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週報短文

バックナンバー 2006年 7月分


2006年 7月30日

「たいじょうぶ」の福音

 ある方のご好意で、今年6月の関東教区・教会婦人会連合修養会の講演テープを聞きました。講師は渡辺和子先生(ノートルダム修道会で約50年の修道生活、79歳、元ノートルダム清心女子大学学長、著書多数)です。永本先生とマリア会三役の姉妹方はこの研修に参加されて、大いに喜んで帰って来られたので、一体どんな講演だったのか、興味を持っていたのです。
 講演題は「キリストの香りを放つもの」。主題聖句は、有名なテサロニケの信徒への手紙一第5章16節〜18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
 なんと若々しい明瞭なお声でしょうか。約90分の講演が2回とも、はじめから終りまでご自分を全部出し切っておられました。キリスト教信仰へ入った頃、母親に「それでもあなたはクリスチャン?」と言われ、そこから、「あなたの周囲にいる人は、キリスト者にキリストの香り(「臭い」ではなく)を放って生きることを期待しているのではないでしょうか」と語り始められました。「母にそう言われるほど、わたしは高慢ちきな人間でした」と、さらりとおっしゃり、修道院での生活、学生との関わり、マザーテレサが来日された時のエピソード、病(うつ病、膠原病)の苦しみの体験、自分の生き方を変えられた出会い(人と言葉)など語られました。相手の意地悪の悪さに対して腹を立てる自分、つぶやいていた自分、感情に流されてしまった苦い経験を、率直に誠実に分かち合ってくださいました。
 ここまで自らを突き放して見られるのは、逆説的ですが、しっかりとしたものを持っているからなのですね。それを渡辺先生は「どっちに転んでも『大丈夫』の福音」とおっしゃいました。どう導かれても神は一番良くしてくださる。この確信に凛と立っておられる渡辺先生がいました。

2006年 7月23日

ファミリーキャンプ報告

 7月16〜17日と奥多摩福音の家でのファミリーキャンプから無事戻ってまいりました。
 電車組みと車組みに分かれて出発です。到着して昼食をいただき、主日礼拝をささげました。説教では、数日前に切って葉が枯れてしまった枝、その日の朝に切ったぶどうの房のついた枝を見せて、「イエス様につながっていよう。御言葉を受けよう」と語りました。雨が何とかあがり、子どもたちと一緒に川遊びにでかけました。ドライブ組みもありました。川原から戻りスイカ割り。夕食後のお楽しみタイムでは、フラダンスが異様な盛り上がりを見せましたね。キャンプファイヤーでは、野口神学生の救いの証に心打たれました。
 翌日の早天祈祷会では小グループで祈り合いました。主の愛に包まれ静かで豊かなひと時でした。午前中の制作では、それぞれが色とりどりに世界でただ一つのマイバックを作りました。二日目は朝から雨で、バーベキューはできませんでしたが、ほぼすべてのプログラムを予定通りに終えました。一人一人役目を快く引き受けてくださり、全体はスムーズに進行できました。
 参加者は31人(小学生5人、中高生2人、大人24人)、初参加は11人、未信者は12人でした。父が最高齢かと思っていましたら、本杉姉のお母様が参加くださりうれしいことでした。また、子どもたちの成長ぶりに目を見張りました。すぐに打ち解けて、ゲーム機なぞなくても仲良く遊びました。キッズクラスのスタッフは傍らにいて見守り、祈りを指導してくれました。自分で企画して出かけられない小学生、中高生のためには、教会としてこのような集いが必要だと思いますが、それも送り出してくださるご家庭・子どもたちとの良き関係が前提です。礼拝教育部を中心に役員会が準備を担いました。現地に行けない兄姉は、祈りとささげもので、この業に加わってくださいました。すべて主がなしてくださったこと。主に感謝と賛美をささげます。

2006年 7月16日

それでも一緒に生きていく

 7月7日の夜、Y兄が再入院し、容態が非常に悪いことを伺いました。そして、翌日早朝に連絡を受け永本牧師とかけつけました。心臓マッサージも功を奏しませんでした。翌日46歳の誕生日を目前にしての召天でした。
 Y兄の死に驚きつつ、ご遺族に主の慰めを祈りつつ、11日、12日と葬儀をつつがなく執り行うことができました。皆様のお祈りとご協力を心から感謝いたします。本当に多くの方がその死を悼み、葬儀に参列くださいました。
 ちょうど一年前、Y兄が教会の交わりに加えられた頃、すでにその体は限界に近づいていたのです。昨年7月からM姉と共に、礼拝に続けて来られるようになりました。今年一月の入院でも容態が非常に悪くなり、病床洗礼を覚悟してお見舞いに行ったこともありました。しかし持ち直し退院。その後、受洗希望の志が与えられ、準備会をしてイースター礼拝に洗礼を受けました。本当にYさんが救われてよかった。愛餐会で一人ひとり証をし、挨拶された時の心からの笑顔を思い出します。受洗は揺るがない事実です。すべての罪を赦され、復活の望み・永遠の命を与えられ、神の子とされた。教会という神の家族の一員とされ、聖霊の支配下に移された。洗礼は新しい命の始まりです。
 洗礼を受けてからも、病との闘いはなお続きました。教会ではあまり苦しい表情を見せなかったY兄でしたが、訪問したときに、一度、うめくように病の悲しみや苦しみを聞きました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24)。このパウロの嘆きを思わせる言葉でした。どのように道が開かれるかと案じながら、神がY兄を神の家族にされたのだから、「それでも一緒に生きていく」と心に言い聞かせました。洗礼を受けたわたしたちは、いつまでも一緒に生きていく神の家族です。

