2005年9月09日 荒武賢一朗さんと 建築あそび 講演記録   home  

 はじめに   江戸時代大阪の青物流通   都市と農村  幕末期   
 明治以降  おわりに              呑み語り1  呑み語り2 


● 明治時代以降の大阪と青果流通

すこし話が長くなりましたが、三番目、最後の所に行きたいと思います。ここでは明治維新以降ですね。大阪とそれから青物という言い方は明治時代になると しなくなります。青果物。ま 野菜でいいと思いますが、野菜の流通の範囲が拡大していくということ。と、大阪の庶民のですね、暮らしの中で食べるものが変わって行。というのを推論も交えて紹介をしておきたいと思います。

明治維新が終わって日本は近代化の方向へ向くわけですが、ここでは大阪の周辺の農村、先ほど紹介した 難波村とかの地域ですが、こういった農村の青物作とか そこで生産される商品の出荷が減少するということがございます。

これは最初に述べましたように、近接農村自体が、難波村自体が都会になっちゃうわけですね。田圃や畑が無くなっちゃうわけです。田圃や畑が無くなってみんな家に変わっていくと。、農地が減少していきます。

大阪の市内の人口も増えてるし、ちょっと外側の部分の人口も増えて行くというのがあります。とくに非農業人口というのが増加しているということです。要するに田圃や畑をやらずに工場をやったりとか、商売する人が増えるというのが明治時代の大阪、および周辺地域の特徴という事になります。

 特にですね日清戦争とか日露戦争が終わると、大阪は工業化が著しくって、「東洋のマンチェスター」とか言われたり、「煙の都」と言われる。商いの町とか天下の台所というイメージから工業都市的な性格が非常に強まって来ます。

周辺農村、先ほど言った新田西瓜を作っていたですね。海に近い所であれば、そこは全部工業地帯に変わっていったとかですね、明らかに周辺地域の変貌というのが、この時期に現れてまいります。

そうなると「大阪市民の食卓というのは、どうするんだ」「誰が野菜とか果物を供給するんだ」と言うことになるんですが、これは明治期中盤くらいから多いんですが、中国地方、それから四国九州、の西日本を中心として、野菜とか果物とかたくさん大阪に入ってくることになります。

明治時代中盤と申し上げたのは交通体系が変わってくるということと。それから船で運ぶ場合も汽船で運ぶことが非常に多くなります。それによって、かかる時間ですね。大幅に短縮されますし。逆に言うと大阪に近い所で物が採れないので、そこに頼らざるを得ないというのが、状況としてあるかと思います。

ここで食卓の変貌といふうに書いてますが、大阪市民の食卓というか食べ物が変わるということです、。

大阪周辺の場合ですと先ほど紹介したような 所には 天王寺蕪てんのうじかぶら)とかですね、田辺大根とか。幾つか、後で見ていただいたら いいと思うんですが、その地域でしか採れない、大根とか人参とか 蕪とか、ナッパ類とかとう物が有ったわけですが。こういったものが生産されなくなっていって、商品化されなくなっていって。村では食べられているかもしれないけれども、大阪に出荷するまでの量が作られていないということになってきます。地域の名産野菜というものが消滅というと語弊があるますけども ドンドンドンドン食べる機会は減ってきます。

一般的な野菜は、我々が今食しているような、スーパーでお目にかかるような一般的な野菜がドンドンドンドン増えてくると。これは戦後 特に増えてくるわけです。もう一つは果物の需要が拡大してきます。フルーツの需要が拡大してまいります。


例えばですね、瀬戸内海の大崎下島とう村を紹介したいんですが、ここは広島県の豊町という所でして、この大崎下島自体はですね、江戸時代は瀬戸内海の有数の港であって、北前船とか、いろんな船がここを出入りして、海運の中継地であった場所なんです。

最も御手洗というのが有名なのは「風待ち港」と言って瀬戸内海の船の航行で、一旦そこで休んだりとか、休憩を取ったりする場所なんです。「遊郭があって、遊女がたくさん居た町である」というふうに言われているんですが。

明治時代になると、汽船も絡んでくるんですけども、今までの日本型の和船が。和船による海運業がこうなってくる(下り坂を身体表現する)んですね。そうなると いくら港が良くっても、船が出入りしない。海運の中継地にならないので、「なにか他に産業を考えないといけない」ということで

これは明治40年代になるんですが蜜柑栽培がおこなわれるようになる。これで大正期にかけて大崎下島町は「黄金の島」と言われるようになって、蜜柑栽培の一大拠点になっていく。今でも行きますと売ってますが「大長みかん」という物とか「ネーブル」というのが大正10年ぐらいから日本でほぼ初期のネーブルを生産する場所になります。

彼らは、勿論 島で消費するんじゃなくって売り先を考えているんですね。これは大阪・神戸というのがマズあって。そのあとは広島が近いので、広島にも出していますし、福岡にも出している。その後は日本の植民地政策に乗っかって朝鮮半島とか中国大陸に蜜柑を出荷していくというようなことをやっていきます。

これはあの〜・・ 二の次の話なんですが、そもそも大崎下島が目指したのは、「大阪に目指して商品を出してやろう」と。「そうすると売れるんだ」ということをハッキリとその時期の農家をやっている人達が記録の中で書いてます

そういうのがあって、要するに大阪周辺の都市化の状況と 広島とか瀬戸内海周辺の産業構造の状況とがピタッと合ってですね、元々は港で栄えた町だったのが、地域丸ごと変わってくる。というのが一つ「言えるのではないかな〜」と思います。

現代で言えば、中国とかアジアに我々は野菜については、なんていうんですかね〜「そのまま頼りっきりの状態になっている」わけですが、そういう時代の流れというものが地域産業を変えて行ったりとか。これからまたそれは変わっていくかも知れませんし、状況は異なって行くかもしれませんけども、「時代・時代によって地域というものは変わっていくんだ」ということが一つ言えるかと思います。


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