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【邪馬台国=大和朝廷論((殯(もがり)が邪馬台国と日本書紀を繋げる)】

邪馬台国=大和朝廷論
                                      日本会議愛知県本部事務局 松川秀康


邪馬台国とは、三国志の中の魏の国のパートである「魏書」第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、いわゆる「魏志倭人伝」の中に出てくる日本列島にあったとされる国である。最近では教科書でも大きく取り上げられているらしいが、たかだか中国の歴史書に出てくるだけのものを載せる必要があるのでしょうか。日本の正史である「古事記」「日本書紀」には登場しない「邪馬台国」や「卑弥呼」、いったい魏志倭人伝は誰から何を聞いて何を伝えようとしているのでしょうか。

まず「邪馬台国」の読み方について素朴な疑問があります。魏志倭人伝の中で卑弥呼の後継者として登場する。「台与」これは通説では「トヨ」と発音します。そう、「台」を「ト」と発音しているのです。では何故、「邪馬台国」は「ヤマトコク」でなくて「ヤマタイコク」なのでしょう。「ヤマトコク」と読めば自然に邪馬台国は大和朝廷のことなんだというところから推論が始まります。そうさせたくないうがった研究者たちの意図を感じるのは私だけでしょうか。

次に邪馬台国はどこにあったのかという諸説です。北九州説と畿内説。北九州説の前提となるのが、大和朝廷には属さない国が北九州にあって魏と外交を行ったと考える説です。卑弥呼が魏暦の景初二年(西暦二三八年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送ったとされる頃には大和朝廷の勢力は北九州には及んでいなかったと考えています。

では畿内説ではどうでしょうか。畿内説は当然畿内に邪馬台国があったと考えますから邪馬台国は大和朝廷のことなんだろうと考えているのでしょう。でも何故日本書紀の記述についてあわせて考えることをしないのでしょうか。日本書紀では西暦二三八年は第十四代仲哀天皇が崩御あそばされて三十八年後の年にあたります。

実は日本書紀には「邪馬台国」「卑弥呼」は登場しなくても大陸についての記述はあるのです。
神功皇后の御代「三十九年、この年太歳己未。−−魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。(中略)四十年、−−魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。四十三年、−−魏志にいう。正始四年、倭王はまたその使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。」(中略)六十六年に「この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。」(日本書紀全現代語訳)とあります。朝鮮半島を制した後、大陸に使者を送っていることを大陸の文献を引用して記しているのです。

またウィキペディアからの引用文を以下に記述します。
日本書紀の記載について概説する。仲哀八(西暦一九九)年九月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ、現在の福岡博多にあった奴国)の香椎宮を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌二〇〇年二月、筑紫の香椎宮で崩じた。皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。夫の仲哀天皇の急死(西暦二〇〇年)後、神功皇后が西暦二〇〇年から二六九年まで政事を執り行なった。仲哀九(西暦二〇〇)年三月一日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。(引用終わり)

そうです、日本書紀では西暦二三八年のころは神功皇后が三韓征伐をおこなって朝鮮半島を制圧した後、三十年以上経過した頃なのです。三韓征伐については、高句麗の第十九代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である好太王碑に記載のある倭国との戦争がそれにあたるというのが通説のようです。しかし、好太王碑に記載のある倭国との戦争があったのは西暦四〇四年です。日本書紀ではその時代は神功皇后の皇曾孫第十七代履中天皇の時代です。日本書紀の履中天皇のパートには大軍を擁して朝鮮半島にわたり新羅とそれを支援する高句麗と戦争をした記述がありません。碑文が偽っているのでしょうか?年代の錯誤でしょうか?いやいやそうとは言い切れません。

その頃、朝鮮半島南部には任那日本府が存在したからです。前方後円墳もたくさん見つかっています。高句麗から言わせればその頃半島南部は倭国であったのです。つまり好太王碑に登場する高句麗と倭国との戦は任那日本府との戦と考えるのが妥当です。当然天皇への報告はあったでしょうが、日本書紀に登場しない理由は、大船団を編成したわけでもなく常々戦乱が絶えない朝鮮半島での百済、任那日本府連合軍と新羅、高句麗連合軍との戦は記載するに値しない程度のものと考えられていたとしてもおかしくありません。好太王碑では倭が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させたとあり、三韓征伐では新羅に加え高句麗・百済も朝貢を約したあります。まったく正反対です。いくら朝鮮半島をうそつきと疑いたくてもいささか無理があります。つまり好太王碑と三韓征伐とは無関係と考えたほうがよさそうです。