2006年 7月 9日

反省から研究へ〜説教者セミナー報告〜

 皆様のお許しを得て、先週は、鎌倉へ出かけ、説教者トレーニングセミナーに全期間参加することができました。神に感謝いたします。
 セミナーの会場は、カトリックの黙想の家でした。緑の森からのさわやかな風や、うぐいすやほととぎすの鳴き声に慰められました。こざっぱりとしていて、食事もおいしく(それが一番?)、テレビも新聞からも離れ、静寂を楽しみ、快適に過ごしました。
 さまざまな教派の牧師たちが約20名各地から「いざ鎌倉!」とはせ参じました。講師は加藤常昭先生です。五日間、わたしたち参加者を手取り足取り、御言葉の深みへ導いてくださいました。
 それは以前、伊豆大島のキャンプでの磯遊び体験に似ています。きれいな海で、地上から水中を覗いても海の中がある程度は見えました。でも「せっかく来たのだから」と、水中メガネをかけてドボンと海に入ったら、景色がまるで違いました。色とりどりの熱帯魚がサアッと足元を通り過ぎ、風にそよぐ木のように海草がユラユラと動き、貝や岩の形などはっきりと見え、慣れている人から「ここにはこんなのがあるんだよ」と手に触れました。海で遊んだ経験が乏しいだけに、外から見るのと、中に入って見るのとでは、ぜんぜん違う、と驚いたことを覚えています。
 今回の聖書テキストはローマ8章1〜11節でしたが、学びを重ねていくうちに、最初に受けた印象から、御言葉が隅々まで鮮やかにくっきりとなり、立ち上がって見えてくるようになりました。なんと今までぼんやり眺めていたことでしょう。しかし、反省では変わらないのです。精進しなければならない。「抜け出した」と思ったら、「まだ自分の殻の中だった」と気づくかもしれません。「ではなぜそうだったのか」と研究していくことです。その姿勢を持ち続けていこうと決心しました。祈っていきます。主日礼拝の説教のために、これからもひたすらに祈ってください。 

2006年 7月 2日

コリント前書を終えるにあたり

 賛美礼拝・一般礼拝の聖書テキストとしてきた「コリントの信徒への手紙 一」(以下コリント前書)を、本日で終えます。来週は説教セミナーで学ぶ「ローマの信徒への手紙第8章」を、16日はファミリーキャンプのために「ヨハネによる福音書第15章」を、礼拝の聖書テキストといたします。23日の礼拝から「コリントの信徒への手紙二」(以下コリント後書)に入ります。
 わたしは、西川口教会での信仰生活が、今年のクリスマスがきますと25年になります。その間コリント前書・後書は、三枝道や牧師、島隆三牧師が、主日礼拝で取り上げられ、説教されました。また、島静江牧師が水曜の祈祷会で奨励されました。何度も繰り返し聴いてまいりました。皆様の中にはもっと聴いている、という方があるかもしれません。けれども、この約一年の説教への取り組みの中で、思いを新たにされたことが数多くありました。特に、使徒パウロの生き様に驚かされ、圧倒されました。
 “キリスト者の兄弟関係は、われわれが実現しなければならない理想ではなくて、神がキリストにあって創造された現実であって、その現実にわれわれがあずかることを許されているのである。われわれの交わりの根拠と力と約束とが、すべてただイエス・キリストにのみあることを、はっきりと知るようになればなるほど、いよいよ心安らかに、われわれの交わりについて考えることもでき、交わりのために祈り、また望むことができるのである。”(ボンへッファー「共に生きる生活」(新教出版社)19ページ、太字は金田)
 パウロはボンヘッファーの言葉のように、コリントの教会と共に生きていました。パウロはこの手紙を、平和の挨拶と感謝で始め、別れの挨拶では祝福を告げています。本文の、安易な居直りを許さない厳しい勧告には戒められるばかりですが、それらすべては、神の恵みと平和、祝福の光の中の言葉であることを心に刻みます。

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