夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 何故、傷つけ合うの<交通戦争>
夢惑う世界4.1.2.10-1 何故、傷つけ合うの<交通戦争>

2001年10月24日  森みつぐ

 昨日、薄暗くなり始めた雨の帰り道、大型バスが交差点近くの路肩に止まっていた。傘も差さず人がうろついていると思ってみていたら、一人がバイクを押しどけていた。そして、そのあと二人が一人の男性を足と腕を抱えて運んでいた。
 バイク、特にミニバイクの運転を見ていて、いつも感じるのだが事故が起きないのが不思議なくらいである。バイクが自転車と同じような感覚で道路を走っている。道路を走るくらいならば、まだましで追い越し車線のつもりで歩道を走る。左折も信号を無視して歩道を突き抜けてゆく。停止線も守らず自転車と同じように前方まで出てくる。
 お互いにこんな運転していたら、必ず事故は起きる。起きて、当然なのである。ルールを守らず、勝手に事故を起こして一人で怪我をするのみならず、なんの罪もない人まで巻き添いにする。とんでもない迷惑である。事故を起こしてからでは遅すぎる。こういう不適格なドライバーは、免許剥奪を行わなくてはならない。便利さと人命のシーソー・ゲームにしてはならないのである。


2001年12月29日  森みつぐ

ジンバブエ、ムタレ郊外の道路
住宅は、緑が濃くて見えませんが、
ちゃんと両脇に建っています。そして、電線は、地中。
ジンバブエ、ムタレ郊外の道路
 ジンバブエのそれなりに大きな都市であるムタレに泊まっていた。昆虫採集のため毎日、山に向かって歩くのだが、郊外をゆく道の景観の豊かさが、すっかり気に入ってしまった。道路は、2車線なのだが、その左右の歩道は、車道と段差がない状態で車道の半分の幅がある。そして更にその両側に大木の街路樹が、枝をいっぱいに広げて木陰を提供している。枝にとって邪魔となる電線はない。非常に豊かな道路景観である。
 それに比べて、日本の道路事情はなんと貧弱なことなのだろうか。歩行者は、車の走行を邪魔しないように、車の機嫌を取りながら歩かなくてはならない。本来は、逆である。車が歩行者の邪魔をしないように走行しなくてはならないのである。すっかり、あべこべになっている。車と歩行者の隙間をかい潜るように、自転車とバイクが走ってゆく。被害を受けるのは、いつも交通弱者の歩行者である。お年寄りが交通事故に遭うことが多い。歩くことにも、非常に大きな反射神経が求められるからである。スポーツ感覚で、ゲーム感覚で自転車やバイクを走らせる。お年寄りには、そのようなことには付いてゆけない。
 豊かな道路景観だからこそ、人は道に出て立ち止まり会話も弾む。生活の場としての道を、住民が取り戻すことがない限り、交通戦争に歯止めがかからないだろう。






2002年4月30日  森みつぐ

 朝、会社に行く途中でネコの死体を見た。こういうのは余り見たくないのだが、車のドライバーの運転マナーの低さは、これが現実である。ネコが人になっても、同じ事かも知れない。
 ネコを轢いたドライバーは、自分が轢いたことを分かっているはずである。“あ!轢いちゃった!”“あんたが飛び出してきたのよ!”と、全てネコのせいにして自分は悪くないと思い込む。轢いたネコのことは、“気持ち悪い!”位しか思っていない。このようなドライバーは、ネコから人に変わっても、何ら変わらないだろう。飛び出してきた子どもが悪いのであって、私は交通ルールを守っていたと。
 そもそも、車は凶器なのである。それが人間や他の生き物たちと同じ空間を移動していること自体が間違っている。
 例えば、ライオンと人間は、お互いに快適に生きるためには、ある程度距離を置く必要がある。同じように、車と人間も距離を置く必要がある。例えば、車は、地下を走らせればよい。そして最低限の公共の乗り物だけ、地上を走らせる。車と人間(他の生き物たちも)を隔離しない限り、一向に死体は減らない。
 最近、交通事故の罪が重くなっている。しかし、そんなことをしても、“あら!轢いちゃった!”が減るとは思えない。車人間に、陽の当たる場所を走らせてはいけない。根本的に交通ルールを変えない限り無理である。運転免許人口が、ほぼ100%の中では、妥協案以外の画期的なアイデアが出てくるとは思えない。そう言えば、以前見たネズミの死体から、腸がはみ出していたことを思い出してしまった。“ああ、イヤだ!!”


