夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 何故、傷つけ合うの<交通戦争> |
4.1.2.10-2 何故、傷つけ合うの<交通戦争> |
2003年7月24日 森みつぐ
久し振りにアメリカを歩いたのだが、やはり車の運転マナーがいい。日本では、道路を横断しようとして青信号を渡ろうとすると、それより先に渡ろうとする右折や左折の車が、急発進して歩行者の目の前を突き抜けてゆく。最低のマナー集団である。しかしアメリカでは、歩行者が通り過ぎるまで車は発進しない。それどころか歩行者の邪魔になりそうだと思うと、バックして道を開ける。日本みたいに、忙しく急発進しない。
日本との違いは、他にもあった。全く気付かなかったのだがよく思い起こしてみると、車のクラクションの音を聞いていないのである。日本の交差点では、人を急かすようにクラクションの音が鳴り響く。何とも切ない音である。しかし、ここに来て6日になるがクラクションの音を聞いていない。これは、凄いことである。
車は、生きるための単なる手段である。しかし、人は、それに振り回されて生きている。人間らしい生き方をするには、車とは何かを問わなくてはならないだろう。
2004年4月4日 森みつぐ
雨のザーザーと降り注ぐ中を歩道のない道路を歩いていると、車が脇を通り過ぎて、ザブンという音を立てながら、窪みに溜まった雨水を掛けてゆく。ごく当然のように、知らぬ振りして通り過ぎてゆく。
道路に降り注ぐ雨は、人々が通る脇道に溜まるように出来上がっている。削り取られた轍に雨水は、溜まるようにもなっている。車は、“仕方ないんじゃない”とばかり雨の日には、水飛沫を巻き上げて突っ走ってゆく。前を行く車も、後ろから付いてくる車も、皆同じなのだから仕方ないんじゃないと。悪路なのは、町が悪いんだ、国が悪いんだ、だから雨水がかかったからと云って私のせいにしないでよとばかり走ってゆく。
やはり車は私の信条には、そぐわない。自分の行為に、責任を持てない事を行おうとは思わないからである。人は、歩くときわざわざ水溜まりを走って雨水を撥ねようとは思わない。車だからと云って仕方ないで済まされることではないのである。気が付いたら、目の前に子どもがいた。私には、車を運転していたら、避ける自信なんてない。然からば、私は、運転しないことを選ぶ。
2005年9月30日 森みつぐ
最近、夕方のジョギングは、とっぷりと日が暮れた時間帯となってしまった。歩道を走っているのにも拘わらず、夜は非常に危険が高くなる。
外灯が灯っていても車のライトを受けて、前方がよく見えない。“ライトを下に向けてくれよ!”と思いながら走っていると、突然、目の前に自転車が出現する。無灯火の自転車である。前方から自転車がやってくるから、少し逸れて走ろうと思っていると、突然隣に現れた無灯火の自転車がぎりぎりに擦れ違ってゆく。狭い歩道を横2列になって走ってゆく。ライトを点けているのは、そのうち一台である。無法地帯と化した歩道は、昨今の日本社会を投影しているようだ。
また一台、片手に携帯電話を持った無灯火の自転車が、擦れ違ったことも気付かずに走ってゆく。
2005年10月28日 森みつぐ
今週も悲惨な交通事故が起こった。静岡市で歩道を歩く園児の列に、車が直撃したのである。今年は、この手の交通事故の報道をしばしば聞いたような気がする。
今回の事故は、突然飛び出してきた猫を避けようとして、気の優しい?運転手がハンドルを切り損ねてしまった結果のようである。無軌道上を走る車は、運転する人が正しかろうがそうでなかろうが、結果として軌道を逸れてしまうのは、当たり前のことである。また軌道上内に予期せね人が入り込んで来ることも、当たり前のことである。そもそも車は、運転する人が50%思い通りに制御できればいい方ではないのだろうか。人と車が同じ次元の中で移動するシステムが、間違っているのである。少なくても軌道上を走る鉄道以上の対策をしなくては事故は減らないだろう。交通事故を起こさない方が、不思議なのである。
そう言う意味では、今の交通システムは、年間数万人の人が死亡しても何の不思議でもない。そして、多くの人が車のもたらす恩恵を享受しているので、ちょっとした車の欠点?には目を瞑る。車関連の仕事に就いている数多くの人は、交通事故を非難しても車を間違っても非難することはない。経済優先の政府も、交通事故は眼中にない。それどころか、“環境に優しい車を!”と交通事故という車の問題を、環境問題で覆い隠してしまっている。
私は、自分で制御できない危険物を取り扱うつもりはないし、便利さを追求した生活を送るつもりもない。・・・・・もし、新聞やテレビで全ての交通事故を取り扱ったら、どうなる・・・??
