夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標> 心のグラデーション
夢惑う世界4.1.2.6−1 心のグラデーション

2001年6月17日  森みつぐ

 大阪市池田市の小学校を突然襲った児童殺傷事件のニュースは、昼食時に舞い込んできた。全てがこれから始まる子どもたち8人を、次々に死の淵へと突き落としていった。いとも簡単に、消されてしまった赫き充ち溢れていた命の灯火。忘れてはならない出来事として、いつまでも心の片隅にしまい込んでおかなくてはならないだろう。
 事件当時における容疑者の精神状態(?)が問われている最中なのだが、私なりに語らずにはいられない。
 現在、精神的に弱い部分を持っている人間にとっては、多分大多数の人間にとっては、益々生きづらい世の中になってきたように思われる。社会そのものが金儲けの能力という色にすっかり染め上げられ、人間の価値そのものまでが、その能力の有無で判断されるようになってしまった。能力至上主義、競争至上主義、自己責任と個人への心の負担要因が増え続けている。全世界的なグローバル化は、先陣を行く先進国の経済優位性を保つための戦略である。多くの人々は、実感できぬセーフティネットに絡まれてもがき苦しむだろう。その中には、余りにも繊細な心の持ち主もいることだろう。また、このような社会の中で自己を確立できないまま、振り回されて生きている人たちもいるだろう。精神的錯乱は、ストレスの大きさに比例すると思われる。”いや、そんなことはない。”と言えるだろうか。もしくは、私の考えが、余りにも悲観的と言えるだろうか。
 もう二度と、このような事件は起こって欲しくない。


2001年6月23日  森みつぐ

 司法制度改革審議会は、先週、一般国民が重大な刑事事件の裁判に加わる「裁判員制度」等を骨子とした最終意見書を提出した。
 法曹人口の増加は、非常に長期間に亘る審理期間の短縮や権利意識の高揚に貢献するだろう。特に、人権を抑圧されている労働者にとっては、御用組合化してしまった労組に頼らなくても、個人で企業と対等な立場で争うことが容易になってくる。泣き寝入りすることはない。過労死することもない。まして、自殺に追い込まれることはないのである。大いに利用すべきである。
 最終意見書で、やはり気になったのは、裁判員制度である。選挙人名簿から無作為に抽出された一般国民が裁判官と対等に審理を行い、有罪・無罪を決め、量刑も判断するという制度である。NHKなどで、アメリカでの報告例を度々見たことがあるが、いつもそれに対して疑問を持っていた。裁判官は、高度で専門的な法的知識を有することはもとより、幅広い教養と豊かな人間性を基礎に十分な職業倫理を身に付けているのである。どうして、そのような裁判官と対等に審理が行えるのだろうか。まして、有罪や量刑まで。法について全くの素人が、人(被告人)を裁く行為ができるのだろうか。少なくても私は、中庸の立場を保ちながら人を裁くなんていう行為はできない。私は、人の上に立つほど偉くないし、人の上に立とうという気も、さらさら持ってない。もしそのようなことをしたら、一生良心の呵責に苛まれることになる。もし、私に出来ることがあるとしたら審理の中で私としての意見を述べることだけである。裁判を、素人感覚でやられては迷惑である。
 分かりにくい司法用語、信頼を失いかけている法曹の復権を狙っているのなら、方法は別にある。まして、司法が裁判員の社会常識に期待しているとしたら、大きな間違いに陥るだろう。社会一般の常識全てが、倫理的に正しい方向性を示しているとは思えないからである。その方向性を示すのは、本来、裁判官の仕事である。本末転倒になってはいけない。


2001年7月4日  森みつぐ

 先日、「高齢化社会と老人介護」という演題で、老人ホーム施設長の講話を聴いた。ボケについて、「定年退職後の生き方が、問題である。」「趣味を持とうと思っても、定年後に持つことは難しい。」と言っていた。「会社人間は、必ずボケる。」とも。
 私の知っている労組では、定年間近に迫った人たちに、定年後に備えてどう生きるかの勉強会を開いていたが、既に機を逸していたことは、端から見ていても明白なように思えた。入社したときに、社会の中で、どう生きて自己実現してゆくかを問わないで、定年間近でそれを問うのは、既に会社人間が骨の髄まで染み込んでいる人たちに、今更である。会社に滅私奉公して貰うには、経営側も、労組側も入社時社会に対する刺激を与えず、深夜まで働かせて神経麻痺させるのが一番である。定年間近になって、経営側も、労組側も労働者に対して精一杯社会教育したと云う辻褄合わせだけを行う。もしくは、最近では、自己責任だと云って、全ての責任を転嫁する。その結果は、定年後ボケとなり、社会への負担を増すことになる。最初から最後まで、生真面目な労働者は、割に合わない。
 私は、幸運であった。物心が付いたときには、虫が好きで、そのまま大人になってしまったからである。趣味は、私の大事な宝である。誰にも、邪魔はさせない。今まで生きてきて感じることは、趣味を人生の途中から身につけることは、非常に難しいことのようである。少なくても子どものように無邪気になれない人には、無理かも知れない。とすると、会社人間には、無理としか云いようがない。やはり仕事人間には、ボケが待っていそうだ。
 仕事人間=定年後ボケを解消するには、どうしたらいいのだろうか。結論として、一人ひとりが自分自身の問題として問題意識を持ち続けるしかないみたいだ。そして、趣味として身に付かなくても、その努力を続けよう。定年後ボケないためにではなく、夢ある人生を生きるために。


