トップページへ戻る週報短文へ戻る

週報短文


バックナンバー 2006年 1月分


2006年 1月29日

全国小牧者コンベンションに参加して

 今年も、小牧者訓練会主催による、第13回全国小牧者コンベンションに参加しました。二人の姉妹の参加はたいへんうれしく励まされました。全国各地から来られる教職信徒の方々との再会と、新たな出会いを喜びました。主に感謝です。
 全国小牧者コンベンションは超教派の集会です。簡単に言うと、マタイ28章18〜20節のキリストの命令に従って、主の弟子づくりによる教会形成を目指している働きです。何か固い響きを感じるかもしれませんが、全く逆です。明るく楽しい雰囲気です。ユーモアと笑いに満ちています。皆で一緒に歩いているという感じです。若い人もたくさんいます。集会の始めにはダンスつきの賛美を楽しみ、互いに愛と平和の挨拶を交わし、心が開かれて、御言葉に耳を傾けました。
 今回のテーマは、「愛・いやし・養育」。今回は弟子造りの全体像ではなく、養育段階にテーマを絞って進められていきました。洗礼を受けたばかりの時期は非常に大切であるにもかかわらず、日本の多くの教会は受洗後のケアが不充分という問題があります。御言葉を土台とする信仰生活を築き上げる必要があります。その段階において、だれがどのように養い育てていくのか。養育する側の視点を覚えつつ、共に体験し学ぼうというのが、今回のテーマの主旨だと思います。
 では、どこでするのか。小グループにおいてです。帰納的な聖書の学びを通して神を知り、互いに愛し合う交わりの中で養い育てます。小グループは、弟子たちと共同生活をした主イエスの方法であり、家ごとに集まって交わりをもった初代教会の方法でもあります。
 まだまだありますが、今回頂いた恵みを無駄にしないようにしたいと願います。さて、大会の参加者が約250人と聞きました。わたしが数えただけで、日本基督教団からは9教会、約30人(教職10人)の参加でした。この働きがゆっくりと確実に拡がっていることを感じます。

2006年 1月22日

教会総会・全体懇談会へ向けて

 月報や今週の週報にも予告されていますが、まもなく(2月12日)、役員改選の教会総会があり、昨年同様教会全体懇談会を開きます。この日を大切に覚えていただきたいのです。教会の使命、課題にどう向き合っていくのか。心を開いて、教会を建て上げる話し合いができますように。
 最近JR西川口駅の工事が始まり、たまに駅に行くたび、少しずつ変わっていくのを興味深く眺めています。切符売り場が移動し、新しいエレベーターや階段ができています。一体どんなふうに改築されるのでしょうね。わたしは、西川口駅の改築を見ていて、ふと「教会が変えられていくのも、こんなふうに少しずつかもしれないな」と思いました。
 駅は、営業を中止して改築をするわけにいきません。日常と変わりなく、切符を売り、乗客を受け入れ、通路などの施設を維持・確保しながら、少しずつ改築しています。あらかじめ「このエレベーターが使えるのは○日までです」、「この階段は○日から使います」などお知らせが表示され、利用者も心の備えができます。営業時間外にもせっせと工事をしているのでしょう。工事中なので誘導する人も常にいます。駅ビルの完成を目指して、すべてがそこに向かって少しずつ動いているように見えます。ある日突然、新築された駅ビルが目に前に出現するわけではないのです。
 今年度西川口教会も日常の活動、そして企画行事などに取り組んできました。来年度も大きな違いはないと思います。それらの働きをよく吟味し、その働きと並行しながら、変えていけるところに手をつけて、ゆっくりと着実に、また、しなやかに、目標に向かって進んでいけるのではないでしょうか。教会はギリシャ語では「エクレシア」。「主に呼び集められた者の群れ」です。何のために、主がわたしを呼び、あなたを呼び、この時代・この国・この場所に置かれたか、御言葉に照らされて思い巡らし、次年度へ踏み出したいのです。