2007年3月22日 森みつぐ
先日、大通りの歩道をジョギングしていたら、前方の生活道との交差点辺りで渋滞をしていた。その渋滞のところを通り抜けようとしたところ、ヘルメットを被った男性がじっとうずくまっていた。生活道から大通りに出ようとした車の側面に、ミニバイクがぶつかったみたいである。更にジョギングをしていると、サイレンを鳴らしながら、走って来た救急車と擦れ違った。
車が意外と多いのにも拘らず、信号機がない交差点である。そして片側は、高い塀で覆われていて、見通しが悪い。ジョギングをしていても、そこに来ると、少しスピードを落として、車を確認することにしている。危険な交差点である。
車が生活道から交通量の多い大通りに出るとき、余裕を持って出てくればいいのだが、殆どが左右の確認も程々に、すきあらばで飛び出してくる。従って、歩道を走ってくる自転車や車道の端を走るミニバイクなどは、運転手の視野に入り難いので、犠牲になることが多い。
ある確率で、事故は起きる。今は、それに加えモラル低下による事故が多発している。車と云う便利であると同時に凶器となる物を誰でも手にすることができるのだから、当然、その犠牲者は増えてゆく。
2007年5月17日 森みつぐ
先日、札幌で信号が青になったので横断歩道を渡った児童3人がトラックに撥ねられ重傷を負った。免許取立ての運転手は、トラックの運転に気を取られ、赤信号であることに気付いたものの"このままいける!"と考え、走り抜けて事故を起こしてしまった。
猫も杓子も車を運転する時代であるが、その内プロのドライバーと言える人は、どれ位いるのだろうか。本来ならば、車を運転する人は全て、飽くまで運転に関してのプロでなければならないはずなのだが、実際には、ほんの一握りのドライバーだけであろう。人の命を預かっているのにも拘らず、注意散漫な「ながら運転」が横行する。青信号が切り替わろうとすると、スピードを上げ、赤に変わっても、前の車のあとについて、無理矢理渡ろうとする。
便利さだけを追及する彼らは、交通ルールを都合よく解釈し、歩行者は視野に入って来ない。車は、銃と同じく凶器そのものであるのに、それを扱う者のモラル低下は、さらに悪化の一途を辿っていて悲惨な事故が絶えない。自らを律することができない者は、車を運転する資格があるとは、私には思えないのだが。
2007年8月26日 森みつぐ
一年前、福岡での飲酒運転により、3人の幼い命が絶たれた事故から、飲酒運転の厳罰化が進んできた。私も、その流れに異論はないのだが、ただ、飲酒どうのこうのと言う前に車の暴力的な面に関して人々は、余りにも寛容すぎるように思えてならないのである。
車は、温暖化ガスに代表される人間を含めた自然環境への弊害をもたらす機械、そして、飲酒運転に代表される危険運転のみならず、法に則った正しい運転をしていても、人と接触すれば命に関わる危険性を内在した機械であることである。私は、以上のような理由で、マイカーには乗らないことにしている。
マイカーを持たないことの不利益は大きい。何故ならば、今や、社会のシステムは、マイカーを前提に構築されている。それ故、地方の鉄道は廃線となり、郊外の大型ショッピングセンターにより、中心市街地は退廃してきた。残念ながら、マイカーを持たない者(弱者)の不利益は、マイカーを持つ者(強者)によってもたらされている。
現在の人間には突拍子もないことかも知れないが、マイカーを廃止することによって、社会はマイカー無しを前提に再構築され、地域社会も自然環境も人間同士のつながりも戻ってくるだろう。便利さ、豊かさの指標は、物ではなく、人を中心に測られ、新たな人生観が育まれるようになると、私は思っている。
2008年12月25日 森みつぐ
世界的景気後退によって、連日のように自動車の販売不振による非正規雇用者の首切りについて、各メディアが伝えている。特に日本は、自動車に関連した産業が多く、日本経済を支えている基盤産業だと言えるだろう。その自動車業界を襲った今回の不況の波は、日本そのものをも揺るがしている。
一方警視庁は昨日、12月23日に今年の交通事故による死者が5,000人を超えたと発表した。去年より10%以上少なくなっているとのことである。一時期、年間1万人以上の交通事故死があったのと比べると半減しているが、だからと言って少ないとは、私には、到底思えない。交通ルールを守る守らないとは関係なく、人が人を危めてしまう、人が人の命を奪ってしまうという物騒な物が巷に溢れていると言うことが私には、納得できない。私は、便利さと引き換えに、人の命を脅かすことをするつもりはない。
私は、今回の不況による自動車の減産は、今後、景気が回復しても増産して欲しいとは思っていない。特に、個人の便利さを追求したマイカーは、更に減って欲しいと思っている。自動車産業の縮小とともに、それを補う新しい産業が発展することを願っているのだが難しいことなのだろうか。車中心社会の弊害について、一人ひとりが現在の生活スタイルを含めて、考え直さなければならないときが来ている。
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