2002年4月30日  森みつぐ

 プエルトリコは、山の多いカリブ海の島である。西部の山奥にあるホテルに泊まったのだが、夕暮れ時になるとカエルの声と渓流の音が賑やかに聞こえてくる。
 渓流沿いの舗装道路を歩いていると、道端にぺっちゃんこになった物体が所々に落ちていた。よくよく見ているとその物体には手足が付いている。20〜30cmは優にあるカエルである。日本だとミミズや虫がいっぱい転がっているのだが、プエルトリコでは全く見かけない。その変わり、カエル、カニ、ネズミ、トカゲが車の餌食になっていた。
 そもそも車を運転する人は、歩くことがないからそんなこと知ったことではない。そこには、車という強者の論理でしか思考できなくなった運転者がいる。彼らは、もし弱者の視点に立ったとしても、この既得権を手放すはずがない。
 世界中で、どれ位の命が奪われているのだろうか。私には、知る術もない。


2002年7月7日  森みつぐ

 2〜3年前だと思うが、私の住んでいる地域に大きな駐車場ができた。平屋建ての古い賃貸住宅が建ち並んでいたところだった。駐車場前の2車線の道路には、丁度信号機のない横断歩道があった。私は、その横断歩道を渡って通勤している。
 ところがなんと、その駐車場は、出来上がると出入り口が横断歩道とかち合っていた。信じられない設計である。横断歩道を渡ろうとすると、駐車場から車が出てくる。“なんら、こいつ!”私は、そんな車を無視して横断歩道を渡る。どう考えても駐車場側が間違っている。私は、道路交通法は知らないが、違法行為としか思えなかった。車と睨めっこをしながら横断していたのだが、やがて出入り口の位置が変わった。
 最近この駐車場は、本当の出入り口でないところに、道路との段差に鉄板をひいて車が出入りし始めた。そこは、横断歩道ではないのだが鉄板の端が、今度歩行者や自転車にとっては段差になって、非常に危なかしく思えた。道路という公共の場に、鉄板という私的な物をはみ出させるのは、違法行為ではないのか。まして、人命に関わる危険性がある。強者になると、つい弱者の視点が欠けてしまう。そして便利さだけを追い求める。人間の愚かしい性である。程なく、その鉄板も撤去された。
 先週、新聞を読んでいると車道と歩道の段差解消プレートに接触して転倒し、車に撥ねられ死亡した事故に対して、プレート設置者が略式起訴された記事が載っていた。当然のことである。
 車の運転免許を持っていることが当たり前の時代になっても、移動の基本は歩くことである。その歩くことを遮るようなことは、人間を否定することになる。歩くのは、人間である。更に、運転するのも、人間である。人間が人間を否定し始めたとき、その人間は、自己の確立が出来なくなってしまう。便利さが考えることを抑制してしまっている。


2002年9月5日  森みつぐ

 8月も終わりのある日、山梨県のある山から下りてきた。山の上の方は涼しくて気持ちが良かったのだが、やはり麓まで来るとちょっと蒸し暑い。トンボたちは、すっかり成熟してトンボの季節になっていた。田圃では稲穂が、重たそうに頭を下げて刈り入れ時を待っているかのようであった。
 そんな風景の中を私はいつもの通り、何か虫さんはいないかと目配りを怠らずに、駅に向かって歩いていた。田圃の脇の細い水路には、小さな浮き草がびっしりと繁茂していた。“ああ!こんな浮き草みたいな人生もまた乙なもんかな?!”と思いながら歩いていたら、水路の中に青い尾っぽのトンボが浮かんでいた。“あれ!ひょっとするとギンヤンマじゃないの?”久し振りに見るギンヤンマの雄である。そして、まだ色褪せてない。今にも飛び立ちそうである。写真を撮ることも忘れて、水面から取り上げてみたら、なんと頭が首の皮1枚でぶら下がっていた。でも、まだ脚をばたつかせて生きている。“車にぶつかったんだ!口惜しいね!嫌だね!”
 貴重な命を持ち帰るために、腰を下ろしてバッグに仕舞い込んでいる間も、道路では、何事もなかったかのように車が勢いよく通り過ぎてゆく。西日が、ずっと背中をあぶり続けていた。私も昆虫採集で虫さんの命を奪っている。そう言う意味では、車も一緒である。しかし、私の場合は虫さんの命を奪うときには、しっかりと自分自身の胸の内にそれを刻み込ませている。しっかり意識の中にある。


2003年6月29日  森みつぐ

 新聞の片隅に、イランの交通事故についての記事が載っていた。記事はヘルメット未着用者の交通事故死についてであったが、そこには、イランの年間交通事故死者は約2万人と書いてあった。驚きの数字である。
 イランの人口は、日本の半分強である。ところが交通事故死は、2倍に達している。文明の象徴でもある車が、イスラム圏にも浸透している。そして、それは人の命よりも大切な物となっているのである。
 身近な人が交通事故で死んでも、マイカーは手放さない。自分の子が交通事故で命を絶たれたとしても、マイカーは手放さない。交通事故とマイカーは、全く無関係なことなのである。この無神経さ、身勝手さが、交通事故を更に複雑にしている。
 欲に衝き動かされ続ける人間の浅はかな行為は、死んでも治らないほどの強烈な物となってしまっている。
 年間、世界中で交通事故で死んでゆく人の数は、イラク戦争の戦死者どころではないはずである。その不条理さは戦争と何ら変わらない。人と人とが殺し合うことだと言うのに、一度得た特権を手放す人はいない。皆同じなのだからと自分だけ手放すなんて事はしない。この身勝手さが、社会そのものを根底から蝕んでいる。

Copyright (C) 2001-2002 森みつぐ    /// 更新:2002年10月6日 ///