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週報短文

バックナンバー 2004年10月分



2004年10月31日

「すべてを神の栄光のために」

 今日は宗教改革記念日です。1517年10月31日正午、マルチン・ルター(1483‐1546)は、ヴィッテンベルク城教会の扉に95か条の提題を打ちつけました。これがきっかけとなり、教会改革の新しい時代が開かれていきます。
 宗教改革はルターだけのものではなく、ジャン・カルヴァン(1509‐64)も記憶にとどめておくべき人です。カルヴァンの改革運動によって長老制度の教会が始まりました。日本基督教団の教会規則は、長老制度に近い形をとっていますから、私たちは彼の恩恵を受けているわけです。カルヴァンは北フランスで生まれ、パリその他で法律を学びました。彼がいつ改革主義に転向したかは明らかではないようですが、迫害のために故国を離れバーゼルに赴き、ここで彼は27歳にして「キリスト教綱要」を発行します。この書物によって彼が優れた福音主義神学者あることが明らかにされました。後にカルヴァンはジュネーブに住むことになり、ここで彼は教会改革運動に死ぬまでささげ尽くしました。「すべてを神の栄光のために」、これがカルヴァンの命をかけた主張でした。個人崇拝を徹底して退けた彼は、記念碑を建てることを許さず、彼の墓はまもなく忘れ去られました。しかし、彼の仕事は後継者達に委ねられ、ジュネーブで彼の死後二百年もの間続きました。
 ルターによってもたらされた改革の精神は、@信仰によってのみ義とされる、A万人祭司、B聖書の権威のみ絶対、という三点に結実されました。それがカルヴァンに受け継がれ、豊かな発展と展開を見るに至りました。
 この宗教改革のこころを、今の時代、わたしたちはどのように受け継いでいくのでしょうか。1962年に始まった第二ヴァチカン公会議を受けてのローマ・カトリック教会の教会刷新は、目を見張るものがあります。それは聖書に戻り聖書を読み直したからだと言われます。わたしたちも、信仰の原点、教会の本質を聖書から学び直したいと願います。

2004年10月24日

「祈っているよ。」2

 先週のファミリー礼拝で、「わたしのために祈ってくれる、その祈りは、本当にうれしいプレゼント」と、永本先生が心からの言葉として語ってくださいました。アーメンです。それを支えるのは、聖霊の執り成し(ローマ8・26)、そして、キリストの執り成し(ローマ8・34)です。教会は執り成しの祈りの集団でもあります。
 さて、前々回の短文に、献身への導きと決断について書きましたが、事は、自分の目にするところだけで成ったのではなく、背後に執り成しの祈りがありました。
 1993年、岩波久一師を迎え教会アシュラム(聖書に聴き祈りを学ぶ集い)が開かれました。その頃わたしは第三世界に目が向き海外での奉仕の可能性を探っていました。アシュラムでは小グループで分かち合う時がありますが、わたしは思い切って海外への奉仕という願いを話しました。その時、答えてくださったIさん(故人)の言葉を覚えています。「金田さんは献身すると思っていました。すべての障害が取り除かれるように祈りましょう」と。
 1994年、西川口教会はK伝道師を迎えました。東京聖書学校で姉と同級であり、また、派遣神学生として奉仕くださいましたから、初めから親しく過ごし、そして、自分の願いを伝え、執り成しをお願いしました。しかし、実は、K先生はわたしが直接献身(牧師になること)するようにも、祈っておられました。
 1996年春、母が突然召天し、それを契機とし、導きに従い歩んできました。いつでしたか、K先生が「佐久子さんが牧師になるように祈っていたよ」と打ち明けてくださった時は、驚き、感謝とともに、神への畏れを感じました。そしてまた、Iさんの祈りもこのような形で実現したのかなと、思わされています。
 なお明かされない祈りもあることでしょう。すべて神はご存知で、御前に捧げられた祈りを受けとめてくださっています。

2004年10月17日

「祈っているよ。」

 「祈っているよ。」友だちからこんなふうに言われたことはありませんか。自分を覚えて祈っていてくれる人がいる。自分のことを気にかけてくれる人がいる。「祈っているよ。」一人で苦しんでいる時、それはなんと心強い言葉でしょう。今年のキリスト教教育週間のテーマは「祈っているよ。」です。誰かを気にかけ、その人を覚えて祈る。祈るあなたも、誰かから気にかけられ、覚えられ、祈られる。そんな祈りの輪がひろがったら、この世界は今よりももっと平和で、喜びに満ちた場所になるでしょう。祈りで結ばれた人々のあいだに、憎しみや敵意が入り込む余地はないのですから。 ほら、耳を済ませてみて! 「祈っているよ。」 イエスさまの声も聞こえてくるでしょう? 「祈り」は愛です。「愛」は教育の土台です。キリスト教教育週間に、みんなの祈りを合わせましょう。
 今年度の教育週間献金は、タイ・山岳民族文化と開発センターを通して山岳民族の子どもたちの寮建設等に用いられます。国の教育政策の変更により、山奥の小さな村々の小学校が廃止され、山奥に住む子どもたちの通える学校がなくなっています。歩いて何時間も、子どもによっては一日以上かかるからです。少数民族の子どもたちにとって、教育はとても大切です。町に働きに行くようになっても悪い人にだまされないよう、読み書き算数も習わねばなりません。より充実した人生を歩むための知識も知恵も、また少数民族としての誇りを持つための教育も必要です。山奥に住む子どもたちも学校で学ぶことができるよう、チャムラン村(タイ北部チェンマイ県)に子どもたちの寮を建てたいのです。寮が完成したら、学期中、子どもたちは寮で暮らしながら学校に通います。

