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週報短文

バックナンバー 2006年 10月分


2006年 10月 29日

キリストのおられるところ

 10月31日は、プロテスタント教会にとって意義深い日です。宗教改革記念日です。1517年のこの日、マルチン・ルター(1483‐1546)が、ヴィッテンベルク城教会の扉に95か条の提題を打ちつけたことに由来しています。
 教団教派名や学校名に「ルーテル」とありますが、「ルーテル」とはルターのことで、その名がつくのは、ルター派の流れにあることを示しています。特別集会でお招きした賀来周一先生もルター派の教会の牧師です。
 今月15日の特別礼拝の賀来先生の説教をまとめたものを、次の西川口だよりに載せます。録音したものを起こしましたが、紙面の関係上やむなく割愛しました賀来先生の説教の一部、ルターの言葉が引用されている部分を、ここに紹介いたします。
“・・・宗教改革を起こしたルターが、「悔改めの詩編」でこういうことを言っています。
「人間にとって罪とは何か。罪とは何か悪いことをしたとか、そんな生易しいことではない。罪とは、行き場所を失って、神からも捨てられて、絶望の極みに立っていくところを失ってしまった。なんとも仕方がない、行くところがない、神から見捨てられてしまって、絶望の極みに立ったところ、それが罪の極致である。罪の極致のところは、結局は、キリストしか行くところがなくなってしまった。それが罪のいきつく果てだ」。
神からも捨てられ、絶望の極みに立つ。もう行くところがない。しかし、よくよく見ればキリストがおられる。しかも、そこしかない。そのところに神は人間をおとしめる、ということです。「キリストしか行くところがない」、という所で見つけるキリストは、まさに共に苦しむキリストです。自分の最もつらいところ。神から捨てられ絶望の極みに立ったところに、脇を見ると、キリストが私の苦しみを共に苦しんでくださる。その方がおられます。その方を発見します。そのことが大きな慰めだということです。・・・”


2006年 10月 22日

備えられている祝福

 昼間祈祷会でヨシュア記を学び始めました。
 旧約聖書は、イスラエルの歴史を知らないと理解しにくい面がありますから、集会で共に励まし合いながら読むことが大切です。思い込みや独りよがりな読み方をしないよう、謙遜に御言葉に向き合います。同時に、今のわたしたちに語られる神の言葉として傾聴し、聴従したい。どうぞ皆さん、出席してください。また、出席がかなわない方は、出席者が増し加えられるよう祈ってください。教会の目標の二番目に掲げています。
 永本先生が、「主はヨシュアに、(当時の)全世界をイスラエルの民に与えようと言われました。神様は、すばらしい祝福を既に与えようと用意していてくださる。それを受け取りに行くのが信仰です」と説き明かされました。勇気が与えられました。主なる神は既に備えていて、祝福を与えようと待っていてくださる。ただ主に期待して取りに行けばよいと。
 「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(7節)。
 わたしたちは一般礼拝で、毎週、日本基督教団信仰告白を告白しています。信仰告白の冒頭には、聖書についてのわたしたちの信仰の立場が述べられています。
 以前、東京聖書学校の公開講座で、岡村民子先生の聖書正典の講演を伺いました。この教団の信仰告白の冒頭部分を説いてくださいました。「聖書が信仰と生活との誤りなき規範である。それはどういうことか。それは、わたしたちの信仰と生活が聖書を規範としていくこと。つまり、信仰と生活が、聖書によって逆に規範されることです」。そう語られて、信仰告白を新たな思いで見返しました。これは「神の言葉を基準として、わたしの信仰も生活も合わせていきます」という告白なのです。既に備えられている神の祝福を受け取るべく、自分が変わっていくことなのです。


2006年 10月 15日

特別集会へようこそ

 西川口教会秋の特別集会に良くおいでくださいました。心から歓迎いたします。わたしたちは、祈り待ち望んで今日を迎えました。賀来周一先生をお迎えでき喜んでいます。この会を実現させてくださった神に感謝いたします。
賀来周一先生は、現在、キリスト教カウンセリングセンター(CCC)の相談所長でいらっしゃいます。CCCでは相談活動のほかに、学びの場が提供されています(学習所)。賀来先生は学習所の講師でもあります。CCCは設立されて20年以上になりますが、西川口教会の二代目牧師の三枝育代先生はCCCの学習所の課程をH姉と共に学ばれました。お二人が初穂となられ、西川口教会ではあとに続く者が起こされました。わたしもその一人で、今年度は賀来先生のクラスで教わっております。CCCは時代を先取りして設立されたことを改めて思い、わたしたちの教会もCCCを通して恩恵を受けていることを覚えておきたいものです。
 賀来先生は、長い間牧師として務めてこられ、豊かな牧会経験をお持ちです。講演・講義の機会は何度も巡ってきましたが、説教を聴く機会が今までありませんでした。今回が初めてなのです。まず、チラシ作成のためにご連絡をいただいたとき、驚きました。普段、永本牧師もわたしも、与えられた聖書箇所からのフレーズを取り出して説教題としておりますので、本日の説教題―「『なぜ』こんな事がと問う時その答えは」―はわたしの目に新鮮に映ったのです。「その答えはいったい何ですか?」と、問い返したくなるような思いがしました。さらに一言添えてありました言葉に、期待をもちました。
〔予期しない出来事に遭遇する時、わたしたちは「なぜ、こんな事が私に」と問います。その問いにどのような答えがあるのでしょう。その答えを聖書の中に探してみたいのです。〕
 今朝は、皆様方と共に、聖書の中に答えを見出したいと心から願います。神に期待して。

