夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 何故、傷つけ合うの<交通戦争>
夢惑う世界4.1.2.10-4 何故、傷つけ合うの<交通戦争>

2016年4月6日  森みつぐ

 一昨日の新聞に、自宅の敷地内で1歳の女児が父親の車にはねられて死亡したという記事が社会面の隅っこに小さく載っていた。とても悲しい事故である。車は移動するための機械である。重くて硬いため動き出すとかなりの運動エネルギーとなる。生身の人間にとって車は、移動の手段であるとともに命を脅かす凶器と化すのである。
 人間と車が同じ次元の中で生活している限り交通事故は起こり、その結果、死傷者が出るのは避けることができないのが現実であろう。いくら交通事故を起こさないように慎重に運転していようとも、外的要因で事故が起きることを知りながら運転しているのである。車は凶器、事故は起こる、殺傷するかも知れない、それでも人は利便性に負けて運転する。皆も同じであると理由をつけて。
 幼児は車を危ないものだという認識はない。車を運転する限り、このような悲しい事故はなくなりはしないだろう。知らない訳ではない、分かっていない訳でもない、それでも車を運転し続ける。人が人を殺すことを容認する社会とは、どうゆうことなのだろう。私は、それを受け入れることは出来ない。


2016年5月4日  森みつぐ

 2日、稚内市で自宅庭で遊んでいた6歳の女児が、祖父の運転する自動車にひかれて死んでしまった。一月前にも同じような事故で、1歳の女児が死んでいる。とても悲しく憂鬱なニュースである。車は凶器であることを認識していても、人はそれを手放そうとはしない。麻薬と同じで、中毒症状そのものである。
 昨日は、神戸市三ノ宮で暴走した自動車にはねられ、5人が重軽傷を負った。運転する者が暴走するつもりがなくても、1分先何が起きるかなんて誰にも分からない。たびたび、自動車が店舗に突っ込むニュースが報じられる。アクセルとブレーキを踏み間違ったりする。車は、凶器である。少しのミスでも、大きな事故を誘発する。そして人を殺傷する。そのことを人は知っている。
 車の運転には免許が必要だが、猫も杓子も免許を取得できる。ほとんど意味のない免許制度である。凶器である車を運転するには、適性と思われない運転手がいっぱいいる。だが適正な運転手であろうとも、事故が起きる。それが、自動車である。そして人の命を奪う。


2016年8月3日  森みつぐ

 テレビで報道があったかどうか私は知らないが、今日の朝刊の地域面に、札幌市で「外出先から帰宅し、自宅前で家族を降ろして乗用車をバックさせたところ、後ろにいた男児をひいてしまった」という記事が載っていた。非常に痛ましい交通事故である。
 このように幼児がひかれるという事故は、私が知る限り今年だけでも、3件目である。男児が亡くなったのは事故から2日以上経っているので、交通事故死にカウントされないだろうが、明らかに交通事故死であろう。スピードがほとんど出ていなくても、圧倒的存在の凶器なのである。もしスピードを出していればフランスでテロに利用されたように、強力な殺傷能力を持った武器にもなることは周知のことであろう。
 便利だから、楽だからでマイカーを運転する限り、あってはならない人を殺すという危険をはらんでいることをもっと認識する必要があるだろう。経済優先、時は金なりで行動している限り、そのことによって失われる大切なものがあることを知るべきである。


2016年10月22日  森みつぐ

 気付いた時には、ベッドに横たわっていた。何がどうしたのかさっぱり分からない。体が痛い訳ではない。顔に手を持ってゆくと、眉から上と鼻にはシートが貼られていて、やはりどうなっているのか分からない。上はジャンパーを着て、下は厚手のジーンズのままである。ジャンパーの右肩は、破れている。ジーンズの右臀部も、見事に破れている。でも痛みは感じない。病院用意のパジャマに着替えるが、頭が朦朧としている訳でもない。でも、何があったのかこれっぽっちも覚えていない。
 意識が戻ったということだろう、早速、警察の方がベッド脇に来て、聞き取りを始めた。警察の方が事故現場で聞き取った内容を教えてくれたが、私は全く事故前から病院で意識が戻るまでのことは覚えていない。おふくろの所へ行く途中、おふくろの買物をスーパーでした。この先は覚えていないのでいつもの行動を書き記す。自転車に乗って事故に巻き込まれないように見晴らしの利く駐車場から車が少し多い片側1車線の道を車が途切れたところで反対車線の端まで移動して、排水溝の段差を気にしながら走っているところを、私の自転車の背後から勢いよく衝突し撥ね飛ばしたようである。背後からなので、この時点で強烈なむち打ち状態となり記憶がこの前で完全に途絶えてしまったのだろう。頭部をフロント・ガラスに打ち付け、前方に20mほど飛ばされてしまい、多分、半回転して右肩から右臀部にかけて、強くアスファルトに打ち付けられてしまったようである。靴の脱げた左足の踵も強打した。その後、アスファルト上を転がって、顔面や前頭部、手の甲を擦ってしまったようである。私を撥ねた車は、その後も車と接触し、そして別の車とぶつかって停止している。それを目撃していた人もいて、完全に車の方が悪いとのことだった。少なくとも私は、交通ルールに則って自転車に乗っているので、何も心配はしていない。頭部の挫傷と顔面の擦り傷で血だらけであったようである。脳神経外科の病院に搬送されて、頭部を9針、ホチキスの針のようなものを3つ処置されたようであるが、またこの時点のことは全く覚えていない。これらは、警察から聞いたことと体に生々しく残っている傷から推測した結果である。加害者は、脳の病気か、朦朧とした状態で運転していたようで、今も、元の状態に戻っていないようである。