2006年 1月15日

「ぼくの名前も?」

  先週の埼玉地区新年合同礼拝は祝された集いでした。特に、深田未来生(ふかだ・みきお)先生の説教「一人一人が名前で呼ばれるために」を、神に感謝しています。
 「名前」を巡って日常の出来事から、また聖書の御言葉から豊かに語られました。人の名前を呼ぶことは人格に語りかけること、存在を認めることです。たいていの人は名前を一生変わることなく持ち続けます。途中で名前を変えるなら自分も周囲の人も大変なこと。そうであるなら、アブラムを選び出し、「お前は今日からアブラハムと名乗れ」とは結構戸惑いがあったかもしれない。また、モーセは神に「わたしはあなたを名指しで選んだ」と言われた人。神と人との関わりはぼんやりしたものではなく、わたしの名を呼ばれる、主の御名を呼ぶ「出会い」であり、具体的な現実の関わりなのだと示されました。
 「ちいろば先生」で知られている榎本保郎先生のあるエッセイを思い出しました。子供たちにルカ19章「徴税人ザアカイ」のお話をしていたとき。「イエスさまを一目見ようと、背の低いザアカイさんはいちじく桑の木に登りました。イエスさまがそこを通り過ぎようとしていたからです。ザアカイさんのいた木のところに来ると、イエスさまは上を見上げ『ザアカイさん、今日はぜひあなたの家に泊まりたい』と声をかけたのです。ザアカイさんは喜んでイエスさまを迎えました。今も、イエス様はわたしたちの名前を呼んでくださいますよ」。そのとき一人の子が、「先生、ぼくの名前もか?」ときいた。「ぼくの名前も? 本当にイエス様は、ぼくの名前も呼んでいるの?」と。榎本先生はその子の問いかけに逆にハッとした。そしてハッとした自分を省みたというのです。御言葉に向き合って、自らにも真剣に問いかけていく榎本先生に感銘を受けました。印象に残っているエッセイの一つです(記憶に頼って書いたので違っていたらごめんなさい)。


2006年 1月 8日

成人祝福式にあたって

 先週の昼間祈祷会の交わりで、成人式発祥の地は蕨市だと初めて知りました。その後全国各地に拡がったとのこと。日本の教会で成人祝福式がもたれるようになったのはいつ頃なのでしょうか。ともかく神の家族としての教会で、人生の通過儀礼を共に祝える意義は大きいと思います。本日祝福にあずかる、これから長い人生を送る姉妹たちに、神が常に共にいてくださいますように。
 「人生は容易ではない」と、ここに集う方々は、特に年配の方々は、同意することでしょう。どうしてでしょうか。世界は完全ではないし、自分も他人も完全ではないからです。周りの人に傷つけられたことがない人はほとんどいないでしょう。そうであるならば、おそらく自分も、同等かそれ以上に他者を傷つけてきたことでしょう。
 考えてみれば当然のことを認めるのに、わたしは年月がかかりました。傷ついていないふりをして、「自分は大丈夫、何とかなる」と思っていたからです。そのことを自覚していませんでした。実のところ二十代の頃は、自分自身も環境も受け入れられず我慢し、自分で道を開こうと頑張っていたのでした。そんな状況は長く続きません。ついに行き詰まってしまいました。そんな中で「自分には限界があるのだ」と心底身にしみたのが、30歳頃でした。幸いであったのは、教会につながっていたことでした。行いが招いた結果で自分が打ち砕かれましたが、「それで終りではない」と御言葉が示してくれました。そんなわたしが神に愛されている。神の愛は行いで左右されるものではない。過去・現在・将来の過ち(罪)が赦される。やり直せる。このよい知らせ(福音)を日々受け取って、今のわたしがいます。
 昨日のディボーションでエレミヤの祈り「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を作られました。あなたの御力の及ばないことは何一つありません」(エレミヤ32・17)を知りました。アーメンです。この方の御名により、教会は祝福を宣言するのです。

2006年 1月 1日

主の恵みの御業

 主の年2006年を迎えました。本年を主日礼拝から始められる幸いを覚えます。教会の目標の第一番目に掲げられている「主日礼拝を大切にする教会へ」が、空しくなることがありませんように。礼拝は信仰生活の命ですから。
 一方で、わたしたちの身近にも、主日礼拝に来たくても来られない人々が、大勢いらっしゃいます。高齢者ホーム等に入居している、病気等で弱くされている、日曜日に仕事をしている、受験で塾に通う子どもたち・若い人たち・・・。どのようにして福音を届けられるでしょうか。
 先週12月29日の午後に、T兄(永本慶子師のお兄さま)の病床洗礼式が執り行われました。静かで厳かで、それでいて喜びに満ちた幸いな式でした。永本慶子先生からいずれ詳しくお証しがあると思いますが、思いがけない主の導きで、T兄の病床洗礼式が実現したのです。
 先月初めの昼間祈祷会で、永本先生から、お兄さまの入院、手の施しようがない病気の進行、そして「洗礼を受けたい」とおっしゃっている、と伺いました。後日、わたしもお見舞に同行し、お兄さまの意志を確認させていただきました。
 最近は二度の病床洗礼がありましたが、その時は、本人からの信仰告白を望めず、家族と教会の信仰によって洗礼を授けました。しかしお兄さまは自分の口で自分の意思を伝えることができますから、その時と状況が違います。永本先生と「18日の臨時役員会で状況を伝え、許しを得ましょう」と相談しました。別件のため臨時役員会が備えられていたことも神の導きと感謝しました。役員の兄姉が、まだ一度もお会いしていないT兄の受洗志願を承認し、お祈りを始めてくださいました。
 T兄は、御両親(H兄、H姉)の御葬儀に深く心を動かされたとのことです。H兄もH姉も、主の証人として用いられたのですね。人の目には思いがけない出来事。しかし神は、万事が益となるように働かせてくださるお方です。


トップページへ戻る週報短文へ戻る