2006年 10月 8日

伝道者を覚え、伝道者を生み出す教会

 10月第二主日、本日は、「神学校日・伝道献身者奨励日」です。皆様ご存知でしょうか。日本基督教団関係の神学校は全国に6校あります。東京神学大学、関西学院大学神学部、同志社大学神学部、日本聖書神学校、農村伝道神学校、そして当教会と関わりが深い東京聖書学校です。これらの神学校を卒業して、日本基督教団の試験を経て任地に遣わされていきます。現在、柏明史兄は東京聖書学校の最終学年ですから、来年春に卒業、受験、派遣されます。覚えて祈りましょう。
 西川口教会からは10名以上の献身者が起こされました。お名前と任地を紹介しましょう。五味明子師(武生教会)、横山基生師(東京新生教会・在欧日本人宣教会国内宣教師)、小林悦治師(浜松伝道所)、松元潤師(札幌北栄キリスト教会)、山田称子師(浦和別所教会)、原田のぞみ師(宮崎清水町教会)、横山ゆずり師(半田教会)、押川沢江師(宮崎教会)、永本慶子師、町田さとみ師(初雁教会)、繪鳩彰師(上三川教会)、と金田です。
 そして、開拓伝道から教会を建て上げられた横山義孝師・静子師(東京新生教会)、引き継がれた三枝道也師・育代師(和歌山丸の内教会)、三代目の島隆三師・静江師(仙台青葉荘教会)、伝道師であられた川崎理子師(名古屋西教会)が、わたしたちを主にあって養い育ててくださいました。
 毎月「西川口だより」を諸先生方に郵送しています。全国各地におられる先生方が祈ってくださっています。なんと感謝なことでしょうか。
 数年前、教会創立50周年誌編集の奉仕をしていたときです。「西川口教会はどんな教会か」を巡って、わたしたちは自分の持っている印象を述べるばかりでありましたが、島隆三先生は「西川口教会は『伝道者を生み出す教会』だ」とおっしゃいました。このことに何度も言及され、印象に残っています。それは本当に光栄なことです。伝道する教会であり続けると同時に、伝道者を生み出す教会でありたい。祈り待ち望みます。

2006年 10月 1日

力を合わせて共に働く

 10月を迎えました。教会暦ではなく、日本基督教団の行事暦として、10月第1主日は、「世界聖餐日・世界宣教の日」と定められています。
わたしたちの前任者の島隆三・静江先生は、西川口教会に着任される前には、香港JCFの宣教師でした。また、西川口教会は10人以上の伝道献身者を送り出しましたが、その中のお一人横山基生先生は、ご夫妻で在欧日本人宣教会の宣教師としてイギリスに滞在されました(現在は国内宣教師として奉仕されておられる)。そのおかげで、わたしたちも世界宣教・宣教師を身近に感じられるのだと思います。
 この夏「こころの友伝道ソウル国際大会」のオプションツアーでは、セムナン教会の教会資料館を見学しました。韓国で初めて設立されたプロテスタント教会であるセムナン教会は、「母なる教会」と呼ばれているそうです。この教会の歴史は、韓国のキリスト教史と重なるのです。さて韓国宣教の初期の時代、日本でハングル語聖書が印刷され、それが韓国に運ばれたと聞きました。「だからわたしたちは日本人クリスチャンに感謝すべきなのです」と、解説をしてくださった長老さんが語られました。初めて知らされた歴史でした。(余談ですが、日本で最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会にも同様の資料室があるとのこと。ぜひ訪ねたいと思っています。)
日本においても韓国においても、宣教師が海を越えて、福音を携えて来てくれました。その伝道によってキリスト者が生まれ、教会が建てられていきました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。福音は、時代を超え、国を越えてバトンタッチされていきます。
 わたしたち皆が国境を越えて行くように召されてはいませんが、教会の歴史から学ぶ時、宣教師の使命が重要であることを知ります。宣教師や海外宣教の働きを覚えて祈り支えるとき、世界宣教を共に担っているのです。

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