院長

ご挨拶

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脈を必ず診なさい。患者さんが治らないのは自分の責任と考えなさい。

父は私の幼い頃、体調を崩し入院したことがあります。幼子を抱えた父は、西洋医学的治療を受けると同時に東洋医学的な治療も受け早期復帰を果たすことが出来ました。父は生前「鍼灸は良いものだ」「鍼灸は素晴らしい」「わしの人生が、もう一度許されるのなら鍼灸をマスターしたいと口癖のように言っていました。そんな環境のなか、町の西洋医学の限界を感じた多くの人が、救われる姿を近くで見ながら、わたしも鍼灸で人を治したいと思い、1983年高校卒業後、日本一の鍼灸を目指して広島県から大阪に上京しました。

学生時代は島根大学理学部教授が作られた東洋厚生科学研究所に所属して電気的にツボの解明の研究を行い卒後、広島県で臨床研究を行っておりました。 当時、国交が途絶えていた日中関係が改善され、これまでベールに包まれていた中国医学が鍼麻酔と共に世界中に衝撃を与えた時代でもありました。 そのような時、東邦大学付属大森病院・東洋医学科教授三浦於菟先生の南京留学案内の紹介を見て、中国の鍼灸を学びたいと考え南京中医学院へ日本の鍼灸師としては初めて留学しました。 「脈を必ず診なさい。患者さんが治らないのは自分の責任と考えなさい。」 中国南京に留学中老中医から言われた言葉です。

私の臨床先は南京市中医病院でしたが、同じグループにいた香港医師が、個人的に老中医を紹介してくれました。 診察室にはベッドが10台2列に並んでいて、一杯で、その老中医の診察を受けようと、田舎から何日もかけて、多くの人が訊ねてきていました。なかには、交通事情の乏しかった当時の中国では、馬に乗せられた台車に乘せられて運ばれる人も圧倒される光景でした。 その時、老中医に言われた言葉「ここに来られる多くの人は医学に見放された人ばかりです」「最後の砦になりなさい」 その為には「脈を必ず診なさい。患者さんが治らないのは自分の責任と考えなさい」その言葉を胸に34年が過ぎています。

 

40年前の自分の歩んだ思いを、
二度と味わってほしくない

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高校一年生の時の挫折がキッカケでした。


私の育った町では、鍼灸師を鍼医者、柔道整復師をもみ医者と呼ばれていました。 鍼灸は内科、柔道整復術は整形外科の代替医療として、何の疑問も無く育ちました。 柔道整復術は鎌倉時代より武術の活法として発達した日本の整形外科ですが、私の育った町にも、渋川一流と呼ばれる柔術とともに活法が愛媛県松山藩の柔術指南役より伝えられていました。父の叔父も免許皆伝されており、わたしは、その影響を受け、中学では柔道部の主将として郡大会で優勝、広島県では柔道の名門の崇徳高校校に進学しました。

しかし、高校一年生の秋、毎日の激しい練習のため右鎖骨疲労骨折をおこし柔道を断念しました。初めての挫折でしたが、私のような、ケガを治したいと思い柔道整復師を志しました。

大阪での臨床実習は大阪府柔道整復師会副会長前羽公平先生を師事、その後いくつかの整骨院で修行しましたが、柔道整復師には客観的な検査方法が必要と感じ、広島では社団法人柔道整復師会の学術部に8年在籍臨床の傍ら、外傷のエコー観察の研究発表を行いました。 40年前の自分の歩んだ思いを、二度と味わってほしくない、そんな気持ちで精進しています。


プロフィール

[名前]
松谷行晃
[趣味]
漢方の勉強会に参加する事
[来歴]
1983年

明治東洋医学院 入学

1985年

明治東洋医学院 卒業

1985年

鍼師灸師免許取得

1985年

島根大学理学部教授主宰の登用厚生科学研究所に入所
広島臨床研究所にて臨床実習

1986年

研究論文 指頭感覚に関する研究1)その測定法の試みと2,3の性質 東洋厚生科学研究所紀要 Vol. 1 1988)Bulletin of the Research Institute of Oriental Life Science and National Hygiene, Kyoto. Vol 41 東洋厚生科学院

1987年

南京中医学院留学(鍼灸師第一号)・中医理論・鍼法を学ぶ

1988年

中国医学広島研究所 松谷東洋鍼灸院を開設

2000年

鍼灸臨床よろず17年 医道の日本社投稿 第59巻・第6号・通巻675号(平成12年6月号)