縄生廃寺 (三重郡朝日町縄生畑ケ谷)

縄生廃寺跡 縄生(なお)廃寺は戦前に土取の際に瓦片が出土したり、江戸時代中期に編纂された桑名周辺の地誌「勢桑見聞略史」などに現在は町中にある金光寺の旧地が丘陵地にあったとされていることから昭和44年に「金光寺跡」として三重県遺跡台帳に登録されていました。

この地に中部電力川越火力発電所からの送電線鉄塔が建設されることになり、昭和61年(1986)それに先立つ町教委の発掘調査で古代寺院の塔基壇と葺かれた状態のまま並んで落下した屋根瓦が出土しました。そして塔基壇の中央地下約1.2mの心礎の舎利穴の中から唐三彩の碗を蓋に被せた、ろくろ挽きの滑石製舎利容器が発見されました。舎利容器が出土した例は全国的にも珍しく、話題を呼びました。また軒丸瓦の様式からこの寺院の創建は白鳳時代に遡ることが分かりました。

 このような重要な発見のため、中部電力では別に土地を買収して鉄塔の建設位置を移動させることを決め、遺跡は保護されることになりました。また出土した遺物や、遺構の様子を展示する朝日町歴史博物館が開設されました。

現地説明会の様子1987年2月
南東方向から右上現況写真とほぼ同じ角度での撮影
手前は基壇化粧の瓦積み、奧は倒壊した屋根瓦、基壇中央に心柱(塔の中心の柱)穴が見える。
倒壊した屋根瓦(西から)
屋根に葺かれた状態を保ったまま倒壊している。
心柱穴
直径13.5cm、深さ1.2m、底に舎利孔を穿った心礎(心柱
を支える礎石)が見える。舎利容器は取り出し済み。
倒壊した屋根瓦(北から)
瓦の並びから、塔は左回りにねじれるようにゆっくり
と倒壊したのではないかといわれています。
舎利容器(重要文化財) ひと・まち・みちの今昔展図録 朝日町歴史博物館より
 舎利容器は約2cm程の鉛ガラス製の卵形容器(左手前)で、ろくろ挽きの滑石製有蓋壺(外容器 左)に納められ、その上から唐三彩碗(右)が被せられていました。
出土瓦 三重県の古瓦 三重県の古瓦刊行会より
川原寺式複弁蓮華文軒丸瓦(右上)、山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦(左上、中)、飛雲文軒平瓦(下)
壬申の乱と川原寺式軒丸瓦はここから
塔復元模型 朝日町教育文化施設案内パンフレットより
塔は東西10m、南北10.2mの基壇上に建てられていました。
基壇に残る礎石の置かれた跡や倒壊状態、時代背景等から
三重の塔を推定して10分の1の模型が作られ、博物館内に展
示してあります。
朝日町歴史博物館
縄生廃寺の他、江戸時代の国学者橘守部など朝日町の歴史が学べます。展示。床面には縄生廃寺の瓦の出土状況がレプリカで立体展示されています。

 縄生廃寺は白鳳時代に建立された寺院だいうことが分かりましたが、その場所は丘陵上の狭い平坦面に位置しています。その後この寺院の伽藍配置を探るために数年次にわたり周辺の試掘調査が行われました。その結果塔の北側に僧坊らしき建物跡が発見されましたが、そのほかの建物跡は見つかっていません。このことから定式化された伽藍配置は持たず、平安時代以降に隆盛する山岳寺院に近いあり方の寺院だったのではないかと推定されています。

地理案内図(40Kバイト)