夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> |
4.1.1.13 日本社会と自己の回復を考える |
1998年3月8日 森みつぐ
自分自身を見つけられない子どもや自分自身を失いかけている大人を取り巻く社会状況の中で、今後私を含めてどうそれを克服していったらいいかを考える。
<心の喪失>
戦後の凄まじいほどの経済復興によりもたらされた大量生産、大量消費の文化は、心に重きを置いてきた価値体系を破壊し、物に重きを置くような価値体系へと変化してきた。それは、右肩上がりでしか成り立つことが出来ない経済至上主義の顛末である。右肩上がりを維持するために企業は、利益・効率優先となり増産を企てる。一度走り出したランナーは、二度と振り返ることも止まることも許されないことに似ている。そこに、人間は不在なのである。労働者は、機械の一部となり肉体的、精神的な欠陥を持った物や長時間労働によって持つに至った物(中には、死に至った者や自ら長時間労働を拒否した者)は、排除されて新たな機械が補充される。長時間労働という多忙さ(但し、長時間労働と多忙とは同じことではない)は、人が人として成長するのに必要な時間を奪い、また、企業への忠誠心を培い労働者の自立心を阻害している。
当然、子どもたちにも、次の世代の機械として役割を演じてもらうため学校を通して多くのプレッシャーを掛けてくる。偏差値から内申書に判断基準が変わったとはいえ、点取りゲームであることには変わりがない。子どもたちは、頼れる人もなくいつもイラついている。
<子どもたちの変化>
人類が歩んできた過程で、友として、また食料としてイヌ、ウシなどを飼い品種改良してきた歴史がある。それは管理しやすいように囲いに入れ、人間にとって都合の良い個体だけを選択してきたのである。ところで人間はと言うと、定住化によりコンクリートで覆われた都市を創り、意識しているかどうかは別として家畜と同じような状態を作り出してきた。このことを生物学では、自己家畜化論という。
ネズミの過密状態を作り出して、病理的行動を記述した実験において子育て中の雌が子を放棄したり、若い雄が巣を壊して雌や子を襲ったり、順位を乱して交尾を行おうとしたりするほか、周辺の行動上の出来事と全く無関係の勝手にふるまって、肥育する個体、行動が不活発で意欲を失ったように見える個体などが出現するといった事例が挙げられている。
また、屋外に繋がれた庭イヌに比べて屋内でいつも人間と同じように暮らしている座敷イヌは、慢性胃炎、糖尿病や神経症でノイローゼ的になったりするとのことである。これを自己ペット化という(参考文献:ペット化する現代人[自己家畜化論から](小原秀雄・羽仁進著))現代の子どもたちは、座敷イヌに非常に似ている。
人間も元々は、ゆったりとした大自然の中で他の生物たちと共存共生してきたのである。行き過ぎた管理社会、行き過ぎた競争社会の中では、当然予期せぬ結果が待ち受けていることは確かなことと思われる。
子どもたちが自我に目覚める思春期は、自己本位であった自分に他者を受け容れることが出来る自分を創り上げることによって、自己を確立するという、人生にとって一番大切なときである。このときに、学校でも家庭でも良い子であることだけを求められ忙しい日々が続く。多くのことを悩むこのときに、教師も親も忙しくて、ただ子どもたちに要求を突き付けるだけである。それどころか教師も親も悩みに応えるだけのアイデンティティを持ち合わせていないのである。思春期は、攻撃性や性欲が高まる時期である。テレビ等のメディアの影響も多大であり、無意識の中に閉じ込められたストレスが些細なきっかけでキレて暴力的になるのである。
<不確かなアイデンティティ>
子どもたちは、このような不確かなアイデンティティのまま企業に入る。企業に入ると機械の一部として働かなければならない。機械に労働時間は関係ないし、ましてアイデンティティは不要である。企業は、労働者にアイデンティティを確立されないように、長時間労働を強いて会社人間になるように企業論理を植え付けマインドコントロールをする。
そのような状況で大人は、狭い思考と柔軟さを欠く考え方から脱却できないでいる。それどころか思考停止してしまった会社人間は、命令されないとどうしていいかさえも分からない。生きることは、自分で考え行動することである。そのような意味からも会社人間は、やはり機械の一部である。
アイデンティティを確立するためには、ゆとりを獲得することが最低限必要であると思う。
<ボランティア精神>
今まで述べてきたように、各個人のアイデンティティの確立と倫理観の確立が求められる。
しかし今は、情報が氾濫し、価値観の多様化を求められる中でアイデンティティを確立することは、非常に難しくなっている。このままだと、アメリカのような犯罪の多い不安定な社会になることが予想される。否、それ以上の不安定さになる恐れがある。何故ならばアメリカ人には、宗教心がありアイデンティティや倫理観の多くは、そこに由来しているからである。絶対的な心の支えを持っている強みである。しかし日本人は、その宗教心を持っている人は少ない。
そこで私は、ボランティア精神に期待している。他人との関わり合いの中で、共に生きるというボランティア精神は、アイデンティティや倫理観の確立に大きな役割を果たすと思われる。
<日本社会の改革>