2016年10月22日  森みつぐ

 今の自動車交通システムで事故が起きないという方が不思議なくらいで、起きて当然のことが私に襲いかかっただけのことである。どんなに注意をしていても、交通事故に遭ってしまう。真後ろから来たら、どうしようもないのである。多分、真正面から来ても自転車に乗っていたら、避けることは難しいと思われる。同一平面上を人も自転車も車も移動していたら、必ず事故が起きるに決まっている。そして必ず質量も大きくスピードも速い車が勝つに決まっている。私に車がぶつかったとき、頭部がフロント・ガラスではなく硬いフレームにでも当たっていたら、私はあの世に逝っていたかも知れない。また20m飛ばされた時、頭からアスファルトに叩きつけられいたら、同じように今頃こんなことを書いていられなかっただろう。私は、ただ運が良かっただけである。
 しかし、この事故で個人を恨んだりするつもりはない。問題は、問題の多い車社会のシステムにあると思っている。飲酒運転での死亡事故で、厳罰化が進んだ。厳罰化が進んだからといって、飲酒運転が無くなり事故が無くなる訳ではない。それほど自分で車を運転することのメリットが大きいのである。認知症の人による人身事故も、かなり話題なってきている。すっかり生活の必需品になってしまった車の運転免許証を返納させることは、かなり困難であろう。国として運転免許証の交付は、猫も杓子も取れる今と違って、運転技能や適性、そしてアルコール依存症や脳・心臓疾患など、運転に必要な適性を肉体的にも精神的にも合格ラインを厳しく設定して、交付する必要があろう。車は、強力な凶器だからである。楽だから、便利だからで今まで通りの運用だと、犠牲者はなくなりはしない。こんな楽で便利な車を、“私は事故を起こさないから大丈夫!”と思っている人が手放すはずがない。また国は、こんなに裾野の広い車産業に対して運転者に厳しい免許取得条件を設けるとは思えない。この問題は、“自分の身は、自分で守る”ということで銃の保持を認めているアメリカの銃社会と同じ根の深さを持った問題だと思っている。猫も杓子も銃を持てば、銃による犠牲者は後を絶たないだろう。私利私欲の最大化で、犠牲者を生み出してはならないのである。個人が変化することが望めない限り、これは、国が率先して安全を最優先した新しい交通に関するシステムを構築しなくてはならない。人の不幸の上に成り立っている自分の幸福というシステムに、私は参加するつもりはない。


2017年1月11日  森みつぐ

 「昨年の交通事故による全国の死者数は、前年より213人少ない3904人だったことが4日、警察庁のまとめでわかった。4000人を下回ったのは、1949年以来67年ぶりで、統計のある48年以降、過去3番目の少なさ。一方、65歳以上の高齢者の割合は、過去最悪の54.8%を占めた。高齢運転者の事故も相次ぐなか、同庁は対策に力を入れる。(読売新聞より)」
 4000人を下回ったからといって、交通事故による死者の数が少ないとは、全く私は思わない。一日当たり10人以上の人が、毎日亡くなっているのである。病気で死ぬのとは違う。人と人とが殺し合っているのである。戦争そのもの、交通戦争である。「交通事故全体の件数も、1981年以来35年ぶりの40万件台にとどまった。前年より3万7667件少ない49万9232件、負傷者数は前年より4万8092人少ない61万7931人と、12年連続で減少した。(読売新聞より)」とはいえ、年60万人以上の人が、この忌々しい交通戦争で負傷しているのである。
 “楽だから、便利だから”で運転するマイカーが路上から消えたら、どれだけ多くの交通事故が無くなるだろうか。マイカーが無くなれば、公共の乗り物も運送業者もどんなに運転しやすくなることやら。突然、命を絶たれることの理不尽さを知ることは、事故を起こしてからでは遅いのである。車が危険物であること、凶器であることを本当に理解して運転しているという人はどれだけいるのだろうか。


2017年2月22日  森みつぐ

 「12日午前10時50分頃、静岡県掛川市三俣の民家の敷地内で、この家に住む女児(1)が、同居する祖父の運転する乗用車にはねられ、頭を強く打って搬送先の病院で死亡した。掛川署の発表によると、祖父は外出しようと、車をバックさせた際、近くにいた女児(1)をはねたという。(読売新聞より(氏名未記載に変更))」
 また車による悲しい事故が起きた。女児(1)が祖父の運転する車に敷地内ではねられてしまったのである。車はスピードがなくても単に接触して押し倒されただけでも、相手には相当のダメージを与えることになるのである。ゆっくりでも車が動いているだけで、子どもは避けることは出来ないのである。転倒だけでも危険である。まして圧迫されたり、轢かれたら命取りになるだろう。
 車は、個人で操作できる最悪の凶器であろう。それをどれだけ認識してハンドルを握っているのだろうか。一瞬の目の逸らし、一瞬のハンドル操作ミス、一瞬の気の緩みの結果、人の命を奪うことになることをどれほど認識しているのだろうか。便利だから楽だからより大切な人の命を失うこともあり得るということをしっかり肝に銘じる必要があるだろう。


