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週報短文

バックナンバー 2003年12月分


2003年12月28日

年末の所感

 最後の主日を迎えました。先週はクリスマス・ファミリー礼拝後、グループに分かれて一年の恵みを分かち合いました。それぞれどのような話し合いがなされたでしょうか。
 星野富弘さんは、うれしいことのあった日、悲しいことのあった日、そして、多くの平凡な日々のことを詩にうたっていますが、この一年もそうだったと思います。この一週間は、クリスマス礼拝から始まって、親子礼拝のクリスマス、合同キャロリング、ヤングのクリスマス、クリスマス・コンサートとキャンドル礼拝と続きましたが、25日の早朝に病院から電話があり、K兄の召天の報せに驚きました。いつも不思議に思うのですが、この度も、教会のクリスマス諸集会が終るのを待っていたかのように、同兄はさっと天に召されました。その日の午後に教会にご遺体が運ばれ、クリスマスのお花やデコレーションに飾られて、葬儀が行なわれました。クリスマス当日に天国に行くなど、人間の計画で出来るものではありません。やっぱりK兄も主に愛されているなあと、しみじみ思いました。
 今年はH姉のご召天からK兄まで、召される兄姉の多い年でした。天国は賑やかに、地上は寂しくなりました。当分、葬儀はしたくないという心境です。
 K兄が召された日に、札幌の兄から珍しく長い手紙が届きました。兄はK兄より一つ年長です。こんな手紙をもらったのは、当地に来て初めてではないでしょうか。普段は遠く離れていても、兄ですから一読して心に通うものがあります。義兄や姉たちからも、時々手紙やメールが届きますが、肉親の関係という以上に、主にある兄弟姉妹であることを嬉しく思います。多くを語らなくても、お互いによく分かります。互いに祈り合うことができるのは、何よりの喜びです。
 新しい年を迎えようとしていますが、来る新年は平凡な日々の連続でしょうか、それとも、思わざる日が待ちうけているでしょうか。


2003年12月21日

クリスマスのお話

 今年もいよいよクリスマスを迎えました。私も物心ついて六〇回ものクリスマスを経験してきました。今年はクリスマスファミリー礼拝を捧げることになりましたが、これは私の子供の頃の十二月二十五日夜のクリスマスの集いと似ています。その頃は日曜学校の子供たちも大勢だったので、クリスマスは会堂満杯の子供と大人が集まり、椅子は後ろの方に片づけて、子どもたちは床板に坐って熱心にお話しを聞いたものです。会堂には高い天井まで届くツリーが立てられました。それは三階の天井裏の梁へ太い針金で吊ってあったのです。今日ならば、デパートなどでも大きなツリーが立てられて珍しくもありませんが、あの頃は他では見ることの出来ないものでした。
 母教会の伊藤馨先生は児童伝道に使命を持っておられ、お話も天下一品で、自作の一八番のお話がいくつかありました。私の子供の頃はお話を弟子に譲って、ご自分は挨拶くらいしかなさいませんでした。そのお弟子は先生の話し方そっくりに熱演され、今でも忘れられない幾つかの話があります。いつかホザナ園のクリスマスに招かれて、その一つを話したことがありますが、やはり孫弟子の私では力不足でした。というより、今はテレビとかいろいろ面白いことがたくさんありますし、時代も変わっていますから、半世紀以上も昔の話をそのまましたのでは無理があるでしょう。
 しかし、聖書のクリスマス物語は不思議ですね。羊飼いや遠い東の国の博士たちの話、子どもの頃から何度も何度も聞きましたが、大人になった今も、クリスマスを迎える毎に新しく心に響いてきます。なぜだろうかと考えて見ると、それは面白い話だからではなく、語る者も信じて語り、聞く者も信仰の耳で聴くから、古びないで新しく響くのではないでしょうか。
 イラクやアフガニスタンや北朝鮮の少数のクリスチャンたちも、今年もクリスマス物語を聴いているでしょう。はたしてどんなクリスマスを迎えているのでしょうか。

