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週報短文

バックナンバー 2005年7月分


2005年7月31日

一区切りそして新たなスタートへ

 この7月で一区切りするものが三つあります。
 第一に、昨年7月の就任式から一年を経たことです。就任式後の短文を読み返しましたら、「起こる出来事を引き受けようとディボーションで示された」という内容でした。もう一度ディボーションノートを開きました。使徒言行録16章でした。パウロとシラスの獄中からの賛美。突然の地震。逃亡した囚人はいなかった。この出来事に恐れおののいた看守と、その家族が救われました。パウロとシラスは鞭打たれ囚われましたが、それに勝る主の救いの業を目の当たりにしたのです。これほどまでの過酷な状況に自分なら耐えられませんが、置かれたところで主の導きを信じて委ねようと一年前に決意したわけです。主は常に共にいて、葛藤を何度も乗り越えさせて恵みと平和に導き、助け手を備え、救いの業を仰く光栄をくださいました。これからも主に期待します。
 第二に、ディボーションスクール第3期が、28日に終了したことです。受講生は、O兄・O兄(K教会)・K姉(客員)・S姉・S姉(U教会)・H姉・H師(A教会)・M兄で、他教会からの参加者により、交わりが豊かにされました。最終回は、修了証書を受け取る皆さんの喜びに心を合わせました。終わりは始まりです。お互いに、御言葉に輝く日々を過ごせますよう、主の助けを祈ります。
 最後に、マタイによる福音書を今日で終えることです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16・18)を、主題聖句として二年間掲げました。まず、教会を建てるお方は主イエスご自身であること、教会は「わたしの教会」と言われた通り、主イエスご自身の教会であること、わたしたちは鈍く危ういけれども、聖霊によって「イエスこそメシア(キリスト)、生ける神の子です」という信仰に生きるところに、主の力が働いて教会が建てられていくことを再確認したいと思います。

2005年7月24日

ファミリーキャンプ

 先週の17日〜18日、奥多摩福音の家で開かれたファミリーキャンプは守られて無事に終えることができました。参加者の感想文は月報に載りますので、お楽しみに。
 2000年8月以来の、久しぶりの開催でした。とはいえ、今回初めての参加という方も多くあり、男性11人、女性15人、子ども10人の、計36人で行ってきました。ご家族を伴って参加された方、担当者の熱心さに打たれて決断した方も多くあったと思います。参加者が与えられなければ、キャンプが成り立ちません。同時に、都合により参加できない教会の皆様方も、共に祈りを合わせてくださいました。主に感謝。
 わたし自身は、子どもたちをお預かりするため、責任者という重荷がありましたが、それでも、「キャンプはやはりよいなあ。来られてよかった」としみじみ感じたことでした。
 まずは、天候が支えられたこと。「日に焼けたね」と永本先生の証明済みです。キャンプファイヤーの直前に雨が短く降っただけで、屋外のすべての予定を滞りなく実施できました。そして、神が造られたすばらしい自然と、子どもたちに―子どもに帰った大人たちもいましたね―心が潤されました。緑の美しさ、さわやかな風、冷たい川の水。一生懸命賛美したり、夢中になって遊ぶ子どもたちの姿。いのちの喜びを味わいました。
 ふり返れば、今年2月に担当者から施設の紹介があり、3月に予約、そして新年度となりました。通常活動の中で、キャンプの準備を進めなければならず、短い準備期間で、どうなることかと思うこともありましたが、そのことを通して、祈らされ、惜しみなく恵みをくださる主の御手を感じました。与えられた御言葉を口ずさみます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。 
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・13)

2005年7月17日

礼拝の構成要素<祝祷―祝福と派遣>

 今日は祝祷の意味を再確認したいと思います。
 通常の礼拝の最後に置かれているのが祝祷です。西川口教会では、牧師が聖句か聖句に基づいた式文によってこの最後の言葉を述べ、両手を会衆の上に差し伸べる所作をします。祝祷の言葉は、コリント書二第13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」によります。御言葉と所作が示すように、祝祷は、神に向かって述べられている祈祷ではありません。神から会衆(神の民)に向けて発せられる宣言です。その内容は祝福であり、平和の告知です。
 六月の教区婦人会連合修養会の講演の中で、講師が神の祝福を説いてくださいました。「先生、祝福してくださったけど、いいことがちっともありませんよ」と言う方があった。しかしそれは祝福を取り違えている。自分にとって良いことが成るのが祝福ではない。神の祝福は揺るがない。もし、礼拝の帰り道に事故で召されたとしても、その人は祝福されなかったのではない。神の御手の中で祝福の内に死んだのだ。神の祝福の中で生き、死ぬ、この信仰が問われ、襟を正されました。
 七月の地区婦人部研修会でもよい学びを得た参加者から、報告を聞く機会がありました。祝祷のもう一つの要素です。礼拝はここで終るけれども、それは同時に神の民の新しい歩みの開始を告げている。ここからわたしたちは、世へ派遣されていくのです。世にあって世に属さないキリスト者は、「すべてのことを神の栄光のために」(コリント 一 10・31)生きる。宗教改革者ルターは「牧場で働く者は、神の栄光のために乳搾りをするのだ」と言いました。これこそ祝福の道です。
 礼拝とは、神からの第一声としての「招詞」によって招き集められた神の民が、神からの最後の言葉としての「祝祷」(祝福と派遣)によって、送り出され散らされていく、その営みです。ここに礼拝共同体としての教会が存在しているのです。

