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週報短文

バックナンバー 2006年 2月分


2006年 2月26日

安東栄子宣教師の日記

 一昨年の12月の夕拝で柏神学生から紹介されたもので、1990年2月の香港JCFの週報に載ったとのことです。生ける神の前にひとり立つ黙想・祈りに心が揺さぶられる思いがします。まもなく教会アシュラムです。このような主の真実に根ざしたな祈りを心新たに学びたい。

「12月29日(金)
 1989年も風のようにすぎ去ろうとしている。私の歩んできた道のなんとけわしかったことか。でも神の前に静まった時、はっきりと神のみ手の跡がみえる。神の恵みの数々をかぞえてみよう。私は不忠実だったけれども、神様あなたの真実はかわることなく私を支えて下さいました。私は汚れ、罪を犯しましたけれども、あなたのゆるしは私を聖めつづけ、ゆるしつづけて下さいました。私は高慢で、自己中心だったけれども、あなたはいつもへりくだって、誠実をもって教え続けて下さいました。
 神様ありがとうございました。私は知恵がなく思慮が欠け、軽率な者でしたが、あなたは折りにかなった助けとみことばによって私を諭していて下さいました。私には愛がなく、人を憎み、傷つけ、悲しませる者でしたが、あなたはそんな私の本当の姿をご存知でなおかつ私をつくりかえようとしていて下さいました。痛い、苦しい、悲しい経験をくり返して、はじめてあなたのみこころに気づくにぶい者ですが、あなたはあきらめずに私を見ていてくださるのですネ。ありがとうございます。
 神様、あなたの前に私は裸です。何も飾ることはできません。人生がもうこの年で終ってもいいと思うほどです。何も思い残すことがないんです。私の人生の大半はもう終ってしまったように感じます。
 (安東栄子宣教師はこの日記を書かれてから、11日後の1990年1月9日にインドネシアのカリマンタンの宣教地にて交通事故のため殉教されました。)」

2006年 2月19日

神が子供たちを送られるから

 来週はスタッフ公開研修会が開かれます。講師は玉井邦美牧師です。玉井師は日本同盟基督教団「新鎌ヶ谷聖書教会」の牧師で、同時に「オアシス・チャーチ・ミニストリー」の働きを展開しておられます。現在子供礼拝で使用している聖書テキストは、教案誌「成長」(CS成長センター発行)に従っていますが、玉井先生は、その「成長」の初代編集長でした。柏明史神学生の紹介により、玉井先生をお迎えできる運びとなり、そのご人格に触れ、共に有益な学びが得られることを嬉しく思い、期待して祈っています。研修のテーマは「子供礼拝メッセージの作り方の実際」ですが、「聖書をどう読むか」が大切なポイントになりますので、互いの信仰生活にも示唆が与えられるはずです。ですからどなたも遠慮なく公開研修会に参加いただきたいと思います。
 さて、礼拝スタッフミーティングでも協議されましたが、来年度、子供礼拝スタッフ(キッズクラス)、そしてヤングスタッフの奉仕者になってくださる方を募ります。同時に、毎日曜日の朝は無理だけれども、ときどきならできる、と言う方もお待ちしています。というのは、スタッフの実際的な一番の悩みは、「毎週のグループ(分級)の活動をどうするか。何をしようか」だからです。もちろん自分たちにできることをするのですが、毎週となるとなかなかたいへんです。以前、キッズクラスでは、月に一回教会員をゲストとして、賜物(仕事、趣味、才能など)を紹介してもらい交流をしていました。その時のように「こんなことができます」とか、また、お菓子・お料理つくりとか、自薦・他薦でも結構ですので、スタッフに声をかけてくださいますようにお願いいたします。逆にそのような機会を通して、大人たちが子供たちと交わりを持つことができると思っています。神が子供たちを西川口教会に送られるから、教会として子供たちを受け止める場を確かにし、豊かにしたいと願っています。


