夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> |
4.1.1.2 昆虫採集と命の大切さ |
2000年6月10日 森みつぐ
子どもが動く物に興味を持つことは、生来の性質であり、その性質を大人になっても持ち続けることは、何も不思議なことではないどころか、何とも羨ましいことでしょう。また収集癖も多くの人に見られる生来の性質です。
とすると、動く物を収集するということがあっても、何ら不思議ではないのです。
動く物とは、文明が発達する以前は、動物だけでした。収集するということは保存しなければならないが、昆虫以外の動物は、保存するのが非常に難しそうだというのは想像がつくでしょう。そのような訳で、昆虫収集が興味の対象として幅を利かせていることは、不思議なことではないのです。
ここで、一つ問題になるのは、収集するためには採集して殺す必要があることです。自己満足のために、昆虫といえども命を奪っていいものだろうかと言うことです。この命題に対して、私は絶対良いとも、絶対悪いとも断言することはできません。ただこの命題を取り巻く幾つかの命題を考えることによって、ぼんやりと目的の命題が見えてくることを信じて考えてゆくことにします。
人は、雑食性の動物であるので、当然他の動物の肉を食べています。消費者の目に触れないところで動物が屠殺されているのです。でも、これは私たちが生きてゆくために必要なことなのでしょうが、現代の飽食をどう考えたら良いのでしょうか。
日本には、7000万台に上る車が走っています。車を走らすことによって、知らず知らずのうちに、多くの動物(主に昆虫)を事故死させています。車に乗って歩かない人たちは、余り気付いていないと思いますが、多くの動物(主に昆虫)が犠牲になっています。一番分かりやすい場所である郊外の舗装道路を歩いてみればよいでしょう。昆虫の死骸がいっぱい路傍に吹き溜まっているはずです。
庭の草木を育てるとき、虫が付かないようにと農薬を撒きませんか。芋虫や毛虫を見つけたらどうしますか。自分を中心に、また人間を中心に損得勘定で益虫、害虫に分けて殺していませんか。
昆虫も当然、連綿と続く食物連鎖の中で生きています。昆虫を退治する一番有効な手段は、草木に付いた虫を取り除くことではなくて、その草木自体を取り除けば完璧なのです。虫を捕っても、次から次へと他の場所からやってくることを覚えておいて下さい。
卵の世話をしない動物たちは、非常に数多くの卵を産卵します。魚の多くがそうであることは、既に知っている事実でしょう。昆虫の多くも同じです。病気で死ぬもの、他の動物に食べられてしまうもの、それらの数は、既に織り込み済みなのです。雌1匹が産む卵の中から、最悪雌雄1匹ずつが繁殖活動に貢献できればいいのです。食物連鎖の下位・生産者は、植物です。そのすぐ上位にくる第1次消費者は、多くの昆虫たちとなります。そして、その数は、私たちの目に付かなくても膨大な数です。植物だけを残して昆虫だけを駆除することは、非常に困難です。殺虫器具をいくら駆使しても、蚊、蠅、そしてゴキブリは、今日も颯爽と活動しているのです。
以上、いろいろと記してきましたが、昆虫は、緑の自然さえ残っていれば、昆虫採集ごときでは絶滅しないと言うことです。ところで、もう気付いた方がいるかと思いますが、この文章の初めには、昆虫と言えども命を奪っていいのかと書いていました。次に、この点についての私の考えを述べることにします。
まずは、大人と子どもに分けて考えてみましょう。
大人については、虐待・快楽を目的として昆虫を殺すことは問題だと思いますが、それ以外の目的で殺し(当然、殺さないで済むならば、それに越したことはありません)ときには、責任を持って行って下さい。”一寸の虫にも五分の魂”と云うように、昆虫は物ではありませんので殺した後も責任を持って処理や保管をすることが条件となります。研究を対象ならば、論文なりの発表が求められるでしょう。昆虫採集ならば、保管をしっかりしてデータ開示が求められるでしょう。昆虫の保管は、個人でもデータの開示によって公の意味合いが強くなるのです。
当然、このことは博物館などと同等の重要性を持つことになり、保管する人の責任は大となります。生き物を対象とする趣味は、当然対象物に対する責任が伴うものなのです。
次に、子どもの場合です。最初に記したように、昆虫に興味を持つことは自然なことであり、その昆虫から多くのことを学ぶことができるのです。今まで、自然の畏怖、畏敬の念、生命の驚異と脆さ、命の儚さや死を生身の人間を対象にして学ぶことが難しいため、昆虫を含めた自然を対象にして学んできているのです。最近、子どもたちに引き起こされている悲惨な事件は、具体的な生命(生)や死の概念の欠如ではないでしょうか。子どもから昆虫を奪わないで下さい。そして残虐な子どもを黙って見守ることもしないで下さい。残虐な行為をしたときには、(論理的に)叱ることが、更に大事なことなのです。叱らないようにと、最初からそう言うものから遠ざけていたら、子どもの心に何の芽も育たないまま、(年齢だけが)大人になって行くのです。最近は、大人になる前に泡が弾けたようにすぐ切れてしまうバブル犯罪が増えてきました。昆虫を含む自然は、感性豊かな心を育てます。そして情操教育のための良い教材を提供してくれるでしょう。
ちっぽけな昆虫の命だからと言って私は、命の大切さを否定するつもりは毛頭ありません。昆虫採集を通して他の人以上に、命の尊厳というものをより深く考えてきたつもりです。私の人生哲学は、ここに根差していると云っても過言ではありません。
最後に、昆虫採集をする上で注意すべき点は、狭い地域でしか生息していない希少種を必要以上にに採集したり、そこの地域の人たちに不快な思いをさせる大規模な採集をしないよう心掛けたいものです。
昆虫採集や命の大切さについての私の考えは、これが全てではありません。今でも、まだ考え続けています。今後も、この命題に対して、考えがまとまったら、また記載してゆくことにします。
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Copyright (C) 2001 森みつぐ /// 更新:2001年5月14日 /// |