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週報短文


バックナンバー 2005年10月分


2005年10月30日

仙台青葉荘教会応援伝道

 29日土曜日の朝、いつものように眠い目をこすりつつ早天祈祷会に来て、ディボーションをしておりました。7時少し前にU・Mさん、O・Sさんが教会にきました。永本先生も様子を見に来られ、そして、I・Mさん、I・Nさんも集まり、朝から元気に楽しくおしゃべり、その後静かに賛美の練習が始まりました。そこへ、K・Sさん、K・Jさん、O・Sさん、S・Tさんが到着し、車で移動するグループは全員集合。お祈りをささげて出発しました。電車で移動するグループは、永本慶子先生、O・Mさん、K・Mさん、H・Mさん、Y・Tさんで、それぞれが大宮駅に集合して出発しました。神に選ばれたお一人お一人を主の御手に委ねます。主が栄光を現してくださいますように。
「西川口教会創立50周年誌」を読みますと、1969年に青森黒石教会へ長期応援伝道をしたと記録にあります。そして1984年に秋田の脇本教会(五味明子師・当時)に応援伝道に出かけています。このときわたしは高校生でしたが献金をしたことを覚えています。最近では、1998年に栃木の上三川(かみのかわ)教会(永本慶子師・当時)へ日帰りで出かけています。土曜から泊りがけの応援伝道は、2001年に和歌山の丸の内教会(三枝道也・育代師)、2002年に福井の武生教会(五味明子師)、2003年にはウエスレアン・ホーリネス浜松伝道所(小林悦治師)で、説教・賛美・証の奉仕をささげました。
 「応援伝道」と聞くと、使徒パウロがローマの教会の信徒たちに書き送った言葉を思い起こします。「あなたがたにぜひ会いたいのは霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(ローマ1・11〜12)。聖霊の賜物を活かし、互いに励まし合って、教会を力づけてくださる主を体験するのです。ハレルヤ!

2005年10月23日

「中越地震」被災教会・被災地を覚える主日

  2004年10月23日午後5時56分に起きた「新潟県中越地震」から一年。本日はちょうど一年目のその日にあたります。中越の地域は、昨年夏の水害、秋の地震、冬の大雪と、一年に三度の災害を味わいました。
 今年度の関東教区総会後に、関東教区「新潟県中越地震」被災教会・被災地支援委員会が組織されました。委員会は、それぞれの教会を訪問し、連絡会を開催して、情報交換や励まし合いの場を設けています。また、日本基督教団「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会が、全国募金活動(目標1億5千万円)を展開しています(ファミリー礼拝の席上献金の一部もこのために)。八月末までの募金の総額は約3千5百万円でした。
 被災5教会のうち、小出教会、見附教会、十日町教会は会堂・牧師館の建て直しを余儀なくされており、長岡教会と栃尾教会も会堂・牧師館の大掛かりな修繕を必要としています。また関係施設(十日町幼児園、山本愛泉保育園、清心保育園)もそれぞれに被害を受け、修繕を必要としています(支援ニュースが掲示板にあります)。
 国内外で地震・津波の天災が相次いでいます。被災者・被災地を報道で目にすると、胸が痛み「なぜこんなことが起こるのか」と思います。しかし御言葉は、そのような出来事が起こると予告しており、主イエスは「それらの出来事の意味は、あなたへの悔い改めへの招きなのだ」と語ります。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(マルコ13・8〜9)。しかも「産みの苦しみ」と言われます。神が産み出そうとされている、というのです。人間の思いをくつがえす見方ではないでしょうか。
 出来事の霊的な意味を受け止めつつ、今痛んでいる主の体(教会)を覚え、置かれたところで精一杯の祈りと支援を捧げたいと願います。

