夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標>
夢惑う世界4.1.1.12 「透明な存在」について考える
1997年7月13日  森みつぐ

 余りにも残酷で、余りにも若かった故に、社会への衝撃は大きかった。事件の凶悪さは、少年の特異性を指摘し一般社会から切り離そうとしている。そして、それは少年法の改正をもたらそうとしている。少年を私たちから遠ざける事により現社会の正当性を保とうとしているのである。
 私は、この事件を少年の特異性だけとして考えず、私たちを取り巻く社会全般の問題として捉えて考えたい。家庭や学校だけの問題ではなく、その背後に、更に大きな問題を抱えている。戦後50数年、右肩上がりと効率主義で突っ走ってきた経済至上主義がもたらした結果である。今や市民社会までが、いや国家そのものまでがこのような企業の強い影響を受けているのである。

 会社において、労働者は会社に絶対的忠誠を求められる。法定労働時間週40時間は、あくまでも他の先進諸国との摩擦を回避するためのものであり、不足する労働時間はザル法である労基法の36協定で会社の無言の圧力のもとで残業を強いられる。そこで残業を拒否する労働者がいれば労働組合までが、その労働者の特異性だけを指摘して切り捨てるのである。労働者は、利益優先と効率優先の企業論理(その典型的な例は、患者の命と引き替えに非加熱製剤を売り続けた緑十字)に反旗を翻すことはできない。それは労働者にとっては、大きなストレスとなって会社での生活は、建前で過ごすことになる。それは、非現実的な社会でもある。本音という現実的な社会は、各労働者が会社以外の場所で実現するほかないのである。少年の言う「透明な存在」は労働者の会社での存在に相当するのではないだろうか。大人も会社においては透明な存在なのである。それ故会社の外で本音の社会を見つけようとするが、それを見つけることができない大人は、いつも心の奥底に不平・不満が鬱積した状態の「透明な存在」であり、そしていつ爆発してもおかしくないのである。

 学校において、子どもたちは偏差値により管理され知識偏重の競争を強いられる。そして授業が終わっても半強制的に一律部活が要求される。競争社会においては、結果が重視されその経過は軽視される。競争社会は優秀な生徒だけが実在していて、その他の生徒は透明な存在なのである。意味のない存在であり、かつ人間としても認められないのである。教師は、忙しい義務教育カリキュラムのノルマを達成することで精一杯で生徒たちと一緒に人生について共に語らい、共に悩むことができなく、彼らもまたジレンマの合間で透明な存在なのである。

 家庭において、子どもたちは学校の延長であり塾やクラブと大忙しである。本人の意思によるものならばよいのだが、親は子供のためと言っては、半強制的に通わせる。子どもにとっては、親のためと思いストレスを感じながら通うほかないのである。親は会社で会社人間と化して夜遅くまで働く。家のローンのため、車のローンのために夜遅くまで働く。建前という非現実的な社会の中で長時間過ごすのである。入社してからずっと滅私奉公を続けてきたため、人間として生きてゆくうえでの主義・主張に欠け、確固たる人生哲学も持ってないので、自己の確立が出来ないままである。それ故、家庭内では子どもの素朴な質問(情報化社会のため子どもは必要以上に情報偏重となり親にとってはシビアな質問もあるだろう。そして今後向かうだろうインターネット社会では更にシビアになると思われる)に答えられず、また一緒に考える時間もないのである。子どもと面と向かって会話ができないので、物を買い与え、そしてお金で解決しようとする。だから、子どもたちまでも消費社会へと巻き込まれてしまったのである。子どもは肌で感じているのである。親からは、金や物以外は期待できないと。親は子どもが子どもらしく生きる権利を奪い、自分の権利を主張して親としての義務を放棄する。子どもの権利条約は知る由もない。

