2005年9月09日 荒武賢一朗さんと 建築あそび 講演記録   home  

 はじめに   江戸時代大阪の青物流通   都市と農村  幕末期   
 明治以降   おわりに              呑み語り1  呑み語り2 

都市と農村

●江戸時代の 都市と農村 

 ひと区切り大まかな江戸時代の大坂の状況をお話したんですが、続いてですね、先ほど言ったような「都市と農村の対立」ということに重点を置いて お話しをしたいと思います。

先ほど言った天満市場の問屋商人ですね。問屋商人というのが居て。一方で生産者がいるわけです。生産者が市場に商品を卸して、そこで売り買いが起こって、問屋仲買と あって小売りに売って。小売りが最終的に一般消費者に売るわけですが。その中でやはり生産者と商人の戦いがあるんですね。戦いというのはいろいろ有るんです。ここに細かいことを書いてますが、、レジメの1枚目の左側から右側にかけての所にありますけれども。一つにはこういう野菜の供給について、色んな人が介在するっていうことは、その分だけ、鮮度は落ちて行くっていうことにもなるんですね。

だから一番良い取引としては生産者からそのまま一般の消費者に行くという「産地直売」みたいな形が一番理想的なんですが。それが出来ないまま、周辺の村から「一旦 市場に何が何でも入れて、そこから分配をしなければいけない」というのが江戸時代の中盤ぐらいまでの大坂の状況でした。

それに対して、農民側は「それでは効率が悪いじゃないか」と。だから「色んな手を使って鮮度の良い商品を売っていこ」というのが、レジメの一枚目の右側の方ですね。2番の方を見ていただいたら良いかと思うんですが

● 天満青物市場独占の崩壊

2として
大坂と周辺農村の関係−天満青物市場 独占の崩壊ということでお話しをします。大坂に物を入れる。商品を入れる時には「天満の市場を通さといけない」というルールがあって、それに対して周辺の農民達は「それではちょっと商売がしにくいな〜」というか「じゃまくさいな〜」ということがあるわけです。ここで、紹介する一つは 天満の市場の傍で「農民が主体となって小売り商人なんかに売りさばきしたい」と。要するに問屋を通さないやり方ですね。

それを「実施したい」ということをやってきます。これもですね〜最初は全部蹴られていくんですが、そのうに認められて行く。10回も20回も。大坂町奉行所という所が大坂の町を監理してますので、そこに願い上げをして、「私達が直接商品を売らしてくれ」というかたちで農民側が要求をして。最終的にはちょっとだけスペースをもらってですね、「そこで商売をしていいよ〜」という話になっていくわけです。

それが一つ目の所に、黒丸をつけているんですが、大坂町奉行所に「特権」を与えられてきた天満の問屋たちということになるんですが、それが次第に崩れてくるということです。

二つ目の黒丸の所に注目して頂きたいですが、これは寛政10年。西暦1798年なんですが、摂津の国西成郡というのは、大体このあたり。大坂の町の西っ側の地域。ここでま〜 

だいたい26ヶ村どころではないんですが。その内の26ヶ村が、「天満の立ち売り場」というのは、農民が直接商売を出来る場所ですね。

そこを「拡張してほしい」と言い出すんですわけですね。これを大坂町奉行所に願い出ます。

この時に農民側が要求してきたのは、主張する理由ですね、というのは、ここに上げている3つなんですが、立ち売り場・自分たちが直接販売をする、立ち売り場が狭いという事が一つ。それから二つめは鮮度が要求されると。鮮度が勝負の野菜の販売ですから、それを迅速に行うためには「今のスペースでは困難である」という理由を付けていると。 三つ目に、これは一番町奉行所が痛い所なんですが、百姓が手作りで作っている野菜ですね。彼らが生産している野菜というのが、これが高く売れることによって、年貢ですね。

西成郡というのは ほとんど幕府領なのです。ここで上がってくる税金はそのまま幕府に入っていくと、いうことなので。「青物が高く売れれば売れるほど、税金は高く払えるじゃないか」ということに成ってきます。 そうなので「そういう意味でも重要な産物やろう」と。逆に言うと「それが売れないと私たちは年貢払いません」と暗に言っている。この辺はしたたかな論議が農村側にもありまして。