2001年12月17日  森みつぐ

 今年もいろいろあったが、多くのことが米国同時テロに集約される。
 私たちは、急ぎ過ぎている。お金を得ることにも、移動することにも、幸せになることにも。便利さの追求は、極限に至ってきている。
 きりがない。歩いていた人は、そのうち自転車の乗る。そして、更に便利な自動車に変わる。歩くよりも速く移動できるのにも関わらず、歩行者を妨害までして先を急ぐ。歩行者に道を譲っても、すぐ追い越すスピードを手にいれているのにも関わらず。きりがない。
 私利私欲は、自分のみならず他人をも不幸にする。今や企業も、組織であるのにも関わらず公ではなく私として振る舞う。私利私欲のためなら従業員を解雇して、賃金の安い国外に生産拠点を移す。挙げ句の果てに、安い物を日本で売って、国内産業にダメージを負わせる。
 経済至上主義は、安寧を求める人々を、多数を占める貧しい人々を苦しみ続ける。宗教への冒涜も意図しなくても、結果として行われる。欲望というパンドラの箱を開け放ち、選択は個人の責任のもとでと、社会秩序を根本からばらばらにした。
 自由至上主義は、結果として人々から心の拠り所を奪った。絶対的価値観を得ることもなく人々の心は彷徨い、自由の名のもとで全ての行為が許される。しかし、いつも人々の心の中は、虚ろのままだった。絶対的なものを持てないまま自己を確立できない人々は、最後は、物や肩書きにしがみつき怯えながら暮らしている。
 競争至上主義は、人々の心にダメージを負わせ、心の安らぎは、更に遠ざかる一方である。全ての絆が弱まってゆくのは、金に物言わせて人々を束縛し続ける企業の際限ない競争のせいである。弱肉強食は、野生動物の世界である。人間は、そこから一歩歩み出たはずだったのだが、結局、進化する以前に逆戻りした。共存共栄は、人間の長い歴史の中で培ってきた生き方である。しかし経済の発展と共に、いびつな競争が激化し、そして個人レベルに落ちてきた。全力走も持久走も、人を疲弊させる。明らかに彼らを取り巻く家庭も、子どもも疲弊してきている。共生することができなくなってきた。
 人々は、何処へ向かっているのだろうか。忘れてきたものを、もう一度後戻りしてでも見つめ直したい。心のゆくえが見えてくるかも知れないから。


2001年12月29日  森みつぐ

 もういつ頃からかは、忘れてしまった。テレビの電源を切らなくても、いつの間にか大きな音と共に画面が明るい点となってしぼんでしまうのである。私の意志を反映して電源がオフしてくれればいいのだが、そんな筈がない。もともと私は、ながら族である。虫の整理をしながら、テレビを聴いている。鉛筆を持ちながら、最近ではパソコンに向かいながら、テレビを聴いている。そして時々、テレビに目を遣る。だからドラマは、観ていても映像は切れ切れにインプットされるだけで、連続した映像にならなく、そのうち理解できなくなってくる。そんな訳で、ニュースなどを聴いているのが常である。
 1年以上前から我慢していると思う。数時間に一度だけなら我慢できるが、そのサイクルは、徐々に短くなってきた。何処まで我慢できるかテレビに試されているみたいなものだ。丁度いいところで、ぷっちんと切れるのは体に悪くなってきた。こちらが、ぷっちんきそうになってくる。そのうち、一度切れると、すぐには電源が入らなくなってしまった。電源をオンすると、すぐに切れてしまう。こういうときは、10分以上待って、電源を入れる。そのうち、画面が消えている時間の方が長くなってきた。11月の冬を迎える前に、とうとう限界に達した。まだ10年ちょっとしか経ってないと言うのに。
 このテレビの前の初代の14インチのテレビを捨てないで持っていたので、また現役に復帰して貰った。21インチから14インチに変わっても、違和感はない。それにリモコン操作ではないが、何ら生活に支障はない。質素なのがいい。
 そもそも私は、利便性を追求した生活をしていないので必要最低限の電化製品しか持っていない。結局、受け身の電化製品は、それだけでは片手落ちなのである。受けたものを、創造発展させて別の形で活かしていくことが肝心である。そう言う意味で、私の一番新しい電化製品は、1年以上前に買ったパソコンである。
 そう言えば、パソコンを使い始めた時期とテレビが癇癪を起こし始めた時期は、偶然にも一致していたかも知れない。

Copyright (C) 2001-2002 森みつぐ    /// 更新:2002年3月3日 ///