2006年 2月12日

慰めと励ましの書

 先週は許されて「婦人教職の集い」に父を伴って参加しました。講師は、弦巻教会牧師の川村輝典先生で、主題は「ヘブライ人への手紙と旧約聖書―特に礼拝問題を中心に―」でした。日本基督教団には「全国教会婦人会連合」という自主活動団体があります。全国的な教会婦人の連帯と婦人の宣教活動の推進を掲げて、地区・教区・全国レベルのさまざまな活動が展開されています。「婦人教職の集い」はその活動の一つです。マリア会も自主献金で支援しています。全国教会婦人会連合は聖書に聴くことを重んじ、二年一期で主題・活動方針を定めています。「へブライ人への手紙(以下ヘブライ書)」は今期の主題です。
 講師の川村先生は新約聖書神学者で、特にヘブライ書の研究が専門です。さて、主日礼拝の聖書テキストはどこが選ばれるかといえば、福音書、パウロ書簡が圧倒的に多いという現実があります。特にヘブライ書は旧約聖書の引用も非常に多いので後回しにされやすい。そのためか研究も遅れていたのですが、これからいろいろな成果が期待されるとのことです。へブライ書の執筆年代は研究の結果80〜90年頃とのこと。著者は使徒たちの次世代のキリスト者である。福音書やパウロ書簡と異なり、ナザレのイエスと生き、また直接出会った第一世代の弟子たちではない。ペトロやパウロは殉教し、第一世代の弟子たちは地上を去っていった。外からの迫害、内からの背教の危機にさらされていた。その次世代の教会に宛てられた慰めと励ましの手紙です。
 そのことを新鮮に感じました。わたしたちも主イエスを見なくても、声を聞かなくても信じている。こうして教会は信仰を受け継いで歴史を刻んできたのです。希望をもって今この時を忍耐し、約束に信頼するとき、今この時が教会の明日につながり、また歴史となるのだと示されました。今日の教会総会も同様です。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10・36)


2006年 2月 5日

本質的なものと相対的なもの

 先週の主日は埼玉地区講壇交換礼拝を実施しました。上尾合同教会の秋山徹先生においでいただき、わたしは上尾合同教会に行きました。
 打ち合わせで、上尾合同教会の主日礼拝式が西川口教会と異なっていることを知りました。罪の告白や赦しの宣言。罪赦された者の生き方として唱える十戒。こちらでは「牧会祈祷」にあたる祈りを司式者(長老)がささげている。ニケア信条の告白など。上尾合同教会は、秋山牧師の指導のもと、数年かけて十分に礼拝について学びを深めたそうです。いつもと違うので戸惑いましたが、神を豊かにほめたたえる礼拝を体験できました。
 主は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4・24)と礼拝の本質を語られました。しかし形式については何も言及されていません。一方、共に礼拝するために形式(要素・順序)は不可欠です。どんなに簡素でも形式はあります。教会は聖書に基づき、また文化・地域・伝統などの影響を受け、多様な礼拝式を生み出してきました。それは神の多様さ・豊かさ・懐の深さの反映だと思います。礼拝式は必要不可欠ですが、式そのものは相対的で、変わりうるものです。今までのやり方は何によるのか。どう信仰を表現していくのか。本質から逸れないように目を覚まして祈り、互いに励まし合い、自分の考えからも自由にされ、開かれた心で共に学び、取り組んでいく。それは教会的な営みではないでしょうか。
 これは教会生活、信仰生活においても同じです。来週は教会総会が開かれ、新年度の役員選挙が行われます。その後には全体懇談会が開かれます。なくてはならぬ一人ひとりが神に呼ばれて、今の西川口教会を形づくっています。主イエスが教会の頭です。わたしたちは主にあって変わることができるし、主に似た者に変えられていきます。目を覚まして、本当に重要な事を見分けることができるように、総会・懇談会に祈って備えたい。

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