4 専正寺 (今中町)

 三龍山と号し浄土真宗本願寺派のお寺です。江戸時代は、称念寺と称し、のち正念寺と改称。戦災にて焼失。戦後萱町にあった専久寺と合併し、専正寺となりました。
 
 この辺りは江戸時代初期には漁村で、地面は当地名産の蛤の貝殻で覆われていました。文政6年(1823)この地の住人谷氏が、これら無尽蔵の貝殻を見て、蛤の供養を思い立ち、この寺の墓地に碑「蛤墳(こうふん)」を建てました。

 もとは1m足らずのものでしたが、大正に入り「桑名の蛤」として全国に桑名を宣伝し、また商売繁栄をさせてくれた感謝のため、時雨蛤商の業者によって改築されました。

また墓地に長篠の戦いの際、城を脱出して岡崎城にはせて家康に援軍を求め、再び入城する折、武田軍に捕えられ張り付けの刑に処せられた、有名な鳥居強右衛門(すねえもん)一族の墓7基があります。

地理案内図(87Kb)

蛤墳(市指定有形民俗文化財)
碑文に「あまおふねのりのみ声にはまぐりの貝の耳にもとめてしのばむ 一雲山人行業」と刻まれています。14代藩主松平忠堯(ただたか)に仕えた藩士黒沢重孝の作です。行業は重孝の号で、文筆に秀で狂歌を得意としました。
鳥居強右衛門一族の墓
鳥居家は奥平松平家に仕えた藩士で、この墓所は新屋敷の桃林寺にありましたが、奥平松平家が桑名から忍(おし:現埼玉県行田市)へ国替えになったとき真如寺の管理となり、終戦後の都市計画でここへ移されました。