仲哀天皇が崩御あそばされた後、神功皇后はお腹に応神天皇を身籠りになられたまま朝鮮半島にご出征になり、新羅・高句麗・百済に朝貢を約させるのです。お帰りになってから応神天皇をお産みになりますから、期間にすれば二年にも満たないでしょう。三韓征伐の日本列島側の拠点となったのが香椎宮ですから、馬や食料、補給品は現地調達するとしても何百隻の大船団を編成して鎧や武器を積んで海を渡るための準備をしたことでしょう。国を挙げての戦争です。そのとき大和朝廷は九州北部に巨大な軍事拠点を構えていたと考えるのが自然です。三韓征伐後もしばらくは半島情勢を伺うため九州北部の軍事拠点は必要であったでしょう。

そうなのです。邪馬台国は大和朝廷の九州北部の軍事拠点であり、畿内の大和朝廷そのものでもあったのです。三韓征伐により朝鮮半島南部に任那という日本国の拠点を築き、その後、百済とは友好関係を結びます。しかし、新羅と百済は敵対して新羅には高句麗が、百済には任那日本府と本国の大和朝廷がついて対立が続きます。実際に日本書紀の神功皇后、応神天皇、仁徳天皇のそれぞれの御代でも新羅が朝貢しなかったから攻めて懲らしめたことが記載されています。

しかしとうとう第二十九代欽明天皇の御代、西暦五六二年には新羅により任那は滅ぼされ、第三十八代天智天皇の御代、西暦六六三年、白村江の戦いで百済、日本連合軍は新羅、唐の連合軍に大敗を喫し、百済は滅亡してしまいます。この日本書紀の記述を素直に信じたほうが自然ではないでしょうか。

さて、邪馬台国が大和朝廷であれば卑弥呼はいったい誰なのでしょうか。やはり神功皇后であるとするのが自然であるとおもいます。西暦二三八年以降、邪馬台国(大和朝廷)が魏に使者を送ります。その使者は、神功皇后のことをどのように呼ぶでしょうか。神功皇后は仲哀天皇と同じ漢風諡号であり、奈良時代後期、淡海三船が持統天皇までをいっぺんに名付けたものです。神功皇后の本名は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)です。でもそれは口にすることは恐れ多い諱(いみな)であるため、使者にはとても口にすることはできません。では何とお呼びしたのでしょう。そのころは漢語ではなく大和言葉を使っていたでしょうから、「おきさきさま」「ひめさま」「ひめみこ」などでしょう。そうです、「ひめみこ」は日本書紀などではおなじみの言葉です。内親王、女王、皇女などには「ひめみこ」の振り仮名がつきます。神功皇后のお父上である息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)は第九代開化天皇の玄孫ですから神功皇后を幼少のころから知っている者であれば「ひめみこ」と呼んでも不自然ではありません。他国に使者を送るときには当然ながら神功皇后の信任厚い人材が選ばれるわけですから、神功皇后の幼いころからお側に仕えた側近が選ばれるのは不思議ではありません。魏の役人からしたら当時応神天皇ご即位前、神功皇后が政治を行っていたわけですから、邪馬台国の王は「ひめみこ」と認識し、「卑弥呼(ひみこ)」と記述したのでしょう。そう考えるのが自然ではないでしょうか。

大陸に使者を送っても相手が無礼な態度で応じるため日本書紀には参考程度の記載しかしなかったと考えられます。日本書紀編纂時ですから西暦七〇〇年ころです。大陸の晋の歴史書を参考文献として記載しているわけです。武帝の泰初二年は西暦二六六年ですから編纂時から遡って四四〇年前のことです。現代から見れば四四〇年前は戦国時代です。いろいろな文献(「帝紀」、「旧辞」それ以外の政府、地方の記録)を見ながら日本書紀を編纂しているわけです。そして大陸の記録も参考にするわけです。それほど極端な年代錯誤があろうはずがありません。

日本書紀の年代については日本国の正史でありますから、これを正しいものとするべきでしょう。しかしながら、古代の天皇の長寿については疑問を持つ方も多くいると思います。私もそのうちの一人です。しかし、嘘とは思いません。春秋年といって、古代には春分の日、秋分の日にそれぞれ一歳ずつ年齢を重ねていく年齢の数え方をしているという説があります。しかし百四十三歳で崩御あそばされた仁徳天皇以前全ての天皇にこの春秋年を採用してしまうと神功皇后が魏に使者を送った西暦二三八年には、神功皇后はまだお生まれになっていないことになってしまいます。仲哀天皇、神功皇后にも春秋年は採用せず、成務天皇以前に春秋年は使われていたと考えた方が都合がよいわけです。