2005年7月10日

礼拝の構成要素<招詞・聖書朗読>


 先日の役員会で、賛美礼拝・一般礼拝における招詞と聖書朗読について、本日の礼拝から次のように変更することにしました。
 @「招詞」では前奏が終わったらすぐに聖句そのものを宣言する。聖書箇所は言わない。
 A「聖書朗読」では小見出しを朗読しない。
 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられる」(ヨハネ福音書4・23)。天の父なる神は礼拝者を求めておられます。そうであるならば、礼拝は人間の自発的な行為ではなく、主の期待と招きによって成立するものです。神はその民と出会い、祝福しようとして準備を整えて待っておられる。主がわたしたちを招き待っておられるとすれば、その慈しみに満ちた、呼びかける声を聞こうとするところから礼拝は始まっているのです。
 プロテスタント教会の「聖句による招詞」は、礼拝の主導権は神の第一声であり、人間は祈りや賛美で応答するという理解の表現です。
 次に、礼拝における聖書朗読ですが、こちらも、神の言葉の宣言の性格を持っています。聖書朗読は説教のためにあるのではなく、説教が神の言葉を説き明かし、神の言葉に奉仕するのです。その日、神は聖書朗読を通して神の民に語りかけておられるのです。ところで、新共同訳聖書には、内容を理解しやすくするために小見出しが付いていますが、小見出しは聖書本文ではありません。礼拝における聖書朗読の意味を覚えるとき、小見出しを読むのは適切でないと考えます。
 司会者は、明瞭に力強く耳で聞いて分かる声量と速さで朗読し、聖書箇所の内容と流れを理解して読むことが大切です。司会者が神のラッパとして御言葉を響かせることができるよう祈りましょう。礼拝の度に、招詞を神の招きの呼び声として、聖書朗読を神の民への語りかけとして、信仰の耳を開いて聴きましょう。

2005年7月3日

教会の財産


 教会の財産といっても、土地、建物、所持金のことではありません。では、何でしょう。
西川口だより六月号はキッズ・ヤング特集号でしたが、巻頭言を書くため参考にした文章の中から少し紹介したいと思います。
「・・・信仰の継承という場合、何を継承するのか。その具体的な一つのシンボルが使徒信条であり、数々の信仰告白であり、カテキズム(信仰問答)なのです。・・・君はどう思うか。君の考えは君の考えとして、信仰共同体はこれだけは言っておきますよ、というのがカテキズムなのです。
 ハイデルベルク信仰問答の問い1.「あなたが生きている時も、死ぬ時も、あなたの最後の唯一の慰めは何ですか」。皆さん答えられますか。自分の思索で考えても答えは出ない。ところがあなたがどう思おうと教会はこう答えます。「私が生きている時も、死ぬ時も私の唯一の慰めは、私がもはや私自分のものではなくて、イエス・キリストのものであるということです」。 ジュネーブ教会信仰問答。「人生の主たる目的は何ですか」。さあ、みなさん、考えてみてください。一生かかって見つけますというかもしれない。しかし、一生かかっても答えは見つからないかもしれません。教会はこう言います。「人生の目的は、神を拝するという目的で神を知ることです」。そういう財産を教会は山ほど持っているのです。そういう財産をきちんと見ないで、このことをどうしよう、あのことをどうしようと言っているのは余りにも発想と実践が貧しすぎます。なぜならば、信仰とは作り出すものではなく、継承するものだからです。・・・」
(「教会教育」(第392号)講演録・共に守る礼拝の神学 今橋朗師(蒔田教会牧師)より)
 この教会の財産を、手にとって、角度を変えて、じっくりと、しっかりと、こつこつと触れてみましょう。木曜日の昼間祈祷会で使徒信条の学びが始まりました。ぜひ参加してください。水曜夜の祈祷会でも、フィレモン書を終えたら、使徒信条の学びを始めます。お待ちしています。


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