週報短文
バックナンバー 2004年8月分
2004年8月29日
先週、火曜日からの金曜日まで、加藤常昭先生を講師としての、説教トレーニングセミナーに参加し、実り豊かな研修を終えることができました。しかし実を言うと、わたしは、途方に暮れて戻ってきました。
説教トレーニングセミナーに参加して
「むずかしい」「心に響かない」「聖書の解説になっている」「具体的でない」「ハッとさせられる言葉があったが、それに立ち止まっていたら、先に進んで行ってわからなくなってしまった」。これらは、発表したわたしの説教の第一印象です。
研修では、説教を作成する過程を丁寧にたどって、実際にどうするのかを学びました。@御言葉そのものを黙想する。Aさまざまな翻訳を読む。B釈義のため注解書を読む。他の説教を読む。C説教黙想を読む。その上で、Dもう一度黙想をする。E説教を作る。
それぞれの講義になるほどと思い、いただいた資料へのコメントも記録して、自分なりに黙想して、御言葉からの感動も与えられ、自分なりに説教の言葉を作りました。久しぶりに手書きで作ったので、何度も書き直しノートが真っ黒に見えるほどでした。
それぞれが作成した説教を持ち寄り、小グループで発表します。初めに互いに第一印象を言います。牧師たちは説教に苦労していますから、よい説教になるために、ハッキリ言ってくれます。次に、そのような印象を与えたのはどこに原因があるのか、説教に沿って分析していきます。御言葉の黙想の足りなさ、会衆が視野に入っていない説教、今まで語ってきた固定されたパターンなど、指摘されました。批評をきいて落ち込みましたが、結局、「自分なりに」という自己流の説教の貧しさ、つまらなさに気づかされ、この分析が自分に必要だ、と感じました。
全体の討議で「どうしたらよい説教ができますか」との参加者の問いに、「トレーニングを続けることだ」との答えは、まったくそのとおりです。
2004年8月22日
敬愛するI兄の召天に際して、「ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。」(サムエル下1・27)との思いが拭えません。癌の告知から二年四ヶ月、I兄は、初めから病状を客観的に把握しておられましたが、ここ最近は回復の兆しが見えず、体ばかりでなく、心もどんなにつらかったことかと察して余りあります。今は、すべての重荷から解放されて主の平安の中にあることを信じ、ご遺族に主の慰めを祈ります。
選びの信仰と摂理の信仰
I兄の愛唱聖句は、ヨハネによる福音書15・16、キリストの言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。I兄の信仰は、「選びの信仰」すなわち、主に選ばれた自分という確信であって、主への応答としての生活を過ごされたと感じています。日常の人との関わりの中で、自分の利益を求めず、いらだたずに、いろいろなお役を引き受け、務めを果たす過程で、忍耐や品性が訓練され整えられていったのでしょう。「『柔和』を人間にしたなら、Iさんだ」と申しましたが、どの世代の人からも親しまれ、安心して話ができ、喜んで仕えて下さる人でした。
使徒パウロは語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8・28)。これを「摂理(せつり)の信仰」といいます。すべての出来事―悲しみも苦しみも、涙も喜びも、恥も痛みも、小さなことも大きなことも、一つ残らず―が、神を愛する者には主にあって益となるように共に働く、という希望です。どこに主の御心があるのか、性急に決めつけることなく、祈りの中で、I兄の死を実りあるものと導かれるように、主を待ち望みたいと願います。
2004年8月15日
8月は特に平和を覚え祈らされる月です。日本基督教団の行事暦では、8月第一主日を「平和聖日」と定めています。
ピース・メーカー
平和とは何でしょうか。聖書でいう「平和」とはヘブル語の「シャローム」という言葉からきています。それは、創世記1章31節にある、「極めて良かった」と、神がご覧になった状態を指します。すなわち、神と人との関わり、人と人との関わり、人と自然との関わりのすべてが、正しく調和しており、互いに生き生かされているダイナミックな世界、神の愛の配慮に満ちて、すべての被造物が安らいでいる状態を指しています。人が罪を犯したため、この関係が破壊されました。しかし、神はこの関係を回復するために、主イエスを遣わされました。イエスこそ、まことのピース・メーカー(平和を実現する者)です。「キリストは双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2・15〜16)