こういう風な主張を受けまして、大坂町奉行所はどうするかというと、これは相手方の天満の市場商人。問屋たちにも意見を聞いて。結局はですね その翌年に「農民が直接売る立ち売り場という所を拡張する」ということで、この話しあいは成立をします。

ここでは矢印を書いてますが、農民側が、青物、これは小売りの商人たち。素人という言葉が史料の中に出てくるんですが、これはおそらく行商をやっている、天秤棒を担いで、町を歩きながら大根を売ったりとか、そういう行商人を想定していると思うんです。そういう人達に自由な販売が出来るように農民とその小売り商人たちが直接やり取りを出来るようなかたちが出来てくると。

ということになると、ここの天満にいる問屋とか、あまり話には出しませんが仲買というような「商人たちが不要になってくる」ような状況がでてきます。

ここでは農民が、江戸時代の後半になってくると「直接、大坂の都市民たちと商売をしていきたい」ということを言い出し、それが実現していくということが ハッキリとしてまいります。

それから10年も経たないうちに、その西成郡26ヶ村というのは、先ほど言った難波という村ですね。この難波村というのも一つ重要な位置を占めているんです。難波村では「百姓市」というのが行われていて、それを天満の市場商人たちは「止めてくれ 」というふうなことを言い出します。

要するにですね、大坂の町がこうあって、難波というのはこの辺になるんですね。道頓堀とういう堀川がっあって。この側は大坂市街ですが、側はなんですね。大坂の町と橋一つ渡った所に百姓市という市場を作るわけです。そこで農民達は好きなように商売をしているわけですね。

百姓市には青物の小売り商人も来るし、行商人たちも仕入れに来るし。というような 勝手に百姓達が市場を作ってしまうということがあって。それでは大坂の市場商人たちは自分たちの商売にならないので、「なんとかしてほしい」と願い出ます。

これについては大坂町奉行所というのが一つあって、原告は天満の市場ですよね。被告が難波村の百姓なんですが。町奉行所っていうのは、それを「イエス・ノー」でハッキリ言えなくって最初。原告から訴えられてことを、被告になっている人間とも話をしながら、裁定をしていくんで。最終的にはここに出ているように 文化2年にそのことが始まって文化8年ですから、約6年ぐらいかけて結果が出ています。

その結果はあとで御説明しますが、その過程で、一方で被告の難波村からは別の願書が出ています。「差し止めなんかやられたら困るんだ」という嘆願書が出ています。これも資料をあげていますが、要点だけ。ここの7つほどレジメの方に上げています。

これは難波村の百姓たちが書いていることなので、それが本当なのかどうかという判断は後でしたいと思いますが、ここに上げている7つ

一つめですが
難波村というという所は「皆畑場」と書いてありますが「村の中はほとんど田圃じゃなくって畑なんだ」と。だから「米を作っているんじゃなくって、ほとんど青物とかそれから藍ですね。藍を作っている」というこうことを言っています

二つめは
同じく難波村で生産された青物は天満の市場に出していると、その余りを「はした荷」と表現しますが、例えば大根を20本とかで区切っていって、縄で縛ったりして運ぶんですが、例えばそこで3本だけ余ったらこれは 「はした荷なんだ」と言うんですね。これは「バラになっちゃうので市場に出荷できないんだ」と。だからこの3本を村の中で畑の中とかで売ってるんだと。

 会場 わらい・・携帯電話が鳴る・・ハイ今始まったところ・

ここで書いているように 「はした荷」は以前から、畑の中で、村内無高借家人(そんないのかしゃくやにん) というのは、難波村というのは先ほども言いましたけど 大坂の傍なんで、完全に農業をやっている人ばっかりじゃなくって、半ば町人みたいな人が家を借りて住んでいる。ベットタウン化しているということでして、農業をやっていない人間とか。それから青物稼ぎの渡世が出てきて、素人・行商人ですね。こういった者のことを指していると思うんですけでど、「そういう人達に売っていましたよ」と言うことが二つ目