(以上、キリスト教教育週間のしおりより抜粋。)

 キリスト教教育週間は今から54年前、プロテスタント各派と教育関係団体とが集まり、キリスト教教育の大切さを覚える特別な時を持とうと話し合って設定されました。本日のファミリー礼拝献金の一部を、このためにささげます。

2004年10月10日

神学校日・伝道献身者奨励日

 日本基督教団の行事暦では、10月の第2主日を神学校日・伝道献身者奨励日と定めています。教団関係の神学校は6校あります。東京神学大学、関西学院大学神学部、東京聖書学校、同志社大学神学部、日本聖書神学校、農村伝道神学校です。他に、神学校に行かずに教師になる道もあります(通称「Cコース」)。
 1997年2月の教会アシュラムで、今は天に召された酒井春雄牧師(新潟・栃尾教会)をお迎えしました。その時「恩寵あふるる―これらの石ころからでも―」という先生の信仰自叙伝を買い求めました。この本に先生が献身へと導かれた出来事が書かれているのですが、それが、私の献身のきっかけとなりました。このような内容です。
 「銀座教会の信徒の酒井青年は、三井牧師の急逝の後、献身の思いが与えられ、後任牧師や恩師に相談したが、いい返事はこなかった。名誉牧師の渡辺善太師に相談して、それでだめならあきらめようと考えた。渡辺先生はこう語った。「君は聖書の中にこんなみ言葉があるが知っているか。『神はこれらの石ころからでもアブラハムの子を起すことができる』(ルカ3章)。その思いが、神が起してくれたものなら必ず実現するが、人間の思いであれば、どんなに条件が揃ってもだめになる。伝道者になりたいという思いが、神からか、自分からか、わかる道は一つだけある。状況がどうであろうがそのための準備をし、何年かかっても学び続けること。目的を達成したら、神の起してくれたことだから思い切り働きなさい。もし中途で挫折し、み旨ではないと知っても失望するな。神は、信じる者の努力を無駄にはなさらない。半年間も考え続けたなら、思い切って取り組んでごらん。大切なのは神から出された宿題に、まともにぶつかってみるかどうかということだ。・・・」
 不思議なことにこの証に心を動かされ、押し出されるようにして、1997年からCコース受験を始めました。私は「神に起された石ころ」です。

2004年10月3日

世界宣教の日

 日本基督教団の行事暦では、10月の第一主日を世界聖餐日・世界宣教の日と定めています。前任者の島隆三・静江牧師は、西川口教会に赴任する前、香港JCFの宣教師でした。お二人が着任してから、日本基督教団の世界宣教協力委員会発行の小冊子「共に仕えるために」を毎年購入し、献金を捧げるようになりました。世界各地に遣わされている宣教師の声は現場ならではのもので、異文化の中での日本語・日本人教会の状況、働きの意義・問いかけは、日本にいて日本の教会で過ごしているわたしたちの視野を広げてくれます。
 また、西川口教会の献身者の一人である横山基生師が、好江師と共にイギリスへ宣教師として遣わされていますし、報告のため帰国された宣教師をお迎えする機会も数多く与えられ、宣教師といっても、多様な働きがあることを知らされます。島先生方の影響で、教会として世界宣教に関心を持つようになったと感じます。
 教団関係では、関東教区の教会を前任地としている、大下秀三宣教師ご夫妻(カナダ・フレーザーバレー)、柳田剛行宣教師ご夫妻(台湾・台北)に毎年クリスマス献金を捧げています。お手紙は届いたら掲示していますので、ご覧下さい。
 今年の「共に仕えるために」の序文にこうありました。「世界宣教を担うということは、決して自分が出かけて行ったり、迎えたりすることだけでなく、働き人をおぼえ、祈り、支えることも大切です。それに励まされ、支えられている働き人が世界中にいるのです」。キリストの体の多様な働きを、互いに重んじ、一人ひとりができるかたちで担い合うことを願います。すべての働きの源は神ですから。
 「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリント一 12・6)。 


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