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週報短文

バックナンバー 2003年6月分


2003年6月29日

詩人・井置利男の名文

 天城山荘で井置利男先生にお会いしました。先生はチャプレンとしてご健在です。

“今の季節、ここ天城山荘にはさまざまな花が咲き乱れて、お客様方をお迎えしております。
 それにしても、野の花はどうしてこんなに美しく咲くのでしょうか。以前、幼稚園の子供たちに尋ねたところ、「それは僕たちが喜ぶから」と言下に答えた男の子がいましたが、人もおなじです。「一人は万人のため、万人は一人のため」に生きてこそ、人間ははじめてこの世に生を受けた目的を果たしたと言えるのです。「隣人の幸せのために生きる」という、この人生観に勝るものはありません。
 しかし、花は人を喜ばせるためだけに咲いているわけではありません。人を近づかせない人跡未踏の高山にも花は咲くからです。このことについてイスラエルの詩人は「香り高い花も、人の目にも止まらない高山に咲く花も、造物主なる神の御目を喜ばせるために咲く」のだと言っております。人もおなじです。
 教会の生んだ最大の音楽家J・Sバッハは、自分の作品の結びには必ずドイツ語の略字「S・D・G」(神の栄光のために)と書き添えたそうですが、人は究極的には創造主にして救い主なる神の栄光を現わす使命を帯びて、この世に送られてきたのです。
 それにしても、この世のものとも思えぬこの美しい花が、なぜ未練げもなく短命に終ってしまうのでしょうか。人の目を喜ばせ、神をお喜ばせするなら、いま少し長く咲いてもよいのではありませんか。
 思うに花は、この世のどんな美しいものでも、たとえそれが芸術であれ、友情であれ、富であったとしても、それらが地上のものである限り、滅び行くものであって、決して人生の拠り所とするものでないことを示しているのではないでしょうか。
「人は皆、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることはない。」(Tペトロ1・24)”(「あまぎ」より)

「天城山荘」 日本バプテスト連盟が運営している宿泊施設です。詳しくはここをクリック!
「井置利男」 井置先生は、お隣の日本バプテスト連盟西川口教会の牧師であられました。また、有名な讃美歌「ああ主のひとみ」の作詞者の一人でもあります。

2003年6月22日

「一羽の雀さえ」

“こころくじけて 思い悩む  などてさびしく 空を仰ぐ
 主イエスこそ  わがまことの友  一羽のすずめに 目を注ぎたもう
 主は我さえも  支えたもうなり
 声たからかに  我はうたわん  一羽の雀さえ  主は守りたもう”

 文字通り心くじけて思い悩んでいたときに、ふと心に浮かんだのがこの賛美であり、主イエスのお言葉であった。「お前は思いがけないことが起こったとショックを受けている。しかし、私には思いがけないことは一つもない。一羽の雀でも私は心に留めている。まして、人間の生死に無関心でいるはずがない。」
 繰り返してこの歌を口ずさむうちに次第に心は平安を取り戻した。
 私たちの前に立ちはだかる最大の壁は死ではないか。死を前にして、我らはどうすることもできない。しかし、主イエスは言われる。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
 真に恐るべきは神である。人は死を恐れるが、何のために生まれてきたかを知らないからである。代々の殉教者は微笑みすら浮かべて死んで行ったと聞いている。彼らはこの世に生まれてきた目的を知り、その目的は死をもって終らず、死をつき抜けてなお彼方の世界に続くことを信じていた。この世がすべてで、死んだら終りだと思えば、死は恐ろしい。自分を迫害する(いじめる)人も恐ろしい。しかし、神はすべてを見ておられ、最後に正しい裁きを行われる方と知れば、ひとから迫害されても誤解されても、彼らを恐れず、彼らを赦し、彼らのために祈ることができる。
 「二羽の雀は一アサリオンで売られている。」その一羽さえ天の父の許しがなければ、地に落ちることはないのだから。 

