夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> |
4.1.1.11 労働は、生き甲斐になりうるか |
2000年6月25日 森みつぐ
労働を、有償労働と無償労働の二つに分類すると、有償労働は、生活の糧を得るための賃金労働、無償労働は、心の糧を得るためのボランティア活動と考えられます。
私は、会社に勤めるサラリーマンです。従ってここでは、主にサラリーマンを中心にした有償労働について考えてゆくことにします。
労働は、生き甲斐になりうるのでしょうか。また自己実現の場になりうるのでしょうか。ただ一つ言えることは、労働が唯一のものではないと言えることです。人生にとって、労働が全てでないと言うことです。
会社という狭い組織の中に、どっぷり浸かっていると、狭い視野と偏った知識のため社会一般の教養が往々にして身に付かなくなってしまいます。そして度を超した長時間労働は、労働、休養(睡眠)、私生活のバランスを崩すことになり、より一層視野を狭めることになります。労働も生活全般の中の一部として、調和のとれたバランスを維持することが求められるでしょう。
人は、労働することによって、その対価として賃金を得て生活の糧とします。衣食住のため、余暇のため、そして将来の備えのために。労働による金儲けが目的ではありません。あくまでも家族を含めて、将来に亘って幸せに暮らしていくことが目的になるのです。幸せをもたらす要因は、賃金だけでしょうか。決して、そのようなことはないでしょう。ローン返済のために、目一杯働くのでしょうか。それも考えものです。幸せをもたらす要因の一つを、摘み取ってしまうようなことはしないようにしたいものです。幸せを得るためにローンをしているのでしょうが、そのために長期間に亘って無理することは、また別の不幸をもたらすかも知れません。無理のない返済方法を考え、行動に移して欲しいものです。
会社は、地域社会(国家を含めて)の中で、労働者の幸せと地域社会の発展及び株主と顧客の満足度を求めて活動しなくてはなりません。ところが多くの会社では、顧客のためと利潤(金儲け)のために、労働者や地域社会を犠牲にしています。特に労働者は、直接的な関わりの中で、多くの被害を受けています。会社の利潤は、この多くの労働者への皺寄せ(サービス残業、有給休暇の切り捨て等々)による場合が多いと言えます。会社にとって労働者は、扱いやすい歯車であることが必要なのです。
会社の中には多くの人たちがいて、他者との交わりが増えてゆきます。社会に出て、知り合う人の多くが会社の人たちです。ところが会社内は、出世競争や派閥やらで、非常に入り組んだ利害関係で支配されています。そして、その中の労働者は、非常に狭い組織を抜け出せないでいるので、多様な考えや価値観と出会うことが少ないのです。多くの人たちとの出会いは、貴重ではありますが、組織(企業)を超えた出会いが求められます。
労働に対する悦びは、労働=金儲けの図式からでは得られません。何故ならば、金儲けは結果でしかないのです。例えば、ボランティアのように無償でも、人の為になった(自己満足でも)、人の為に働けたというだけでも本人にとっては悦びとなります。自分の存在価値が、そこに見出せるからです。ところが会社においては、手段を選ばず、とにかく利潤を上げることが優先されます。結果は当然であり、その経過においても一般社会通念や倫理をねじ曲げてでも、結果を出すことを無言の圧力の下で要求されます。このような中では、豊かな心は育ちようがありません。滅私奉公をして、やっと会社に認められたとき、私の生きてゆける場所は、この殺伐とした閉ざされた組織の中だけとなってしまいます。それでいいのでしょうか。
労働することによって豊かな心を得るためには、会社が変わる必要があるのですがそうすると現状においては、労働者から労働搾取している会社には不利になります。まして、昨今の世界中の会社とのグローバルな競争は、更なる労働者への不利益となる恐れがあります。
以上、述べてきたことを考え合わせると労働(サラリーマン)は、本当に人生における目的、生き甲斐となりうるのでしょうか。
雇用は、当然、会社の損得勘定で決まります。労働者の意志とは、別次元で決まるのです。そして、定年が訪れ、会社とは完全に切り離されてしまうのです。私には、一時的にしろサラリーマンにとって仕事が趣味にはなりえないと思っています。現状の労働搾取が前提の会社においては、生き甲斐になるとは思えません。
損得勘定でできあがった企業論理で、無闇に労働者の人格を否定することは許されないことです。そのような不条理の中でも、確固たる自己を持ち続けるためには、本当の意味での趣味、生き甲斐を見つけることが必要となります。
|
Copyright (C) 2002 森みつぐ /// 更新:2002年6月30日 /// |