 社会において、マス・メディアが更なる勢いを増し、そして更にインターネットの普及がこれに拍車をかける。報道の自由・表現の自由を楯に子どもたちにとって有害な暴力的シーンや性描写を発信し続けるのである。戦後の経済至上主義は、金儲けのために手段を選ばなくなってきている。求める者がいれば、それが倫理的に間違っていても供給する。これが、現在の利益優先主義経済の姿である。大量生産・大量消費はマス・メディアを介して皆と同じであることを助長し、皆と違うことを排除した。それは、大人の社会のみならず、子どもの社会にも及んだ。また、戦闘ゲームやタナゴッチに代表されるバーチャル・リアリティ(仮想現実)は、現実と非現実との境界を曖昧にしてしまう。女子高生の援助交際もまたブランド志向と相俟ってお金欲しさに消費社会に巻き込まれてしまった結果である。彼女らにとって援助交際は、非現実の世界であるので、何ら心の痛みを伴わない。現実と非現実の世界を区別できなくなったのは子どもたちだけではなく、大人も同じである。それはオーム真理教の事件でも明らかである。各人の自由が他人の自由を束縛して傷つけているのである。それは、自由ではなく利己主義なのである。

 皆と一緒であることが望まれる画一的社会、結果だけを重んじる競争社会、そして履き違えた自由が横行する経済至上主義社会では、このような疎外感を持った透明な存在の子どもや大人が社会に溢れているのである。
 このような社会でいいのだろうか。素晴らしい自由(?)が保障されるアメリカ社会では、夜安心して外出できないほど犯罪件数が多い。私は日本に非常に大きな危機感を抱いている。戦後、アメリカを追従してきた日本が良いところも悪いところも全て受け容れてきた結果である。今、この事件を機に、個人も家庭も地域も学校も企業も、そして国家も何が問題でどうすればいいのかを自分自身の問題として捉え考えてゆかねば、更に悪い結果へと突き進むことになるだろう。
 子どもも大人も透明な存在から抜け出すために、自己の確立を目指さなければならない。自分らしさとは、何かを考えなければならない。そして自分が自分自身であり続けるために生きてゆく必要があるだろう。
 そのためには、子どもも大人も、もっとゆとりある時間を持つ必要がある。知識も必要だろう。仕事をすることも必要だろう。しかし自己の確立もままならず、人生の目的も持てないまま周囲に流されてゆくことは自分自身の存在価値の否定にもなりかねない。私たちは自分自身を取り戻し家庭の中で、地域社会の中で共に新しい価値観を見出す努力をしなければならないだろう。自己の確立には、人と同じことを求めるのではなく、人と違うことに重要性を置くことが必要だろう。そして、いつも同じ集団の中で暮らすのではなく、たまにはひとりで旅をして別の価値観と接触してみることが有効と思われる。
 子どもたちには、情操教育がもっと必要だろう。他人の痛みを自分自身の痛みとして感じ、そして豊か感性を育むために。学校での心の教育は、今のカリキュラムのままでは、更なる多忙さで教師・生徒とも潰れてしまう。知識偏重の今のカリキュラムを思い切って見直す必要があろう。やはり新しい価値観の創造が必要である。家の周囲には車を気にしないで思い切り遊べる場が必要だろうし、動植物とのふれあいの場も、そしてお年寄りとの交流の場も必要だろう。家庭内では父親も母親も、朝食、夕食を一緒に食べられる団らんが欲しい。日曜日だけではなく、毎日の積み重ねが子どもの心の教育に必要だろう。そして母親のみや、父親のみではない両親の存在が強く求められるだろう。 この問題は、既に避けては通れない全ての人に共通の大きな社会問題となっている。今までと同じ生き方をしていたら何ら問題の解決とならない。一人ひとりが痛みを伴う問題となるだろう。会社において、家庭があるから馘になったらいけないと言って何も行動しないことは、直接的に、また間接的に子どもにこの事件と同じように影響を及ぼし続けることだろう。方法はいろいろあると思う。いじめっ子の周囲で黙認していることは、いじめっ子と同じ位、罪深いことであることを大人も再認識すべきである。
 透明な存在から抜け出す手段としては、他人のことを考える宗教や、利益追求をしないボランティアなどが考えられる。透明な存在である自分自身の居場所を各人が探さなければならない。心の拠り所は、各人に当然、必要なのである。
 この事件を少年の特異性として片付けずに、各人、自分自身の問題として捉え痛みを伴うかも知れないが、勇気を持って真剣に取り組まなければ、更なる混沌とした世の中になってしまうことだろう。

Copyright (C) 2003 森みつぐ    /// 更新:2003年8月3日 ///