2003年6月15日

危機の時、平常の時

 この一ヶ月程、静江牧師の交通事故、K兄の召天、そしてN牧師の病気等、思いがけないことが続いて、試みられた。思いがけない出来事が起こる時を危機の時と呼べば、危機の時と平常の時とでは、わたしたちの判断も違ってくる。自分では落ち着いているつもりでも、後から考えると、あの時はおかしかったと思う。また、突然のことで慌てふためいても、不思議に守られて冷静な対応が出来ている場合もある。有名な「足跡」という詩にうたわれているように、危機の時には主イエスが私たちを背負って歩まれるのだろう。危機の時に、私たちはどんなみ言葉を思い出すだろうか。
「我山に向かいて目を上ぐ、わが助けはいずこよりきたるや、わが助けは天地をつくりたまえる主よりきたる。」(詩121・1 文語)
「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊(ガラテヤ4・6)を与えられていることも大きな感謝であり特権である。
 考えて見ると、危機の時に信仰が働くか否かで自分の信仰が試される気がする。また、普段の信仰生活が危機の時にその力を発揮するのではないか。
 さらに言えば、わたしたちの信仰生涯において、危機的な信仰の「時」がある。例えば、復活のキリストに出会うというような特別な経験がある。また、あの時に私はきよめられたという「きよめ」を体験する時がある。これらの信仰の危機的体験は、この賎しい自分が聖なる神に触れる一瞬と言うことが出来る。
 これは、ヤコブが石を枕に寝た夜に、神の声を聞き、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創世記28・17)と叫んだような経験である。こういう危機的な時と、何でもない平凡な毎日との、その両方に意味がある。それは日常生活に「危機の時」と「平常の時」と、その両者に意味があるのと同じであろう。私たちは平常、危機の時を迎える備えが必要だ。それは信仰についても言えると思う。

2003年6月8日

ありのままで

“わたしは、すべてのキリスト者に大きな声で断言したいです。大切なのは自分や他人をいじめない、いためつけないようにすること。そういうひとが日本の教会にも沢山いるし、自分もそうでしたし、今でもその「わな」によく陥ります。人間の作り上げたキリスト者というイメージという「わな」です。その「わな」に陥り、自己嫌悪に陥ると、特に家族に辛く当たりますし、そんな時は誰の心の平安にも役立つ事ができません。神は私達にそのままでいいんだとおっしゃっているのに、なんでわたしたちは負えないかせを自分達からはめてしまうのでしょうね。
 みんながありのままで喜んで、イエスさまはこんなわたしのために十字架にかかられ、よみがえられ、ここにおいでと招かれている、と証したら、そんなイエス様を周りのみんなも知りたいと思うに違いないと最近強く思っています。牧師だからこう振舞わなければとか思われませんように。わたしたちはみんな救われた罪人なのです。決して完全にはなれないし、すべての人に愛される事は絶対にできない。自分の家族が一番良く知っています。わたしたちは、すべて弱くて、不完全な、罪人なのです。でも、神はそのままいいようもない無限大の愛でわたしを愛しているのです。御子を与えてくださったほどに。(弱さや挫折をしらない牧師は人の弱みを理解できにくいと思います。)
 そしてまだイエスを自身の神として告白していない人たちは、神に愛されている罪人なのです。赦しをこれから受け入れるであろう人々なのです。わたしたちと同じ罪人、ただ、まだイエス様に出会っていない。違いはそれだけです。そのことを証するのがキリスト者なのだと信じます。心配しなくても神はすべてをご存知です。みんながみんなのあるところで、神に完全に委ねて生かさせていただきたいと思って生きられたら、きっと明日はみんなでもっと神さまに近づけるに違いありません。・・・”
(Kさんからの手紙の一節。とても慰められたので、皆様にもお分かちします。)

2003年6月1日

シナゴーグを訪ねて

 5月30日は東京聖書学校のファミリーデーで、学生と教師一同で広尾にあるユダヤ教の会堂(シナゴーグ)を訪問した。教師(ラビ)のノアさんが私たちを歓迎してくださり、ユダヤ教や礼拝についてお話してくださった。現在東京には二千人ほどのユダヤ人が住み、彼らの生活の中心にあるのが会堂であるとのこと。それは宗教的な意味だけでなく、全生活の中心と言っても過言ではないようだ。
ラビは教えることに徹して、子供たちの宗教教育をはじめ、一般成人にも多くのプログラムを用意している。根っからの国際人であるノアさんは、言葉の賜物も豊かで、ヘブライ語、英語はもちろん、フランス語でも教え、今日本に来て九ヶ月との事だが懸命に日本語も練習している。
 礼拝はトーラー(律法)を読むことが中心で、会堂の真ん中にトーラーを読む台があり、そこに正面の祭壇からおもむろに取り出した巻物を広げて音読するが、ただ読むのではなく旋律をつけて歌うという。それは律法の言葉が会衆に徹底するためである。私も二十年ほど前に一度だけ礼拝を見学したことがあるが、ラビが朗々と聖書を朗読するその声に魅せられたのを記憶している。その時は読んでいるのだと思ったが、歌っていたのかもしれない。
 巻物は牛皮製とのことだが、もし、その中の一字でもかすれて読めなくなっていたら、朗読者はその文字を知っていても読むのを止めて別の巻物を取り出すそうだ。それは、昔から読み継がれてきた律法の一字も間違ったり、おろそかにしないために、その字を修復してからまた用いるとの事。それを聞いて、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われた主イエスの言葉を思い出した。
 同時に、使徒パウロの「文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(コリントU3・6)をも思い出した。律法は大切だ。しかし、文字よりも大切なものがあるはずだ。

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