2017年10月11日  森みつぐ

 「損害保険大手4社が来年1月から自動車保険料を引き下げる。・・・(省略)・・・自動車の安全性能向上などに伴う交通事故の減少で、保険金の支払いが減った各社は収支が改善しており、保険料を見直すことにした。値下げするのは、個人が任意で加入する自動車保険。自動車の所有者に加入を義務づけている自動車損害賠償責任(自賠責)保険の保険料は今年4月、前年度比6.9%引き下げられた。(読売新聞より)」
 この記事を読んで、私は思った。物損事故の場合なら何とも思わないが、人身事故の場合は、被害者への慰謝料をもっと上げて補償を充実すべきであろうと。何の落ち度もない心身ともに大きなダメージを受けた被害者に対してそれ相当の慰謝料を保証するのと同時に、事故を起こした加害者への懲罰の意味を込めて多額な保険料とすべきであろうと私は思っている。
 マイカーは、自分の欲望を満たすための移動ツールである。自分の欲望のために、他人を傷付けたり命を奪ったりすることには、大きな責任と義務を負わなくてはならない。第二次大戦後、交通事故で死んだ人は、昨年までに63万人に上る。この数値は事故後24時間以内に死んだ人の数である。この事故が原因で1年以内に死んだ人は、1.3倍にもなる。これは死んだ人だけの数で、障害者は桁が違う。これらの数値を見て、何も感じられないならば、悲惨な交通事故は減らないだろう。


2017年12月31日  森みつぐ

 「野生動物の交通事故防げ」というタイトルで、次のような記事を見つけた。「交通事故は絶滅が心配される貴重な野生動物にとっても大きな脅威だ。沖縄県の西表島に生息する国の特別天然記念物イリオモテヤマネコの交通事故は昨年、過去最多の7件発生、7匹とも死んでしまった。長崎県対馬のツシマヤマネコも、16年度までの5年間で計42件の交通事故に巻き込まれている。…(省略)…沖縄本島北部に生息する飛べない鳥ヤンバルクイナは、マングースの駆除が進み、生息数は回復傾向にある。しかし、生息域の拡大に伴って交通事故も増え、10年以降、7年連続で30件以上の事故が起きている。(読売新聞より)」
 交通事故の犠牲になっているのは、人だけではない。野生動物は、当然、人間が作った交通ルールなんて知らない。ここで問題になるのは、交通ルールを守らない動物(人も含む)は、交通事故の犠牲になって、当然なのだろうかということである。ボールを追って子どもが、突然、道路に飛び出したからといって車に轢かれていいのだろうか、仕方のないことなのだろうか。“急ぐから、楽だから”と私利私欲で他人の人権や自由を奪っていいものなのだろうか。
 私は、自然の中も街中も良く歩くので犬・猫を始め、野生動物の死体をよく見かける。そして豊かな自然の中を貫く幹線道路には、それ以上に、路傍には吹き溜まった虫さんたちの死骸を見るのである。ドライバーたちは、全く虫さんたちを蹴散らかしながら走っているという認識はないだろう。車を利用する人たちは知らないだろうが、犠牲となる虫さんたちの数は、夥しいものである。ただ強風や雨、また死骸を食べる小動物や虫さんたちによって、恰も何もなかったようになってしまっているのである。たまには、そういうところを自分の足で歩いて、何か感じ取って欲しいものである。


2018年3月21日  森みつぐ

 「米配車サービス大手ウーバーテクノロジーズが18日、米アリゾナ州の公道で自動運転車の走行実験を行った際、歩行者がはねられて死亡した。米メディアは、自動運転車で歩行者が亡くなった初の事故と報じている。(読売新聞より)」
 凶器の車と人間が同じ空間で動き回っている限り、事故が起きることは当たり前のことである。交通事故死が“0”になるなんて、有り得ないことであろう。今回の事故は、歩行者が突然、車道に飛び出してきたとの報道もある。車搭載のセンサーの性能や車自体の応答速度にも限界があるだろうから、事故が起きても不思議ではない。突然、物影から飛び出してきた子どもを避けることは、自動運転でも無理であろう。車の後ろで遊んでいる子どもを感知できるのだろうか。死角が全くないとは思えない。事故が起きれば、当然、歩行者や自転車の方が被害を受けることになる。
 確かに自動運転が普及すれば、交通事故は減ることだろう。ただセンサーでは検知できない道路状況(凍結や局部的な凸凹など)によって、安定走行は期待できないし、思いもよらない走行をする可能性も否定できないだろう。交通事故死“0”なんて、あまり大きな期待はしない方がいい。車は凶器であるということを忘れてはならない。

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