三つ目は
難波村では青物以外に藍も作っているんですが、青物の例えば 大根とか西瓜とかですね、「そういった商品よりも利益が少ないんだ」と言っています。この藍作についてはこの二枚目の右側に一寸横向いてる表を、起こして見て頂いて。表の2と書いてますが、難波村では江戸時代の後半にこうい物を作っていましたよという表です。


見づらいかと思うのですが、一番左に藍作。それから二番目に大根ですね。それから夏の青物冬の青物、春の青物ということで出しています

藍作の場合見ていただきますと、四月下旬〜植え付けが行われて、こっちのレジメに書いてますが9月上旬に大体商品として出荷できるような状態になるんです。そういうふうに見ていただいたらこの表はいいと思うんです。

作の場合は4月下旬に植え付けが始まって、9月の上旬に粉藍というかたちで出荷できるようになる。ただ毎年のことで、年内に作った藍を全て「完売させることは非常にむずかしくって」どうしても、次の年の四月ぐらいに残っちゃうんですね。でそういうのがあって、「藍作よりも青物の方が利益は非常に上がり易いし、直ぐに売れますから」というのがあるんだと。

4つめは
青物は作物ごとに旬があり」というのは、いまの表を見ていただいたら分かりますが、色んな季節によって作っている品種が変わってきます。西瓜であったり大根であったりとかですね。いろんな野菜があって、その都度に旬があって、その都度に商品も売れるから。それでなんて言うかな、ローテーションが上手くいくわけですね。

それによって、例えば青物販売利益については、肥料代にまわしたりとか。それから奉公人・実際に畑をやっているときに、何人かの人を雇ってですね 農作業をやりますから。その給金、お給料を払ったりとか、家の経営というのは 勿論 皆さん家でご飯食べたりとかという 諸経費ですね 。一方で藍の販売利益はなかなか

会場 ガタガタ音がして騒々しい・・・

売れないもんですから、まとまって入ってくる時には「年貢を払うために置いておく」という事を言っている。

5番目として
村内での販売とそれから天満へ出向いて販売することの違いですね。これは当たり前の話なんですが、手間が掛からないんですね村内で売れば、自分の畑で売れば、全然 「大坂へったりたりとか 物をんだりとか いう手間は省けます」勿論 利益も高い。新鮮な、鮮度のよい野菜を消費者に提供できるということがあると。

それから6番目については
百姓市で販売する物は13品目に限定する」と言っています。これは天満の市場側に配慮してですね、「自分たちはいろんな物を売るじゃなくって、13種類に絞るんだ」ということを言っています。

7つ目は
村内での取引に他村の青物商人を入れない。これは要するに「難波村の百姓市では難波村の百姓しか取引が出来ない」と。

・・携帯電話で話すkちゃん・・あぁほんと・・便所へこもり行く・

というふうなことを言っています。ということは裏を返すと、「今までは難波村の百姓市には他の百姓がやって来たりとか、他の商売人がやって来て商いをしていた」と。商取引をしていたという事の裏返しで。あえてこれを「難波村の人間でしかやらない」と言っているのは 今までそういうことが出来ていなかったと。だから天満市場のような状況が 難波村に出来ていたんだということを示していることだと思います。


1〜7というのはいろんな中身が入っているんですが、こういう嘆願書を踏まえて、大坂町奉行所は結果としてですね、難波村の内で生産されるもの13種類に限ると。これに限って難波村で百姓市として販売することは許しますよ」という裁定を出します。ということは天満の市場商人達の要求は却下されたということになります。

ここまでお話ししたことを星印のとこでまとめていますが、この背景には大坂市中に隣接している・非常に近いと。橋を一つ渡ったら難波村で、橋を一つ渡れば大坂の町であるというような状況。こういう地理的な要因ですね

それから天満市場に頼らなくっても、村内でこういう、百姓市と呼んでいますが、事実上は天満の青物市場と変わらないような、市場を作れるわけですよね。こういうものを開くことが出来るという現実があると。

そしてなによりも重要視すべきなのはこれは商品が野菜であるということですね。鮮度が要求される野菜ならではの。産地直売、難波村で採れたものは産地直売ではないですが、鮮度の良いモノが難波に行けば売っているという。消費者に対する利点も認められるんだということが こういう資料の中から分かってきた。


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