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週報短文

バックナンバー 2004年9月分



2004年9月26日

信仰は聞くことにより

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)

 祈り待ち望んでいた特別礼拝の朝がきました。今朝は、島先生を通してキリストの言葉を聞くために、わたしたちは礼拝に集められました。
 聖書によれば、人は神に造られたとあります。子どもの頃こんなメッセージを聞きました。「神さまは、人間に二つの耳と一つの口を授けられた。それは、神さまに話すよりも、神さまの言葉を聞くことのほうが、まず大切だからだよ」と。「なるほどなあ、確かに口が二つあったら、たいへんだもの」と、幼心に思いました。
 聖書の示す神は、御言葉を語ります。人に、体験や幻の中に留まるのではなく、ご自身の御言葉に聞き従うよう求められます。イエスが弟子を呼ばれたとき、十字架も復活も語らず、だた、「わたしについてきなさい」(マタイ4・19)、と言われました。弟子たちと共に過ごす中で、イエスはご自身をあらわしていきました。このように、信仰とは神の言葉を聞いて従うことです。神を知り尽くしてから信じることはできません。聞き従ったとき神を知り、わたしを生かす神の恵みが先に在り、既に自分に注がれていることに気づかされるのです。
 ジョン・ビョンウク師(ソウル・サミル教会主任牧師)がこう書いています。
「世界の二大思想は、ヘブライズムとヘレニズムです。ヘレニズムは人間の理性を強調しますが、ヘブライズムは従順を強調します。ギリシャやローマの思想はヘレニズムですから、この影響を受けている西洋人は理性を重視します。納得してから行動するのです。ヘブライズムの思想は違います。ヘブライズムは従順に従ってこそ理解ができるという思想です。神様の方法はいつも従順を伴います。従う者が知ることができると語られるのです。自分が変えられるとき、神の御業が起こるのです」。(「弱くても用いられる」より) 

2004年9月19日

「神中心の人間になる」

 「リデルは、『憎む時、きみはきみ中心の人間になる。祈る時、きみは神中心の人間になる』と教えてくれた。」(「いのちのことば」9月号、6ページ、特集記事より)
 毎月教会に、定期購読しているキリスト教雑誌や教案誌が送られてきます。中身を確認するために、届いたらすぐ開封しているのですが、箱の中には、「いのちのことば」という小冊子が同封されています。これにもいつも目を通しています。
 さて9月号では、特集のこの一節に、ハッとさせられました。皆さん、名言だと思いませんか。どのような心から、このようなすばらしい言葉が生まれてきたのでしょうか。
 特集自体は、戦後、宣教師として日本に来たメティカフ師のことを取り上げているものです。彼が宣教師になるきっかけが、リデルだったと書かれています。このリデルは、有名な映画「炎のランナー」で描かれた、陸上選手、エリック・リデルです。彼は宣教師として中国にいましたが、戦争で日本軍の民間人抑留者として、収容所に捕らえられました。そこでバイブルクラスを開き、人々に「愛せなくても、祈ることならできる」と教え、自らも毎朝早く起きては日本のために祈っていたとあります。同じ収容所にいて、日本人の中国人に対する残虐な振る舞いに、憤りと憎しみを募らせていたメティカフ少年に、リデルは祈ることを教えました。続いて引用します。
「敬愛するリデルの勧めに従って、日本のために祈り始めた。・・・祈っても、日本兵の振る舞いは変わらなかった。しかし、それを見ている心の中には変化が生じていた。目に映ることは相変わらず受け入れがたい。しかし同時に、この人たちは、命の価値というものを知らないのだ、と理解することができるようになった。・・・」
「勧めに従って」という一句も心に留まっています。祈りの訓練は人格的なものです。弟子たちが主イエスに願ったように。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)

2004年9月12日

敬老祝福式にあたり

 今年も敬老祝福の礼拝を迎え、敬愛する方々と共に主を賛美でき、神に感謝します。今日は御言葉の花束をプレゼントいたしましょう。
 旧約聖書では、信仰者にとって長寿は神の祝福のしるしと見なされています。
 白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。(レビ記19・32)
 白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。(箴言16・31)
白髪を見たら、その老人の背後にある主を畏れつつ生きるように、との勧告です。
 最近の学びで、「イエスは老人にはならず、若くして死なれた、そのことに意味がある」と聞き、ハッとさせられました。長く生きるということは、それだけ人生の苦しみ悩みの年月も、長く経験することです。特に病気・死は大きな試練です。信仰が試されます。自分の力で乗り越えることができません。ですから、神にすがる叫びの祈りが生まれてきます。
 わたしが老いて白髪になっても、
 神よ、どうか捨て去らないでください。
 御腕の業を、力強い御業を、
 来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩編71・18)

もう一つ、「白髪」から思い起こされる主の言葉を紹介します。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書46・4)

 わたしたちは、主の手にすべてを委ね、地上の生涯を終えるまで、さらに天においても、賜物としての命を生きることがゆるされています。
 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペテロ一 4・10)
 神があなたを祝福してくださいますように。

2004年9月5日

主の慰めと励まし

 先週は、月曜日から水曜日まで、「第51回こころの友伝道全国大会」に、青木さん、本杉さん、柏神学生、父と私の5人が参加しました。主題は「共に働きたもう主」、講師は佐藤彰師(福島第一バプテスト教会牧師)、会場は名古屋駅前のホテルでした。「こころの友伝道」とは、信徒が求道者の友となって信仰に導くよう教会の中で奉仕者の会を組織して仕えていく働きです(西川口教会では「アンデレ会」がこれにあたります)。この働きをしている全国各地の諸教会が協力して毎年夏に研修の時として全国大会を開催しています。私は名古屋に降りたのも、名古屋での大会も初めてでした。今回の大会では、講演や証し、交わりを通して、主の慰めと励ましをいただきました。
 佐藤師の第一回目の講演ではルツ記より、「信じること、仕えること」。すべては信仰によって始まり、信仰によって導かれ、置かれたところで神を仰いで生きる、そこに祝福があることを学びました。第二回目の講演では、「弱くても大丈夫」として、列王記上19章から、燃え尽きてつぶやくエリヤと、彼を慰め再び立ち上がらせる主を知りました。温かく力強い佐藤先生の説教でした。先生の説教を通して、御言葉に触れられ、心に元気が出てきました。
 もう一つ、奉仕者(信徒)の証、特にご高齢の方の証が素晴らしかったです。祈り、御言葉、伝道を優先する生活とその祝福、「主はわたしのうちに生きて働いてくださっている」という実感と喜びが、にじみ出てくるのです。静かに輝く姿と証に、大いに励まされました。
 二日目の自由時間に、島静江師とご一緒して川崎理子師のいる名古屋西教会を訪問しました。名古屋の街と会堂を見ることができ幸いでした。またプログラムの合間や食事の交わりでも、懐かしい顔、新しい出会いに心が和みました。
 こころの友伝道全国大会は、再来年はソウルで開催されます。


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