9 桑名別院本統寺 (北寺町)

 浄土真宗大谷派のお寺です。通称「桑名御坊」、桑名っ子には「ごぼさん」として親しまれています。

 織田信長の大坂石山本願寺攻めの時に、本願寺支援のために尾張・美濃・伊勢の一向宗(浄土真宗)の評義所として設けられ,慶安2年(1649)本統寺の寺号を許されました。

 桑名の江戸時代の富豪山田彦左衛門の寄進になる八棟造りと呼ばれた本堂を初め、書院、茶所、鐘楼、鼓楼などがある大寺院でした。明治初めに桑名城の櫓を移した聚星閣ができました。幕末には将軍家茂(いえもち)が、明治13年(1880)には明治天皇が宿泊しています。

 しかしこれらの大伽藍は戦災のため焼失してしまいました。現在の本堂は昭和25年に再建され、平成12年に改修されたものです。鐘楼・山門は本堂再建の際、大阪八尾別院から移されました。

 またこの付近は寺町といってお寺がたくさん集まっています。これは本多忠勝が桑名の城下町を開いた慶長の町割りの際に、美濃街道から城下への入口であるこの付近に戦略上の理由でお寺を集めたためです。

 門前の寺町商店街の「三八の市」(3と8の付く日に開かれる市)は戦後始まったものですが今では広く市民に親しまれています(右写真)。

地理案内図(87Kb)

冬牡丹句碑

 松尾芭蕉は貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の初旅の折、同門の俳人であった住職の琢恵(たくえ、本願寺琢如上人の次男)を本統寺に訪ね、「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」の句を詠みました。「千鳥の鳴き声を聴きながら、雪中に牡丹とは、なかなか見られない光景であるよ。今の今まで、牡丹とくればほととぎす、と思っていたのに」といった意味でしょうか。

ところでこの句、季語ばかりで構成された奇っ怪な句です。芭蕉はこの3年後に日本武尊が息絶え絶えで杖をついて登ったという鈴鹿の杖つき坂で「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」(笈の小文)と季語の全くない句を作っています。これは桑名で季語を使い果たしてしまったからという説もあります?!。この句碑は昭和12年建立のものです。

親鸞上人銅像

 編み笠姿のこの銅像は昭和12年(1937)に大阪の実業家広瀬精一氏(鍋屋町にあった桑名鋳物の創業者のひとつ広瀬鋳物の分家)によって寄進されたものです。

 当時同じものが6体作られ、京都、新潟、東京、大阪、広島、そして広瀬氏の出身の桑名に建てられたのだそうです。 このうち広島の像は原爆で被爆し正面全体が焼け爛れてしまいましたが、昭和30年(1955)に世界平和の願いからアメリカに渡り、マンハッタンにあるニューヨーク本願寺仏教会の正面に置かれていて毎年8月に「平和の集い」−広島長崎原爆法要−が像の前で行われているそうです。

 この事実は一昨年(2002年)、桑員NPOの会員の調査によって分かりました。この桑名の銅像も空襲の中を焼け残ったものです。

戦前の本統寺全景(ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 桑名 国書刊行会より)
八棟造りの本堂と桑名城の櫓を移した聚星閣がそして中央に常磐の老松が聳える。この付近の常磐町、緑町、老松町はこの松に因んだ町名です。
現在の本統寺全景
左の古写真に近い位置から撮影。
聚星閣の石垣が残っている。中央は新築成った「聞光殿」