でも皇紀を年表にしてよく見てみるとそれほど不思議なことではないのです。仲哀天皇が崩御あそばされたのが五十三歳、そのとき神功皇后は三十歳、翌年応神天皇がお生まれになります。三韓征伐の後、神功皇后が政務をお執りになり、神功皇后が崩御あそばされるのが百歳、そのとき応神天皇は六十九歳です。その後、応神天皇がご即位あそばされます。神功皇后の百歳、現代においても大変な長寿です。現実的ではないのでしょうか。いえいえ、少しも不思議ではないのです。

古代人の死因は、疫病、感染症が主なものです。そのため乳幼児の死亡率も非常に高く、若くして亡くなることもよくありました。そのため平均年齢で見れば現代と比較して非常に寿命は短かったことは事実です。しかし、人間の寿命のポテンシャルについてはこの何千年でほとんど変わっていないはずです。事実、日本書紀の次の正史である続日本紀には、折につけ百歳を超えたもの、九十歳を超えたもの、八十歳を超えたものそれぞれに天皇から物が下賜されています。満百歳を超えた人はちゃんといたわけです。古代人には、現代のような成人病は少なかったはずです。食べ物も質素で規則正しい生活をしていて運がよければ長生きはできたのです。特に、毎日民のために祈り、質素で規則正しい生活をむねとし、常に身を清めている天皇であれば長寿であることは不思議ではないと思います。

神宮皇后は百歳で崩御あそばされます。応神天皇のご即位は六十九歳のときです。応神天皇は百十歳で崩御あそばされます。仁徳天皇のご即位は五十六歳のときです。そして仁徳天皇が百四十三歳で崩御あそばされます。そのとき履中天皇は六十三歳です。ここで百四十三歳というのは、さすがに疑いたくなってしまいます。
一方日本書紀に非常に興味深い記述があります。
講談社学術文庫の日本書紀全現代語訳から抜粋します。

反正天皇 瑞歯別天皇(はんぜいてんのう みつはわけのすめらみこと)
(中略)
六年春三月、履中天皇が亡くなられた。
元年春一月二日、瑞歯別天皇が即位された。
(中略)
五年春一月二十三日、天皇は正殿で崩御された。(抜粋終わり)

その後、一年の空位を経て允恭天皇が即位します。

引き続き日本書紀全現代語訳から抜粋します。

允恭天皇 雄朝津間稚子宿禰天皇(いんぎょうてんのう おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)
(中略)
五年秋七月十四日、地震があった。これより先に葛城襲津彦の孫玉田宿禰に命ぜられて、反正天皇の殯(もがり)を任じられた。
(中略)
冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬った。(抜粋終わり)

反正天皇はご即位の後、五年に崩御あそばし、その後允恭天皇がご即位し、五年後に陵に葬られています。お隠れになってから陵に葬られるまでの間に殯(もがり)の期間があるのです。

殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。(ウィキペディアより)

反正天皇は六年間あまりの殯を経て埋葬されているのです。

それでは仁徳天皇の場合はどうなのでしょうか。
仁徳天皇は「民のかまど」のお話にもありますように非常な仁政を敷かれ多くのご事績があります。反正天皇より長期間の殯の期間があって当然に思われます。

日本書紀全現代語訳から抜粋します。

仁徳天皇 大鷦鷯天皇(にんとくてんのう おおさざきのすめらみこと)
(中略)
八十七年春一月十六日、天皇は崩御された。
冬十月七日、百舌鳥野陵に葬った。(抜粋終わり)

崩御あそばされて九ヶ月で陵に葬られたことになっています。
殯の期間が九ヶ月とは信じがたいことです。「崩御」の定義が違うのではないかと疑いたくなります。

更に遡って日本書紀全現代語訳から抜粋。

六十七年冬十月五日、河内の石津原においでになり、陵地を定められた。
十八日に陵を築いた。(抜粋終わり)

