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週報短文

バックナンバー 2006年4月分


2006年 4月30日

定期教会総会を終えて

 先週の午後は、定期総会が開催され、すべての議案が承認されました。役員会・グループが提案した今年度の活動・計画が教会のわざとして行われ、互いに担い合うことを確認しました。すべての教会員が宣教の担い手として召されていることを覚えつつ、各自が自分にできることを果たし、また、心と力を合わせていきましょう。
 わたしたちは主にあって一つです。それは神の業であり、主が実現してくださっていると信じています。その目に見えるしるしとしてわたしたちは集まり、礼拝において説教で養われまた聖餐に与るのです。互いに励まし合い、教会の定期集会(まず主日礼拝、そして祈祷会)を休まず、大切にささげましょう。また友人・知人・ご家族を、定期集会や家庭集会など、教会の集会にお誘いしましょう。必ず主がお働きくださいますから、まずはお連れしてみましょう。わたしたちは、礼拝・諸集会で主から愛と恵みをたくさんいただいて、いろいろな事情で集い得ない方々に、その愛と恵みを分かち合いに出かけていきましょう。
 さて、二つのことをお伝えします。まず、新たな家庭集会が始められることを願っています。神を求めている人やキリスト教を知りたい未信者のご家族や友人、また牧師と話してもかまわないという人がいるならば、あなたとわたしとその方で集会を始められます。主の約束があります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)。まずはお声をかけてください。
 もう一つはお知らせです。「分かち合いメール」の配信を始めました。月刊誌「幸いな人」の聖書日課に従い、その日の聖書から示されたこと・感じたことを、500字前後で、月曜から金曜まで朝の9時前後に、携帯またはパソコンのメールアドレスに送ります。日々御言葉に触れ、同じ御言葉で共に豊かにされたいと願っています。配信希望の方は、メールアドレスを教えていただければ、送ることができます。よろしくお願いします。

2006年 4月23日

恵みの座に近づこう

 お祈りに支えられて、先週の月曜日、埼玉地区婦人部総会の開会礼拝の御用を全うすることができました。S姉、H姉とわたしの初参加の三人組は、報告やアピールを聴きながら、教会婦人の全国的なネットワークの広がりの豊かさを感じました。総会後よい交わりも与えられました。
 今回の開会礼拝の依頼がきっかけで、ヘブライ人への手紙に親しむことができました。今、永本牧師が夕拝で説き明かしてくださっていますが、本当に奥の深い、かめばかむほど恵みをいただける聖書だと思います。
 二月に参加した「婦人教職の集い」で、講師の川村先生から、ヘブライ人への手紙全文の私訳のコピーをいただきました。教会の公の集会で用いる聖書に比べ、私訳は意欲的で大胆な訳が可能です。その中で非常に共感した言葉がありました。4章14節です。「そこで、われわれは神の子イエスという、天の諸層を通過された偉大な大祭司を与えられているのだから、われわれの言い表す信仰にしがみついていようではないか」(新共同訳では、「(前半略)わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」)
 迫害という苦難の中で戦っている信徒たちにとって、そしてわたしたちにとって、「信仰にしがみつく」という表現はピッタリくるのではないでしょうか。自らも揺さぶられるような思いの中で、ただ主により頼むほかない信仰の心です。
そして、具体的にそのことをよりはっきりと告げているのが、16節です。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。自分も他人も当てにできない、当てにならない、現実の困難のただ中で、主のもとへ逃れていく。自分の外へ出て行って、キリストの座に向かっていく。恵みの座で主は両手を広げて待っていてくださいます。毎週の主日礼拝や祈祷会、日々のディボーション、また「助けて!」という瞬間の祈りにおいて、主は共におられます。

