10 仏眼院 (南魚町)

仏眼院本堂
喚鐘(市指定文化財)

 宝興山と号す天台宗のお寺です。古くは東方(ひがしがた)にあったともいわれ、平安時代後期に桑名神社(春日神社)の神宮寺となり、室町時代の吉之丸付近を経て江戸時代に当地に移りました。
 
 江戸時代には春日神社の別当(神宮寺を支配する僧職)をつとめました。また法喜禅悦寺、とも桑名談義所とも称しました。多くの寺宝がありましたが、建物とも戦災で消失してしまいました。現本堂は平成元年(1989)の再建です。天井に檀家の画家が描いた108枚の仏画がはめ込まれています。

 現存する寺宝のうち「喚鐘(かんしょう:お勤めなどの合図の鐘)」は万治2年(1659)桑名鋳物師広瀬家次作で市文化財に指定されています。

 道路を隔てた墓地に初代桑名東城主伊藤武左衛門実房、同二代城主実倫の墓、桑名刀工村正一族と思われる千子宗入禅定門(承応4年(1655)没)の墓、国学者三崎葦牙(あしかび:明治20年(1887)没)の墓などがあります。

 また当院は精義小学校創立の地であり、境内に記念碑が建っています。









地理案内図(87Kb)

伊藤武左衛門実房・実倫墓(市指定史跡)

 伊藤氏は、桑名の豪族で、東城(現在の九牽公国付近)の城主でしたが、織田信長の伊勢平定の時降伏して地待となりました。江戸時代には町年寄を務めました。この墓は桑名では最も古いものの一つで、実房のは天正11年(1583)(写真右)、実倫のは慶長8年(1603)(写真左)です。
千子宗入禅定門墓(市指定史跡)

 刀鍛冶村正の墓と伝えられています。村正は室町時代に美濃赤坂から桑名へ移り住んだといわれ、広<中部・東海地方の武士に名刀として愛用されました。
 
 村正は、本名を青江正三郎といいましたが、走井山の千手観音に祈ってできた子供なので、千子(せんこ)と呼ばれました。村正の刀は徳川家にたたるというので家康に嫌われ、諸大名やその家臣も村正の刀を持つことを避けたため、村正は千子と改称したといわれます。

 この墓には「承応4年(1655)正月16日」と没日が刻まれていますが、何代目の村正に当るのかは不明です。無縁墓地の中に入れられています。