週報短文
バックナンバー 2005年9月分
2005年9月25日
解るとは自分が変わること
先週月曜日のIさん・Sさんの結婚式は喜びあふれる集いとなり、皆さまのお祈りを覚え、ただ神に感謝します。
結婚式の説教で、三人で学んだテキストを引用し、牧師が説教で語ったことを自分の生活で実践していないという過ちについて触れました。人間である以上過ちを犯さないで生きることはできませんし、キリスト者であるわたしたちはだれも不遜になろう、傲慢になろうとは思っていません。むしろ謙遜に生きようとしていると思います。けれども、まさにそのときに過ちを犯してしまう。そこには、「言われなくてもわかっている」「知っている」と思う心があると思います。しかし、そのような心には変化が起こらないのです。
以前説教でも引用しましたが、「自分のなかに歴史をよむ」(阿部謹也著)から文章を紹介します。
「上原先生(著者の恩師)のゼミナールのなかで、もう一つ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本を読んだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、じつは、何も解っていないということが身に沁みて感じられるのです。「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。」
わたしたちはキリストに向かって成長します。自分が変えられないで成長することはできません。漁師のペトロが大工であるイエスに湖で漁をするように言われたとき、「しかし、お言葉ですから」と答えて、そのとおり網を降ろしました。専門である、解っていると思っていても、ふと立ち止まり自らに問いかける心を持ちたいのです。
2005年9月18日
折が良くても悪くても
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。(テモテの手紙二 4・2)
朝晩は涼しくなり、秋の訪れを感じています。恵みの夏を過ぎ、実りの秋とさせていただきたく祈っています。秋の諸行事の日程と概要をお知らせします。祈りを合わせて備えていきましょう。
10月16日は今年度第2回目のファミリー礼拝をささげます。キリスト教教育週間に合わせるようになって数年たちました。今年のテーマは「いっしょに行こう」。子どもも大人も一つになって、主を礼拝します。
10月29日(土)〜30日(日)は、仙台青葉荘教会に、応援伝道のチームを派遣します。子どもの集会のお手伝いの予定でしたが、都合により変更になりました。土曜日の夕方頃に、若い人が集える交わりの時を、愛餐会を含めて計画中です。翌日の日曜日は、賛美と証と説教を担当します。永本先生が招集と説教を担当されます。まもなくメンバー募集を始めます。豊かな賜物が差し出され、必要が満たされ、御用が果たせますように。(日曜日、島隆三先生は、別の教会に招かれ、特別集会の講師で出かけるとのことです。)
11月13日は、創立55周年記念礼拝をささげます。講師は、初代牧師の横山義孝先生です。賛美礼拝と一般礼拝の説教をお願いしています。礼拝後は、横山先生を囲み、愛餐と交わりの時を持つ予定です。この特別な礼拝には、いつも案内する方に加えて、長欠の会員の方や関係者の方にもお知らせしたい。まだまだ不十分なのですが、6月から毎月二十名ほどの長欠の方々に西川口だよりとお手紙を郵送しています(必要な人にはリストをお見せします)。横山先生もずっと祈ってくださっています。この貴重な機会が最大限有効に用いられますように。わたしたちが、御言葉によって忍耐強く、十分に教えられ、福音宣教に遣わされて行けますように、祈り待ち望みます。
2005年9月11日
今月の月報「西川口だより」(447号)に永本慶子牧師が「今が一番」という味わい深いエッセイを書いてくださいました。神の恵みの喜びを、てらいなく、淡々と証しされていて、きっと多くの方々に慰めをもたらすと思います。
敬老祝福式によせて
一方で、は書き出しの「この夏で58歳に」なられたというコメントに、わたしは立ち止まり、複雑な気持ちになりました。というのは、わたしの母が59歳で天に召されたので、「今の永本先生の年齢と変わらないではないか」と、驚いたからです。
母が召されなければ、わたしは献身に導かれなかったのですから、すべて神様のみ手の内の出来事と受止めていますが、自分も年を重ね、別の見方もでてきたことに気づかされました。もっと長く生きて、いろいろなことをしたかったし、できたかもしれない、と思うのです。
主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であると(マルコ12・27)。だからこそ、神のものとされたわたしたちは、自分を愛し、生きることを愛し、人生を愛し、隣人を愛します。
旧約聖書の詩人はこう祈りました。
「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。・・・生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。(詩編90・10、12)
人生は労苦と災いに満ちていると御言葉は告げます。聖書全巻を通して見ても、理想的な家族はなく、破れた人間関係に、欠けだらけの人間ばかり。でもそこに、神の憐れみの光が常に差し込み、神は人を生かそうと働いておられます。
であればこそ、この朝、「人生をよく生きてこられました。これからも主の祝福あれ」と祈りをささげます。共に集ったわたしたちにも、恵みの時、救いの日となることを祈りながら。
2005年9月4日
先週の日曜日は、お休みをいただいてありがとうございました。知人の教会で礼拝をささげました。
お休みをいただいて
よその教会に行きますと、その教会の週報や月報などいただきますが、隅から隅まで目を通すのは、職業病かもしれません。教会の発行されたものには、その教会の姿勢が反映されていますから、とても興味深いのです。
訪れた教会の週報には、「礼拝の心得」が次のように記されていました。余裕を持って到着しましたので、しっかり読んで礼拝に臨みました。
「礼拝は奏楽から始まります。前の方から順に着席して、心静かにお待ちください。」「「初めての方は遠慮なく誰にでもおたずねください。」「聖書、讃美歌をお持ちでない方は受付でお貸しいたします。」「礼拝中、おさしつかえない方は、一同に合わせてご起立ください。」「礼拝献金は、神の恵みへの感謝のしるしです。ご用意されている方は、お祈りのうちにささげてください。」「礼拝後はお互いにあいさついたしましょう。」
なかなか、充実しています。礼拝前に感心してしまいました。
先週は午後、はからずも隣の町の教会を訪問させてもらうことになり、会堂を見学し、建築や改修の話をきかせてもらい、帰ってきました。もちろん週報もいただきました。
さて、こちらの週報にも「礼拝について」と、心得が記されていました。先の教会と同じものもありましたが、他に「着席後は、聖書の箇所や讃美歌に目を通しましょう。」「礼拝を守ることは、クリスチャンの生活の基礎・祝福の源泉であることを覚え、励みましょう。」とありました。
西川口教会の週報には何と書いてあるでしょうか。わたしたちはそのことを心にかけて礼拝に臨んでいるでしょうか。主日礼拝は、教会活動の軸である集会です。他の教会の礼拝への姿勢をヒントに、何のための心得か、主の日の礼拝への備えとは何であるか、考えてみましょう。