2006年 4月16日

イースターについて

 「イースター」(復活祭)は、福音書に記されているイエス・キリストが十字架の上で亡くなった後、三日目に復活したという出来事、およびそれを伝える物語を記念しておこなわれる礼拝であり、それを行う日曜日を指す言葉です。
 イースターは複雑な背景をもって成立しました。キリスト教の歴史のごく初期には、復活祭という言葉はなく、むしろユダヤ教の過越の祭「パスカ」という言葉が用いられていました。というのは、キリストの十字架の死と復活を記念する季節が、ユダヤ教の過越の祭と重なっているからです。
 旧約聖書の過越の祭が、「イスラエルのエジプトからの解放」という大きな喜びの出来事を記念する礼拝であったのに対して、キリスト教会は、新しい過越、「罪と死からの解放」という意味をそこに与え、ちょうど同じ時期に起こったイエスの十字架と復活の出来事を記念することにしたと考えられています。
 この日は、ユダヤ教の過越の祭との関連で守られるようになり、その過越の祭が太陽暦ではなく太陰暦で決定されているので、毎年のイースターの日は「それぞれの年の春分の日の直後に来る満月の次の日曜日」ということになりました。それで、イースターは移動祝日になっています。しかし、必ず日曜日ですから、「主の日」と呼ばれるキリスト教的な礼拝日の成立とも関わってきました。今日に至るまで、日曜日を主の日、礼拝の日として確立させた根拠は、その日がキリストの復活の日であったということでした。そこで、一年中のすべての日曜日が「小イースター」の意義を持つことになります。(参考「よくわかるキリスト教の暦」)
 復活の主イエス・キリストのもとで、逆転が起こります。不従順な者が正しい者とされ、罪の増したところ恵みがさらに満ちあふれ、悲しみは喜びに変わり、闇から光に移されて、死は終わりではなく新しいいのちの始まりとなりました。この約束が今、わたしたちに実現しています。


2006年 4月 9日

絶望の先にある希望

 サドルバック教会のセレブレイト・リカバリーについて先週の週報短文に書きましたところ、ちょうど、「幸いな人」4月号の「今月の言葉」に、新潟信濃町教会の小淵康而牧師が、昨年夏「セレブレイト・リカバリーセミナー」に参加され感銘を受けたことが書かれており、注目されている働きなのだと改めて感じました。
 働きの拡がりやプログラムに目が行きがちなのですが、参加者のはじめの一歩は、「あきらめる」ということです。つまり、「自分の力では生きていけないことを認めること。自分に絶望すること」。逆説的なのですが、回復は、あきらめることから始まるということなのです。
 セレブレイト・リカバリーの原則1はこうです。「わたしは神ではないということを認めます。悪いことをしてしまう自分をコントロールする力がないこと、そして自分の人生が手におえない状態にあることを認めます。」(リック・ウォレン著「回復への道」より)。これは、ローマ7章18節の御言葉「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」、という使徒パウロの嘆きに通じます。もう自分の意志に頼ることができず、自分自身に絶望した人間の惨めさの告白です。
 主イエスの弟子たちはどうだったでしょうか。過越の食卓に迎え入れられ、主イエスに足を洗っていただいた弟子たち。彼らは、何度もしくじった人たちでした。誰がいちばん偉いかを議論し、ゲッセマネの園で主が近くにいてほしいときに眠りこけ、主が逮捕されたときには皆逃げ出し、ペトロは「イエスなど知らない」と言って否認しました。弟子たちは誰一人主を裏切るつもりなどなかったのです。しかし、自分の力で主に従い通すことはだれもできませんでした。
 今日から受難週です。復活の希望は、主イエスの十字架の前で、自分自身に絶望することからもたらされると信じます。


2006年 4月2日

解放と回復の主

 2006年度が始まりました。
 昨年度もいろいろな教会の働きがありましたが、個人的に与えられた恵みとしては、昨年五月に参加した、アメリカ・サドルバック教会の教会研修は今でも印象に残っており、折にふれ考えさせられています。研修では、サドルバック教会の教会形成の理念(神の目的に導かれる教会)と、実際の活動がつぶさに紹介されました。その中で、大きな衝撃を覚えた集会が「セレブレイト・リカバリー」(直訳すると回復を祝う=jでした。
 すでにこの活動は十数年を経て発展を見せているようでした。集会のプログラムは賛美と救いの証というシンプルなものでした(そのあとでテーマ別小グループに分かれる)。どんな悲惨の中から救われたかという点では、現代社会の破れ―家族間の虐待・暴力、依存症、自傷行為など―があからさまに語られました。そして、このセレブレイト・リカバリーに出会い、状況に無力であった自分を認め、神の約束を信じ受け入れたとき、変えられ始めた。解放を体験し、回復のステップを仲間と共に歩む中で、神に愛されている自分を取り戻した。今は、同じ痛みを追っている人々のために喜んで仕えたいという証を聞きました。福音が生きて力強く働いているのを目の当たりにし、チャレンジを受けました。かたちは違っていても、教会こそが、解放と回復の主と出会い、癒され、他者に仕えることのできる交わりを持っている。その実現を願わされています。
 そのような祈りの中で、わたしの今年の御言葉として与えられたのは、「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。」(ゼファニヤ書3章18節a)でした。
 人の苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知っておられる主は、自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます。重荷を負う者を、重荷を負ったまま集めるお方です。わたしもあなたも主に集められた一人です。解放と回復の主は、わたしたちのただ中におられます。


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