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週報短文

バックナンバー 2005年2月分


2005年2月27日

教会総会と全体懇談会を終えて

 先週は役員選出のための教会総会が開催され、5人の方が、主の導きによって召し出されました。開会にあたり開きました使徒言行録第6章1節から7節の御言葉を、もう一度聴きたいと思います。
 当時、教会は皆がすべての持ち物を共有し、必要に応じて分け合っていました。その分配について苦情が出ました。十二使徒は、すべての弟子たちの前で、弟子たちの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選ぶように命じました。信じる者の群れから、複数の信徒リーダーを立て、彼らに仕事を任せました。使徒たちが、祈りと御言葉に専念する奉仕をないがしろにすることなく、また日常の課題にも対処する柔軟な体制ができあがったわけです。彼らは使徒たちから按手を受け、任命されました。その結果、「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(7節)のでした。
 使徒たちは、問題に対して信徒リーダーを召し出して当たらせました。言い換えれば、どんな問題があっても、祈りと御言葉に専念する牧会者と、霊と知恵に満ちた評判の良いリーダーが立てられれば、教会は安心して進めるということです。なぜなら、その信徒リーダーは執り成されており、主の霊により、知恵をもって自ら問題に向き合うからです。そういう観点からすれば、役員選出の第1回教会総会のほうが、第2回教会総会よりも重要だといえます。そのようなリーダーが立てられれば、この年度は大丈夫だということです。わたしたちの教会はどうでしょうか。牧師・役員・教会員の霊性が問われます。ひたすら聖霊を求め、この方の力と知恵に依り頼みます。
 苦情が出たことで、かえって教会の体制が整えられ、宣教が進んだのです。今わたしたちが益と思えなくても、主は今すべてが益となるように働かれています。総会後の全体懇談会で様々な意見が出されました。皆がそれぞれの意見を大切に聞きました。「懇談会があったからこそ、宣教が進んだ」と、主の栄光を拝する日を待ち望みます。

2005年2月20日

「教会は皆で一人前」

 教会のお許しをいただき、ここ数年、関東教区KKS春キャンプ(中高生・青年対象)のスタッフをしています。今回講師として松浦 信司祭(日本聖公会 聖バルナバ教会・聖慰主教会)をお迎えします。
 今回は、関東教区内にある、ハンセン病患者及び元患者の方々の療養施設である、国立療養所「栗生楽泉園」(草津温泉)のことを知るために、松浦先生を迎えました。来年には当地を若い人たちと訪問し、療養所の方々との出会いの体験を計画しています。そして、人生の意味や、神と隣人と共に生きるとはどういうことかなど、考え始めたい。どうぞ、参加者が各地区から与えられ、若い方々が、主にあって生きる意味を見出すことができるように、お祈りください。
 前置きが長くなりました。表題の言葉は、講師の松浦先生が対話の中で、わたしに言った言葉です。先生ご自身は何気ない返答だったかもしれませんが、わたしはハッとさせられたのです。
 先日キャンプの準備会があり、講師を囲んで学びの時を持ち、その後に、日本聖公会の教会制度、カトリック教会との関わり等についてお尋ねしました。今度はこちらが自己紹介で、「西川口だより」を渡しながら、「二人牧師がいますけど、わたしは未熟で、もう一人は体が弱くされていて、二人でどうにか一人前なんですよ」と言いました。松浦先生は、「そうじゃないですよ。教会は皆で一人前ですよ」とおっしゃいました。予測していなかった返答にビックリし、もう一度聞き返し、「ああ、そうだ、そうなんだ。本当にそうだ」と思いました。肩の力が抜けて、何だかうれしくなってきました。神は「教会は皆で一人前」として、わたしたちを呼んでくださったのです。
 使徒パウロは言います。「一つの霊によって、わたしたちは、・・・皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(コリント一12・13)。さらにパウロは語ります。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(同22節)