キリストが交わりを回復してくださる、そのとき平和は賜物だということを覚えます。それは神の方法で与えられます。私が二十代のころまで、経済的なことや病気によって、家では息が詰まるような思いすることがたびたびありました。息が詰まると「行き詰まり」と聞いたことがあります。状況に振り回され無力でした。その只中での母の死でした。ところが、母を失ったことで得たものは、家族の回復、私の献身でした。悲しみが互いを慰め合うように導きました。神の息・聖霊の導きに委ねたとき、私自身も息ができるようになってきたようです。
先週の夕拝では、「あしあと(Footprints)」の詩が朗読され、特別賛美がささげられました。「人生の最も苦しいとき、主がわたしを背負ってくださっていた」と告白できる信仰者は幸いです。キリストの赦しと和解を頂いた者を、主は「ピース・メーカー」として用いてくださいます。
2004年8月8日
皆様のお祈りに支えられ、ホーリネスの群ユースバイブルキャンプは、13教会・44人の参加者が与えられ、当教会からは高校生のOさん、キャンプスタッフのUさん、そして金田が引率しました。会場の「祈りの家鬼怒川オリーブの里」は緑豊かで静かなところです。キャンプのテーマは表題の通りで、ルツ記から、ルツの信仰と神の祝福のご計画を学びました。主講師は、志木教会の池田玲二牧師でした。
「あなたの神はわたしの神」
ルツ記は旧約聖書の士師記とサムエル記の間に位置する短い物語で、数分もあれば読むことができます。異国の地で夫と二人の息子に先立たれたナオミが登場します。ナオミ一家は、飢饉を逃れるためにベツレヘムから隣国のモアブに移住しましたが、彼女は一人残されました。ナオミは故郷に帰る決断をし、息子の嫁たちに里に帰るように命じ祝福を祈ります。嫁たちはモアブの人だからです。その一人がルツです。ルツは驚くべき信仰の告白をします。「・・・わたしはあなたの行かれる所に行き、お泊りになるところに泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。・・・」(ルツ記1・16)。ルツは、しゅうとめナオミの信じる神こそまことの神だと確信していました。ルツの信仰は、両親と生まれ故郷を捨てて、ナオミに同行し、見知らぬ国に行くことを決断させたのです。夫と息子に先立たれた不幸なナオミと外国人の嫁のルツ。故郷で落穂を拾いようやく食いつないでいくちっぽけな二人。人の目にはそんな存在でも、神は二人を導き、思いがけない祝福に与らせてくださいました。
「イエス・キリストの父なる神こそ、わたしの神」と信仰によって宣言し、神が惜しみなく注がれる大いなる祝福に与りましょう。始めは小さく思えるかもしれません。ルツの信仰告白を聞いたのもナオミだけでした。しかし、すべてはそこから始まったのです。主はわたしたち一人一人の信仰に目を注いでおられます。
2004年8月1日
祈祷会では、旧約聖書の学びをしばしお休みして、新約聖書の「テサロニケの信徒への手紙一」から始まって「フィレモンへの手紙」まで、パウロ書簡を学ぶ予定です。これらの書簡を開こうと思ったのは、教会への約束や勧めの言葉を学び、交わりを見つめなおし、適用するためです。
神の言葉として
さて、先週の水曜日で、「テサロニケの信徒への手紙一」を3章まで終えました。が、私自身、「今までいったい何を読んでいたのか」と驚きながら、御言葉に取り組んでいます。感謝と愛にあふれ、まるで熱烈なラブレターのよう、と言っても過言ではないでしょう。同胞からの迫害という苦難の中にも、揺るがない愛の交わりが生き生きと書かれているのです。
ところで、以下のテサロニケ一の二章一三節は、説教を学ぶ際によく引用されます。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(二章一三節)
説教のために祈ってくださいと、月報に書きました。人の言葉として受け止められる可能性がある説教が、神の言葉として受け入れられるというのは、聖霊の働きなくしては不可能なことです。欠けだらけの貧しい教職の説教を聴く会衆のためにも祈らなくてはなりません。説教者にも会衆にも主の忍耐と謙遜が必要です。
神の言葉は三つのあり方で人に伝えられていきます。第一に、受肉した神の言葉、イエス・キリストです。第二に、書かれた神の言葉、聖書です(ですから、礼拝の聖書朗読は説教のためにあるのではなく、説教が朗読された御言葉を解き明かすのです)。第三に人の言葉で語られる神の言葉、説教です。このことを心に留め、説教のために(子供礼拝も含め)祈っていきましょう。