夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標>
夢惑う世界4.1.1.5 車社会
2000年6月18日  森みつぐ

 年間1万人もの命が奪われ、100万人もの人が大なり小なりの障害を交通事故で受けている。あなたは、このような状態を、まともだと思いますか。私だけは、交通事故の心配がないと言えますか。交通ルールを守り、どんなに安全運転をしても事故は起こるのです。
 脇道から、突然飛び出してきた子どもを避けることができますか。いくら、子どもが交通ルールを守らなかったからと言って、命を奪っていいのですか。”私は、正しかった。”だけで済まされるのでしょうか。運転する前から、車の危険性は、分かっているはずです。多くの人を傷つけ命を奪う車を、便利だからと言って、無批判に乗り回していいのでしょうか。
 車は、確かに便利です。歩くより、自転車よりも疲れないし、雨の日も濡れないで済む。荷物もいっぱい運べるし、プライバシーも守られる。より早く、そして行動範囲も広がる。良いこと尽くしのようですが、本当にそうでしょうか。
 車は、不特定多数の人命を傷つけ、地球環境に多大な影響を与え続けています。尼崎公害訴訟も他人事ではありません。車は、子どもから遊び場であった生活道を奪い、行動を制限してしまった。交通弱者の大切な移動手段であった公共の乗り物は、マイカーが普及するにつれて減少し不便さが増してきました。
 車は、すっかり生活の中に定着してしまい、今や車による経済効果は莫大なものです。しかし、そのためにどれだけの犠牲を払えばいいのでしょうか。皆が車に乗っているからといって、お互い様では済まされない問題です。
 交通事故は、多くの障害者を生み出しています。後遺症で苦しんでいる障害者たちは、障害の実態に沿った福祉制度を求めます。障害者たちのオリンピックやスポーツ大会で活躍する多くの選手は、交通障害者たちです。精一杯頑張る姿は、美しいものであるのですが、交通事故の本質を見失わせ、根本的な解決を遠ざけてしまっています。交通事故を減らし、障害者を生み出さないことが重要なのです。
 高齢者や身障者にとって、車は非常に有効な移動手段ですが、溢れかえった車に急かされて難しい運転を迫られます。本当に、車が必要な人たちが安心して運転できるようにすることが求められるのです。免許証の交付は、あまりにも安直すぎます。人の命が、ドライバーの手に委ねられているというのに、マイカー・ドライバーは、素人なのです。人の命を奪って、その責任をとれるドライバーは、どれだけいるのでしょうか。あまりにも、安易に免許証は交付され、あまりにも安易に運転する。そして障害事故を起こしても、あまりにも軽い刑罰である。ここまで人の命が軽んじられていいものなのでしょうか。飲酒運転、スピード違反、騒音、駐車違反等々で交通ルールを軽んじた者は、免許証を即刻、取り上げるべきです。車が走っている限り事故はなくならないでしょうが、出来る限り事故は減らさなければなりません。不適格なドライバーは、運転する資格はありません。運転時の携帯電話は、危険であるが故に、法にて規制されているのに関わらず、相変わらず電話しながら片手で運転しているのを見かけます。あまりにも人の命を軽んじた運転であろうか。ゲーム感覚で運転する者に、運転させてはいけません。人の命は、何にも優るものなのです。
 また地球環境を守るために、環境税の導入が求められます。あまりにも車が大衆化してしまったため、環境に及ぼす、その影響は多大なものです。また有料道路も安易に値下げすべきではありません。日本は、車で溢れかえっています。少なくとも車の大衆化は、多くのものを犠牲にした上で、個人の欲望を成り立たせています。お互い様で成立しているこの悪循環の何処かを、または全てを狭める必要があります。今のままでは、命の大切さを問うことは、誰も出来なくなってしまいます。
 マイカーを減らすこと、そしてそれに伴って公共の乗り物の充実を計ることを望みたいものです。
 私は、人命尊重、環境保護の立場から免許証は持っていません。だからと言って、行動範囲が狭い訳ではありません。歩くことが基本になっているから、日本が車優先社会になっていることがよく分かります。そして多くの動物たちが、無惨に轢き殺されているのを見かけます。人権を蹂躙する車とは、いったい何物なのでしょうか。
 私は、最期まで車に操られることはないでしょう。

Copyright (C) 2001 森みつぐ    /// 更新:2001年5月14日 ///