2005年10月16日

星野富広「花の詩画展」に出かけて

 川口総合文化センター・リリアが開館15周年記念事業として「星野富弘 花の詩画展」を開催することになり、先月、西川口教会にも案内が届きました(本日が最終日)。帰省していた姉と共に、8日土曜日の夕方に見に行きました。
 やはり原画には迫力があります。星野さんは手足の自由がありませんから、口に筆を加えて絵や字を書いています。だから、わたしは原画を見るときは筆一本の距離で絵に近づいてみます。そうすると印刷された詩画集ではわからなかった、筆使い・色使いの繊細さや面白さ、紙の凹凸などに気づくのです。また、星野さんの絵に添えられている詩(言葉)に、多くの方が共感し、励まされ、慰められています。来会者の感想を書く大学ノートが置いてあり、初日ではありましたが、たくさんの感動の言葉がつづられていました。
 どうして、星野富弘さんの詩画が多くの人の心を動かすのでしょう。
 「花の詩画」については詩人で画家の星野さんの存在が魅力だと思います。どんな小さな花も、雑草(と人間がまとめた草花)も、人の手が加えられた花も、感動しつつ描かれています。特に原画を見ると、どれほど丁寧に正確に花(葉・茎)を観察し、たくさんの色を作り、選び取り、描いたことかと感じます。その上でわたしが心を引かれるのは、星野さんの、真実で率直な、ありのままの言葉(詩)です。花の絵は、その言葉をより味わわせてくれるように感じます(星野さんによれば「花は主役を引き立ててくれる力を持っている」とのことです。なるほど)。「ああ、本当にそうだ。自分だって同じだ」とか、「そういう見方もあるな。気づかされた。教えてもらった」と詩画ごとに反応してしまいます。「生きるってうれしいね」「生きるってたいへんだね」「生きるって、支えられていることだね」と、詩画を見ているようで、自分の心を探ったのかもしれません。
 おいでになった方はいかがでしたか。 

2005年10月 9日

礼拝の構成要素<献金>

 来週はファミリー礼拝をささげますが、席上献金をインド・デリーの路上生活をしている子どもたちのため、中越地震被災教会支援のために献げることにしました(掲示板参照)。ご協力をお願いします。今回は、献金の原則的なことを再確認いたしましょう。
 礼拝にとって献金は本質的なものです。出エジプト記34章20節「何も持たずに、わたしの前に出てはならない」との主の言葉があります。主日礼拝の献金の感謝祈祷で「わたしたちの献身のしるしです」と祈ってくださる方があります。まったくそのとおりです。なぜなら献金は、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる(ローマ12・1)「かたち」であるからです。
 第二コリント8章から9章より、献げものについて原則的なことを知ることができます。
・第一に、献金は神の恵みです。「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」(8章1節)。決して損失ではない。
・第二に、貧しさは妨げになりません。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)のでした。
・第三に、献げる心は力に応じて、さらに力以上にという願いに導かれます。「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで・・・」(4〜5節)。
・第四に、自発的なものです。自分で決めるのです。「この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには・・・」(6節)。
・第五に、キリストの模範に倣うものです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(9節)。主が御自分を差し出されたので、わたしたちが豊かになりました。
・第六に、平等なことです。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」(14節)。
・最後に、恵みは広がります。「この奉仕の働きは・・・神に対する多くの感謝を通してますます盛んに」(9章12節)なるのです。

2005年10月 9日

世界宣教の日

 10月第一の主日は世界聖餐日であり、日本基督教団が「世界宣教の日」と定めています。毎年、世界宣教協力委員会から「世界各地で働く教団の宣教師と海外からの宣教師を覚え、祈りと献げ物で支えてください」と、案内と小冊子「共に仕えるために」が届きます(昨年度の報告と今年度の要請を掲示板に張ってありますのでごらん下さい)。役員会で、小冊子を購入し献金することにしました。小冊子はご家族で一部となるように、こちらの判断で配布しました。入っていない方でお読みになりたい方がありましたら、金田までおっしゃってください。
 「共に仕えるために」を読みますと、世界各地で現地の教会やキリスト教関係団体と協力して、日本語礼拝、日本人・日系人伝道牧会などに励まれている宣教師とその家族の様子や、多様な働きとその課題を知ることができます。また、海外からの宣教師のお名前と所属教区が書かれています。
教団が財政の責任を負っている宣教師、支援会・後援会が支えている宣教師がおられます。昨年度の献金報告を見ますと、募金目標額には届いていません。日本を離れて活動されている宣教師とそのご家族の必要が満たされるように祈ります。
 聖霊は、アンティオキアの教会に、ご自分のための任務にバルナバとサウロ(パウロ)をつかせるよう告げられました(使徒言行録13章)。教会は断食して祈り、二人に按手の祈りをして、出発させました。もしこの時アンティオキア教会が「教会が十分に成長してから海外宣教だ」、と言っていたら、今の世界はなかったかもしれません。教会が聖霊の導きに従順であったから、パウロとバルナバが派遣され、それによって、多くの人が福音を聞いて信じることができたのです。福音を受けた者として、今日の祈りに心を合わせていきたいものです。
「・・・宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」(ローマ10・14〜15)

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