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週報短文

バックナンバー 2004年12月分



2004年12月26日

イエスを見つめながら

 「・・・わたしたちもまた、・・・自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12・1〜2)。
 今日は、一人の婦人宣教師ミス・モークの証を紹介して、わたしたちの心の向きを、新年に向けて新たにさせていただきたいと思います。
 ミス・モークは、第二次大戦中も母国アメリカに帰らず、敵国人として抑留所に入れられるという不自由な生活をあえて選びました。
 ミス・モークは、空襲が激しくなり防空壕を掘り始めた抑留所の係官にききました。「誰のための防空壕ですか」と。係官が「あなたがたのためですよ」と答えると、「少なくともわたしのためなら必要ありません。あの雨のような爆弾が日本人の上に降り、あの下で皆さんが苦しむと思うと、あの爆弾が自分の上に落ちてくるように祈っているのです。だから防空壕はわたしにはいらないのです」と言いました。係官はびっくりしました。後に係官は、「ミス・モークという人は偉い人だ」と面会を求めにきた藤田牧師に、このエピソードを伝えました。
 日本の降伏の直後に、「抑留所にいる者は、明日みな銃殺される」といううわさが起こりました。信仰の人ミス・モークでしたが、長い戦争のあとでこわい思いが起こりました。そのような状態のとき、部屋の一隅に男の人が立っていました。その人はやがて顔を上げてミス・モークを見つめました。彼女はその人が「主イエスだ」とわかりました。「彼の眼はわたしの眼の中にきました」(His eyes came into my eyes.)。そこで「わたしから眼を離さないで下さい」と言うと、主イエスは、「いいえ、あなたが、眼をわたしから離さないでいればよいのだよ」(No! Just keep your eyes on me)と言われました。その瞬間、平和が来て、主イエスは見えなくなりました。本当の平安と勝利がミス・モークの心を満たしたのです。(「仮小屋を後にして」より)

2004年12月19日

洗礼を受けるとは

 今年のクリスマス礼拝は、三人の方が洗礼を受ける恵みの礼拝となりました。
 洗礼を受けるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。約二千年前、ユダヤの地の主イエスの十字架の死と、今ここに生きるわたしと関係がある、わたしをも救ってくださる、既に救い道が開かれている、この恵みの事実に気づかされるということです。
 なぜ水を用いるのでしょうか。水はしるしです。水で外面的な汚れを洗うように、イエス・キリストがご自身の血と霊によって、魂のすべての罪の汚れを洗い、きれいにしてくださるのです。「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるとき(マタイ29・19)、水の洗いと罪のきよめは結び合わされます。主イエスの約束があるからです。
 わたしは西川口教会で横山義孝(よこやま・よしなり)牧師に洗礼を授けていただきました。跪き、水で洗われた直後の「汝の罪赦されたり!」というあの力強い声は忘れられません。先生の口を通して、神から罪の赦しが宣言されました。
 洗礼によってすべての罪が赦されてどうなるのでしょうか。聖霊により新しくされます。言い換えると、聖別されて神のものとなります。使徒パウロはこう語っています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ3・27)。神のもの、すなわち、キリストのもの、さらに言い換えると、キリストの体の一部とされる、教会の一員となるのです。洗礼希望者には、洗礼志願書に署名していただきますが、そこには、「このたび洗礼を受け、御教会に加入させていただきたくお願いいたします」と印刷されてあります。洗礼を受けるということは、教会の交わりに加えられることです。
 洗礼を受けたわたしたちは皆、キリストを着ています。キリストに似たものとされていく、神の恵みに包まれているということです。罪から解き放たれ、神に祝福された生涯が約束されているのです。(参考「ハイデルベルク信仰問答講話」)


2004年12月12日

主の御手の中で夢見ていること(2)