2003年12月14日

クリスマスプレゼント

 「幸いな人」12月号に友人の堀江明夫師が「クリスマスの思い出」を書かれました。一読して、ほのぼのとした思いになりました。
 私が子供の頃は、札幌も雪が沢山積りました。我が家は128段の石段の上の畑の中にあったのですが、クリスマスの頃に藁沓(わらぐつ)とぼろをまとったホームレスが雪の中を訪ねて来ました。黙って拝むように手を差し出すのです。母が家にあった餅と何かを紙に包んであげたら、拝むように受けとって、何度も礼をして帰っていきました。あの石段をよくも登ってきたものです。後で、誰かから聞きました。「この上に島さんの家があるから、行ってごらん」と。母でなくても、彼を空手で帰す事はできなかったでしょう。食糧難の只中の頃でした。
 我が家を信仰に導いてくださったのは、長塚徳四郎というホーリネス教会の先生でした。先生は戦争中のホーリネス教会への弾圧で牧師職を失い、教会も解散させられました。戦後も復職せず、教会を再興できませんでした。御家族も多く、何か仕事をして糊口を凌いでおられましたが、クリスマスが近づくと我が家を訪れ、私たちにプレゼントを下さったのです。私には「フランダースの犬」とか「小公子」等の装丁の美しい本でした。失礼ながら先生の財布からそんな本を買うのは決して楽ではなかったはずです。そんなことは子供の私たちに分かるはずもなく、ただプレゼントがうれしかったのです。ですから、先生の葬儀で司式者から一言と促されて、その思い出を語らざるを得ませんでした。今はプレゼントにこめられた先生の愛を強く感じます。
 堀江師はこう書いておられます。
“クリスマスは、神様が愛する御子を私たちの救いのために与えて下さった出来事です。その救いを感謝し、礼拝を捧げるのです。私たちも、私たちの心を誰かに贈ってもよいのではないでしょうか。お金を使って何かを贈るのではなく、心を使ってプレゼントをしたい、こんな気持に導かれます。”

2003年12月7日

市民クリスマス

 リリア音楽ホールにおける県南4市の市民クリスマスも第5回目を迎え、恵みのうちに終りました。今回は客席で初めから終りまでゆっくり聴くことが出来ました。山下智弘牧師の軽快な若々しいメッセージ、音楽ゲストの加賀・秋山御夫妻の息の合った賛美、特に連合聖歌隊と共に歌った「天使の糧」、そして恒例のハレルヤの合唱や子供聖歌隊の可愛い賛美等、どれをとっても市民クリスマスにふさわしいものでした。寒い夜になって出席者が心配されましたが、子供たちを含めて450名程で、ホールが大体埋まっている感じでした。市民クリスマスも牧師会ではいろいろ議論がありましたが、ようやくスタイルができてきたように思います。三浦清重先生とコンビで事務局を担当してきた者として、安心して若い人たちにバトンタッチができると喜んでいます。
 今年は、昨年の2倍のチラシ4万枚を配布しました。県南4市、ざっと30万世帯とすると、まだまだ足りませんが、何とか30余りの教会が心を一つにしてクリスマスの伝道に取り組んで欲しいと思っています。
 アンケートの回答は50枚余りで少なかったのですが、その中にチラシ(新聞折りこみ、その他)を見て来たと言う方が8人いました。実際には、その数倍はいたと思います。他に友人の誘いで来たという方が6名でした。市民クリスマスなのですから、なんとか一般市民の方々にお出で頂きたいというのが、初めからの私たちの願いです。このためには、信徒の皆さんの協力がどうしても必要でしょう。予算が許せば、一般にも名前の通っているゲストを招くことも一案と思います。川越の市民クリスマスは、20数回も回を重ねてすっかり市民に定着していると聞いていますが、三浦光世氏を講師に招いた時は二千名のホールが満杯だったそうです。三浦綾子さんの「銃口」の演劇が評判になっているようですが、今日ほど「平和」への関心が高まっている時は少ないのですから、そのような演劇も一案かと思います。

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