2005年2月13日

教会総会(役員選挙)に向けて

 水曜夜の祈祷会で、牧会書簡(テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙)を学んでいます。
「テモテへの手紙 一」は使徒パウロが、弟子のテモテに宛てて書かれた手紙です。テモテはエフェソの教会を任されていました。教会は、福音理解において大きな過ちを犯した人々によって混乱させられていました。若い伝道者テモテは、困難な教会の状況に立ち向かわなければなりませんでした。教会が教会となるために、説教者が重んじられ、ふさわしい監督者や奉仕者を立てる務めがテモテに課せられていました。
 じっくりと牧会書簡に取り組み、自分のために学んでいると感じています。エフェソの教会のような混乱の状況は、今の西川口教会にはありませんが、教会が教会となるための営みは求められています。テモテの務めを自分の務めとして、御言葉に聴くように導かれています。
 テモテの手紙 一 第3章8節から13節は、年度始めの役員任職式に朗読される箇所です。どのような資質が、教会役員に求められているのでしょうか。
 非難される点がないこと。一人の配偶者に忠実に、誠実な結婚生活を送っていること。責任を持って親として子供たちを治め、家庭生活を治めていること。品位のある人(まじめな態度、思いやりのある現実的な見解、実際の必要に対応した展望、難問への対処)。避けるべき資質は、平気でうそをつくこと、大酒のみであること、不正な利得をむさぼること。そして、特に大切なことは、信仰の深い真理を固く持っている人です。
 知識や才能があるから奉仕者になるのではなく、信仰が吟味されるということです。わたしたち一人ひとりの基本的人間関係(夫婦や親子関係)や、金銭・働き・飲酒に対する姿勢に、信仰が現れているのだと聖書は告げています。
 神は教会会議にご臨在くださり、教会を建て上げようと働いてくださいます。来週の教会総会に向けて、神が役員としてふさわしい人を立てられるよう、目を覚まして共に祈りましょう。

2005年2月6日

将来に開かれているか

 ある牧師が友人夫妻と雲取山登山をした。山小屋に無事に着いた。汗を流したい。その山小屋にはお風呂が一つしかないので、男子と女子の入浴時間が決められている。彼らが到着した時は、ちょうど女子の入浴時間帯だった。そうこうしているうちに、男性ばかりの登山客グループが到着した。彼らは口々に「風呂に入ろう」と言い出した。その牧師は彼らに言った。「ちょっと待ってください。ここに女性が一人いますよ。今は女子の入浴時間帯ですよ」。後から着いた登山客たちは言った。「これだけ大勢の男がいて、女が一人だけなんだから、入ったっていいじゃないか」。それで、牧師は言った。「何分か後に、女性客が二十人来たら、あなたがたはどうするんですか」と。
 これは、先週参加した「婦人教職の集い」で講師からきいた実話です。日本の社会にはこのような体質があるというのです。すなわち今が良ければよい。数で押し通したり、既得権に執着したり、保守的であったり。そこにとどまるかぎり、将来に向かって開かれていないのだと。教会も他人事ではない、日本基督教団の教会はどうなのかと問われました。ぎくりとしました。わたしたちの西川口教会は、将来に開かれているでしょうか。誰か(自分)を優先にし、誰か(小さい者)を後回しにしていないでしょうか。
 大学の教務教師である講師から、青年伝道・学校伝道の現場からの声を聞きました。教務教師とは、キリスト教主義学校で働く教職のことです。キリスト者職員の確保が困難な現状で、学内の宣教を推し進めるには戦いがあります。教授でなければ教授会で発言権がないとのこと。一般の授業と学生必修のキリスト教概論の担当で、講義は二倍の働きです。さらに、キリスト者学生のケア、学生の交わりの仲立ち、学生伝道、カウンセリング・・・。講師は言いました。「日本の教会は変わらなければならない。力をつけて、キリスト者学生や働き人を送リ出す教会になってください」。


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