右肩上がりの経済至上主義からの脱却が、必要である。労働者は、精神的にも肉体的にも更なるストレスを受けることになり、心の頽廃が進むであろう。当然それは、地域社会、家庭に及び学校にも及ぶ。科学技術は進歩し単純作業から開放されたとき、既に次の新しいテクノストレスに苛まれることになった。行き過ぎた資本主義経済は、売れれば何でも誰にでも売り、倫理観から外れて金儲けに奔走する。大量生産、大量諸費は、お金を持たない子どもたちまでも巻き添えにした。メディアが流し続ける情報は、アイデンティティをまだ確立していない子どもたちや大人には、非常に大きなインパクトを与える。
このように個人を取り巻く社会環境は、非常に変わってきた。ゆとりはなくなり、かつ私たちは誘惑的な商品に取り囲まれてゆく。個人の力では、もうどうしようもない時代に突入してしまった。社会システムそのものを見直し改革しなければ、抜本的対策にはならないだろうと思われる。
物に溢れた社会、物にアイデンティティを求める社会においては、各個人は自己中心主義的になる。
例えば、自動車は移動手段としては非常に便利で、かつ他人との煩わしい関係も少なくて済む。しかし何事も全て善いところばかりとは限らず、当然悪いところもある。自動車が日本の道を走り始めてから既に70万人以上の人が死んでいった。そして毎年15,000人(厚生省統計)に近い人の命が奪われてゆく。負傷者は、90万人に達する。そして、当然、多くの交通遺児が生まれている。このような実態を知っているのにも関わらずマイカーを運転するなんてことは、私にはできない。自分の欲求を満足させるために、これだけ大きな代償を払ってよいものだろうか。交通事故で身体障害者になっても、またマイカーを操る。私のは、どうしても割り切れない思いがある。まして最近、更なる大きな問題である地球温暖化問題も脚光を浴びてきているというのに。
私たちの生活も変える必要がある。便利だから、役に立つからではなく、真に良い物を選択する必要があろう。パソコンも携帯電話も、ただあったら便利だから役に立つからではなく、利用するマナーも含めて省エネ、バッテリなどの寿命品のリサイクル、また本当に必要かどうかを考えて選択しなければならない。物が溢れても心の豊かさにならないことは、既に皆が経験済みではないだろうか。阪神大震災の後、あるNGOの報告会に参加したとき、次のような話を聞いた。「あるマンションに住んでいたピアニストの女性が、数千万円掛けて部屋を飾り立てた次の日、地震にて全てを失ってしまって借金だけが残った。そして、その女性が言うには、“どんなものでも形あるものは、いつしか崩れ去ってしまう。これからは、違うものを追い求めてゆきたい”と。」
社会システムを変えることは、大きな困難が予想されることではあるが、これを避けて通れば日本には明るい未来がないと思われる。
<個人に出来ること>
倫理観、アイデンティティの確立、自己中心主義からの脱却には、まず各個人がゆとりを回復することである。他者の言いなりなり、忙しさに紛れて年齢を重ねてゆくことはたやすいことである。このように他力本願的な生き方をしていたら、いつまで経ってもアイデンティティは育たず、問題にぶつかったとき自分で解決する能力が備わらない。会社人間は、自分の言葉で表現することはできない。企業論理の枠内から出られないので、自分自身の言葉を持っていないのである。働くことは大事なことであるが、働き甲斐と生き甲斐とは同じではない。生き甲斐の一部が働き甲斐であり、働き甲斐を人生の目的だと思い込んだとき、その人の人生にとって大きなミスをしたことになる。企業は不況の時にはリストラをするし、また当然定年退職がある。このようなとき人生の目的が働き甲斐だけだとすれば、その人の人生はそこで終わってしまう。濡れ落ち葉となる。
そのようなことにならないためにも私たちは、正しく批判できる能力を養い、常に正義を持ち続け、ゆとりを回復するために、社会に、企業に訴え続けることが大切だろう。ゆとりの中から新たに仕事、趣味、出会い、自己実現(ボランティアなど)などの生き甲斐を見出してゆくことだろう。当然、大人(親)のこのような変化を子どもたちも肌で感じ、アイデンティティの確立によい影響を及ぼすことと思う。
<私を考える>
私は、仕事を人生の生き甲斐、人生の目的にしようと思って会社に入社した訳ではない。私にとって会社の仕事は、あくまでも生活をするための資金稼ぎでしかなく、仕事が人生の目的だなんて考えてもみなかった。趣味を持っていたため自分自身の時間を大切にしたかったのである。毎日遅くまで残業をしていたときは、時として思考停止していたときもあり、一般社会から乖離していたとも言える。ある時から残業を減らし、そして本当に必要と思われるとき以外は残業をしなくなってからは、自分自身のことや社会の諸々のことに関心が向くようになった。ボランティアもそのひとつである。いじめ、オヤジ狩り、援助交際などの子どもたちの変化は、大人社会の縮図であることを強く感じ、私たち大人が変わらない限り、子どもたちの明日はないと思ったのである。
私に出来ること、それはやはり趣味を通して行える地域社会への貢献である。私にとっての生き甲斐は、趣味である。しかし、趣味だけでは生き甲斐とはならない。人間は、他者との関わり合いの中で共に生きてゆく社会性動物なのである。私は、得意とする趣味を通して他者との関わり合いを持ち続けていきたいと思っている。
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Copyright (C) 2004 森みつぐ /// 更新:2004年3月7日 /// |