともあるけど主任との付き合いを続けるためにはそれで仕方ないと諦めて。
「そうか」
  そこでまた、喉の奥で低く笑う。
「だとしたら、お互い様ってことだな」
  気持ちを伝えるって、すごく難しいことだと思う。今の私の心の中、どんな言葉で表現したらいいのか、全くわからない。
「本当に仕事、辞めちゃうんですか?」
  私の言葉に、主任は小さく頷く。それだけのことで、まるで知らない土地で迷子になってしまったかのような途方のない気持ちになる。
「私、そんなの絶対に嫌です。主任とずっと一緒にいられると思ったから、今日まで仕事を頑張って来られたのに。それなのに、急にそんな……」
  自分でもかなり勝手なことを言ってるなと思う。そもそもこんなの、退職届を書いた人間が言う台詞じゃないでしょう。
「―― 二年だけ、我慢してくれないか」
  再び雫の落ちる私の頬を、主任の指が辿る。たどたどしく触れるその部分から、臆病な優しさが伝わってくる気がした。
「試験を受けるまでには、一定期間の実務経験を積まなければならない。晴れて独立したそのときにはお前にも一緒に仕事をやってもらいたいと思う。それまでの間は、あいつらの面倒をみてやって欲しいんだ。沙彩なら、それが出来ると思う」
  まだ私、頭の中がごちゃごちゃになっている。だから、主任のくれる言葉たちの意味が、きちんと理解できてない。でも、これって……もしかして?
「その代わり、仕事以外の俺の時間は全て沙彩のものにしよう。会社を辞めてしまえば、肩書きも何も関係ない。皆が納得するかたちで沙彩を手に入れることができる」
  ぎこちない微笑み、この人はもしかして感情表現自体が上手に出来ないのかなとふと思った。
「で、でもっ……主任はそれでいいんですか?」
  まだ全てを納得していない状態で、それでもきつく抱きしめられる。突然のことだったから、身体に巻いていたタオルケットがずり落ちそうになって慌てて押さえた。
「お前が俺を選んでくれるなら、それで決まりだ。一晩だけという言葉は取り消せ、もう永遠に離さない」 どうして急にそんなことを言うの? 変わりすぎた態度について行けない。
  戸惑うばかりの私の顎に手を掛けて、主任が前屈みに顔を寄せてくる。たった一晩のレッスンで、かなり上達したと思う「恋人のキス」。
「本当は、いつも手に入れたいと思っていた」
  瞬きをして見つめる私の視線から逃れるように、彼は再び背中に腕を回してくる。
「種明かしをしてやろう」
  背筋を辿っていた指先が、タオルケットを引っ張って剥がし、床に落とした。
「最初の夜、本当は何もなかった。そうしてしまいたい気持ちはあったが、酔いつぶれた女を無理矢理にモノにするのはさすがに抵抗があったからな。だから、……二度目の夜はいわば『賭』のようなものだった。もちろん、お前に断られたら、そこで終わりにするつもりでいた」
  ―― ちょっ、ちょっと待って!? それって、……その……。
「じ、じゃあ、どうしてあんなこと言ったんですか!? だって、あれじゃあまるで―― 」
  そもそも最初から、ボタンが掛け違ってたってこと? でも、それってないよ。はっきり言ってくれたら、私だってこんなに悩まずに済んだのに。
「俺に意気地がなかったということだろう」
  まるで他人事のようにそう言うと、主任は私を抱き上げる。そして、一度そのまま灯りの点いた仕事部屋に入ると、壁のスイッチで照明をオフにした。

◇ ◇ ◇

「いや〜っ、ニノちゃん! このたびはおめでとう!」
  週明け、意を決して出社した私は自動ドアを開けたところで全く嬉しくない歓迎を受けた。
  この二週間、どこを捜してもその足取りすら掴めなかった諸悪の根源が、満面の笑みを浮かべて立っている。
「良かったねえ、ニノちゃん! あのムッツリ、どーしたって本性を見せないと諦めていたけど、やっぱり瀬戸際になって覚悟を決めたか。これも全部僕のお陰だね、ふたりには盛大に感謝してもらわないと!」
  ……何か言ってますけど。しかも全部自分の手柄にしてるってどうよ? そもそも、あんたが余計なことを主任に吹き込むから話がこじれたんじゃないの。このまま修復不可能だったら、どう責任を取るつもりだったのっ!?
  でも。こみ上げてきた怒りは全部呑み込む大人の私。
「ええ、それはこれから仕事の実績でお返しさせていただきますね」
  すごい、にっこりと余裕の微笑みまで浮かべちゃったよ。人間、腹をくくると本当に強いなあ。我ながら、あっぱれと思っちゃう。
「それでは、私は先を急ぎますので―― 」
  ちょうど開いたエレベータのドアに身体を滑り込ませる。また始まる新しい一週間、今頃チームのみんなは落ち込んでいるかなあ。企画が不完全燃焼で終わった上に、主任が一身上の都合で退職。泣きっ面に蜂って言葉は彼等のためにあるのだと思う。
  それでも、きっといつかは乗り越えることが出来るよね。あのはた迷惑なイベントが次に開催される四年後まで、せいぜい男を磨いてもらいましょう。そのときのバトルをこの場所で見物できないのはちょっと残念だけどね。

  まあるい月はいつか細く欠けて、全てを隠してしまう。でも大丈夫、本当に消えてしまったわけじゃなくて、再び満ちてくるから。
  私の夢も、そして彼の夢も同じこと。諦めずにいれば、いつか必ず叶う。だから、いまここから始めよう。しっかり繋いだ手は、もう二度と離さない。

了(100705)
ちょっと、あとがき(別窓) >>

 

 

2010年7月5日更新

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