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週報短文

バックナンバー 2005年8月分


2005年8月28日

宣教の原点と基本

 アンデレ会の兄姉と共に、熱海で開催された第52回こころの友伝道全国大会に参加しました。今年の主題は「伝道は祝福」。講師は村上宣道先生です。先生は日本ホーリネス教団坂戸教会牧師、そして多くの宣教団体の重責を担っておられます。
 第一講演の題は「宣教における原則と基本を考える」。レジメにこうありました。「私たちが、すべて物事に行き詰まった時は、原点に帰り、基本に戻って考えるのがよいとされている。日本は今、社会的にもあらゆる面で行き詰まりの中にあるが、宣教という面においては尚更その間がぬぐえないというこの時、素朴に、単純に、宣教の原点と基本を改めて聖書にたずねたいと思う。・・・」
使徒言行録に示される宣教と教会形成の原型から原則を学ぶよう、ご自身の牧会経験も交えて、説き明かしてくださいました(講演テープあり)。
 印象に残ったエピソードを二つ、アメリカ留学中、託された日系教会の牧会についてです。使徒言行録2章に、ペトロの説教を聴いて心を打たれた人々はどうしたらよいか聞き「悔い改めよ、そして洗礼を受けよ」とペトロは言ったとある。これが信仰の始まりである。ところが教会の中にはこのプロセスを経ない、つまり悔い改めがない、自分の罪が赦され救われた喜びを知らない教会員がいるようだ。そこで一人ひとりに声をかけ、救いの確信を確認し、ある人は悔い改めに導いたということです。もう一つ。やはり使徒言行録2章には、洗礼を受けた人々はその後、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、とある。信じて救われた人に、パンも水も与えないでクリスチャンと成長しますなどと、わたしは牧師として言えません。だから、毎日のディボーション、聖書通読、礼拝出席、献金は当たり前のこと。たいていのことは寛容でしたが、これについては厳しかったと、自他共に認めておられる。村上先生の、聖書の基本に忠実な牧会を主は祝福してくださり、教勢も伸びました。そして主は「お前はどうか」と問われました。


2005年8月21日

愛のあるところに神はおられる

 先週の短文で、神の言葉の力・働きについて書きました。コリントの信徒への手紙一14章24〜25節には、未信者や初心者が神の御言葉に触れられた時、神の臨在を認め、礼拝者とされる神の働きが示されています。既に救いに入れられたわたしたち、また、特に説教・メッセージの御用に立つ者はなおさら、教会の各集会において、約束されている神の働きが実現すると信じて臨みましょう。
 ところで、わたしたちの暮らしの中において、集会に身を置くのはほんの一部の時間でしかありません。それぞれが、家庭に、また職場に、また地域にと、置かれたところで大半の時間を過ごしています。もし集会の中だけに、神の臨在が限定されるのならば、集会に来られない人はどのようにして神を知るのか、救いに入れられるのか、ということになってしまいます。
 神はどこにもおられ(遍在性)、全てをその御手の中に治めていること(全知全能)を、わたしたちは信じています。しかしこの認識は信仰によって与えられるものです。
 主イエスは弟子たちに語られました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。(ヨハネによる福音書13章34〜35節)
 キリスト者が互いに愛し合う姿を見て、他の人が、「ああ、あの人たちはキリストの弟子だ」ということが分かるというのです。
 既に述べたように、御言葉による伝道の確信は揺るぎないものです。一方で、わたしたちが主イエスに愛されているその喜びをもって、この世のド真ん中で、励まし、慰め、仕え、祈り合うところ、家庭で、職場で、地域で、人間関係の中に、神はご自身を鮮やかにお示しくださるのです。

2005年8月14日

礼拝の構成要素 <頌栄>

 日本の教会においては、主日礼拝は常に伝道の機会でもあります。教会の敷居は高いといわれます。わたしたちが無意識にしていることが、教会に来て間もない人は理解できなかったり気になったりしているかもしれません。
 しかし、教会側の配慮が完璧なら、礼拝がわかり救われるかというと、そういうわけでもありません。コリントの信徒への手紙一14章24〜25節にこうあります。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」
 「皆が預言する」とは、現在の教会にとっては説教・奨励・分かち合いに相当するでしょう。神の言葉が教会(信徒の交わり)で語られ聴かれると、そこで神の臨在が明らかにされ、未信者・初心者は神を認め、礼拝する、という約束です。ですから、教会であるわたしたちが神の言葉に心を向けて霊と真理をもって礼拝することは、何よりの証し・伝道になるわけです。
 そのことを踏まえて、共に主日礼拝に連なっておられる、信者でない方、教会に来て間もない方々に精一杯配慮いたしましょう。
 前置きが長くなりました。今回は「頌栄」です。これは「プロテスタント教会において、三位一体の神をたたえ栄光を神に帰する賛美」のことです。主日礼拝ではプログラムの終わりにあります。ところで、「頌栄○○番」と司会者が言うと、初心者は「頌栄」という冊子があるのかと戸惑うかもしれません。ですから司会者は「頌栄、讃美歌○○番」と言うことを役員会で確認しました。頌栄を通して、礼拝に呼び集め、御言葉で養い、世に遣わされる主なる神を、わたしたちは力一杯ほめたたえ、栄光を神にお帰しするのです。

2005年8月7日

平和を実現する者

 創世記26章のイサクの井戸掘りを知っていますか。こんなこどもさんびかがあります。

1.イサクのおじさん 井戸をほる ここから水が でないかと 
  いっしょうけんめい 井戸をほる
2.イサクのおじさん 井戸をほる ようやく水が でてくると
  ゆずってにこにこ よそへいく  (こどもさんびか64 ・1966年版)

 イサクは、アビメレクに追い出され、ゲラルの谷に天幕を張りました。その地で父アブラハムがかつて掘り、ふさがれていた井戸を掘りなおしました。ところが、ゲラルにいた羊飼いたちが「これは自分たちのものだ」と言い出しました。イサクがもう一つの井戸を掘り当てても同じことが起こりました。イサクはそこから移ってさらにもう一つの井戸を掘り当て、そのときにはもはや争いは起こりませんでした。水の確保は生死に関わります。まして古代の荒れ野においてはなおさらのことです。それなのに、イサクは井戸を掘るたびに人に取られてしまいます。しかしそれでもイサクは「まあ持っていけ」と言うのです。ついには、人々が申し訳なく思ってイサクから取ろうとしなくなります。
 世の人は自分の力で生きようとし、欲望のままに動きますが、神の子どもたちは譲っていきます。どうしてこのような生き方ができるでしょう。天の父こそすべての源であると信じて生きる人は、平和を実現することができます。譲ることができるのです。行く先々で緊張が起こり、けんかが起こり、分裂が起こるならば、その人の内に平和がありません。一方、自分の中に悔い改めがあり、平和があるなら、平和を実現する者とならせていただけるのです。これは神の恵みの業です。
 戦後60年。先ず自分の中に神との正しい関係を造ること、それは、神との正しい関係を損なう罪を、悔い改めて取り除いていただくこと。本当の平和はそこから始まります。
(参考 「この翼ではばたく」ジョン・ビョンオク著)


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