 先週の主日には、わたしも永本先生もマスクをしていて御心配をおかけしました。役員会も一致協力で議事進行が早かったのでしたが、うっかり来年の主題聖句を伝え損ねました。やはり頭がはっきりしていなかったようです。
 来る2005年の御言葉は、コリントの信徒への手紙一第14章1節「愛を追い求めなさい。」に決めました。これなら誰でも覚えることができます。聖書が示す愛とは何か、愛を追い求めるとはどういうことか、祈りながら、神に、また心に問いかけていきたいと願っています。
 来年に向けての夢の続きを書きます。
 西川口教会が目指してきたのは、「御言葉に生きる教会、御言葉に生きる人」と言えると思います。使徒パウロが「なすべきことはただ一つ」(フィリピ3・13)と言い得た確信、シンプルさ、また集中力をいただきたいです。まずわたし自身のため、そして皆さんのために。ですから、祈りと学びの機会を設定し、参加する方々と共に恵みにあずかりたい。祈れないから祈りを学びたい。主を愛したいので主を知りたい。主の愛に押しだされて伝道し、仕えたい。共に過ごす交わりで、泣いたり笑ったり楽しんだりして、互いがキリストの体の部分であることを感じたいのです。
 既に紹介した集いは、そのための得がたい機会です。1月17〜20日に箱根で開かれる小牧者コンベンション、3月12日(土)〜13日(日)の教会アシュラム、また5月17〜20日の、アメリカ・サドルバック教会での「目的主導型『教会』カンファレンス」への参加をお待ちしています。用いられている主の器に出会いましょう。
 他に、ゴールデンウィークに聖書全巻リレー通読を再びできたらと願っています。また、信仰生活や冠婚葬祭についての小冊子「西川口教会員ノート」なるものを作りたいと考えています。主の御心であれば、あのことやこのことをさせていただきましょう(ヤコブ4・15)。


2004年12月5日

ジャン・バニエ

 アドベント期間は、交読詩編に換えてリタニー(交祷)を用いることにしました。今朝の祈りは、ジャン・バニエの言葉を祈りにしたものです。(もとの言葉を知りたい人は金田まで)。
 ジャン・バニエ(1928〜)は、1950年ドミニコ会のトマ神父の創立した「学生共同体」に入った後、パリ・カトリック大学で哲学、神学を学びました。1964年、トマ神父に誘われ、一緒にフランスに行くことにしました。彼は、そこで、現代、一番、見捨てられた人は、知的障害と身体障害の二重の重荷を負っている人々だと感じ、その人々と共同体を作って生活を始めました。これが、フランスのトロリーで始まった最初の「ラルシュ共同体」です。「ラルシュ」とは、「箱舟」という意味です。そこで、健常者も障害者も同等の権利を持って生活しています。彼の生き方と考え方に共鳴した人々により、現在、世界中のあちこちに「ラルシュ共同体」が設立されています(ちなみに日本にもあります)。ジャン・バニエは、「現代社会の預言者」、「現代の癒し人」「現代の良心」など、いろいろな呼び名で呼ばれています。彼の言葉から、同じ神から創られ、同じ人間、同じ兄弟という彼の暖かい思いが伝わってくるのです。それで、多くの人が彼を、「現代の癒し人」というのでしょう。(以上 女子パウロ会より)
 彼の著書「うつを越えて」(女子パウロ会刊行)を読み、簡潔でいて、知恵と愛に満ちた言葉に感銘を受けました。少し紹介します。
 「人の心は 繊細で 傷つきやすいものです」、
「だれかを愛するとは その人のもつ美しさ すばらしさ そして大切さを その人自身に 教えてあげることです」、「生命を豊かにするために 痛みの時期、悲しみや失望のときがある」、「夢や幻想の世界に浸っていたり 怒りや絶望のうちに暮らすのはやめましょう。 自分以外のものになろうとはせず、自分は自分のままでいいのです。かけがえのない大切なものとして 神が愛してくださっているのですから。」



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