皆さんご存知の通り、仁徳天皇陵は世界最大の古墳として有名です。墳丘長は四八六メートルです。当然ながら日本の古墳の大きさランキングの第一位です。第二位が仁徳天皇のお父上の応神天皇陵で墳丘長が四二五メートルです。仁徳天皇自らお父上の陵より大きな陵をお築きになるでしょうか。この文には「天皇が」の主語がありません。このとき仁徳天皇は既にお隠れになっていて殯の期間ではなかったのでしょうか。ご即位前の履中天皇が仁徳天皇陵をお定めになったのではないかと考えられます。

再び遡り日本書紀全現代語訳から抜粋。

六十二年夏五月、(中略)この年、額田大中彦皇子が、つげに猟に行かれた。山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、廬(いお)の形であった。使者に調べさせると、帰って来て「窟(むろ)です」という。それで闘鶏稲置大山主をよんで問われ、「あの野中にあるのは何の窟だ」と。「氷室です」という。皇子は「その蔵めた様子はどんなのか、また何に使うのか」と。「土を掘ること一丈あまり、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取りその上に置きます。夏を越しても消えません。暑い時に水酒にひたして使います」と皇子はその氷を持ってきて御所に奉られた。天皇はお喜びになった。これ以後師走になる毎に、必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばった。(抜粋終わり)

氷室の運用が開始されたことが記されています。氷は何に使われたのでしょうか。飲食物を冷やしたのでしょうか。病人の熱を冷ましたのでしょうか。それらも考えられますが。実は仁徳天皇のご遺体の腐敗を遅らせる目的でなかったのではないでしょうか。「天皇はお喜びになった。」とあるが、ご遺体の腐敗が遅れることを下々が喜んだとも考えられます。

また更に遡り日本書紀全現代語訳から抜粋。

六十年冬十月、(中略)天皇は詔して、「この陵はもとから空であった。それでその陵守をやめさせようと思って、始めて徭役にあてた。いまこの不思議を見ると、はなはだ畏れ多い。陵守は動かしてはならない」と。(抜粋終わり)

ここでの記述はしっかりと「天皇が詔」したと記載があるためそれを疑うことはしません。しかし「氷室」の運用がもし仁徳天皇のご遺体の腐敗進行防止のためであれば、お隠れになったのは仁徳天皇の御代六十一年前後であり、陵に葬られるまで二十六年の殯の期間があったことになります。反正天皇の殯の六年と比較して妥当性のある長さではないでしょうか。殯が二十六年であればお隠れになった年齢は満一一七歳前後となります。だいぶん現実的ではないでしょうか。

さて、次に履中天皇です。

日本書紀全現代語訳から抜粋します。

履中天皇 去来穂別天皇(りちゅうてんのう いざほわけのすめらみこと)
去来穂別天皇は仁徳天皇の第一皇子である。母は磐之媛命という。葛城襲津彦の女である。仁徳天皇の三十一年春一月、立って皇太子となられた。年十五。
(中略)
六年春一月六日(中略)
三月十五日、天皇は病気になられて、身体の不調から臭みが増してきた。稚桜宮で崩御された。年七十。
冬十月四日、百舌鳥耳原陵に葬った。(抜粋終わり)

ここでも崩御から陵への本葬までが七ヶ月しかありません。しかも「臭みが増してきた」というのも不自然ではないでしょうか。すでに殯の期間中であったと考えられます。履中天皇の場合、立太子と崩御の年齢が記載されています。履中天皇六年に七十歳で履中天皇がお隠れになったとすると、皇紀の年表を遡っていくと仁徳天皇三十一年では履中天皇は八歳となります。十五歳とは七年の開きがあります。実は履中天皇はお隠れになってから七年の殯の期間を経ているのではないでしょうか。そうすると日本書紀では履中天皇の御代は六年ですからご即位あそばされたときには既にお隠れになっていたこととなりますが、仁徳天皇の御代八十七年の終わり二十年間は何もご事績がありませんから、そこでご即位前の履中天皇のご事績をご即位後のこととして記載された可能性もあります。履中天皇陵は仁徳天皇陵、応神天皇陵に続いて三番目に大きな御陵です。おそらく早い時期より仁徳天皇を補佐し、仁徳天皇の殯の期間、二十年以上にわたり仁政をおしきになったと思われます。

神功皇后、応神天皇、履中天皇は日本書紀に崩御の年齢が記されていて仁徳天皇は記されていません。皇紀の年表上では仁徳天皇の御代は仁徳天皇が百四十三歳まで続くこととなっていますが、実は二十六年の殯の期間が存在したと考えた方が妥当性があります。神功皇后は百歳、応神天皇は百十歳、仁徳天皇は百十七歳でお隠れになったと考えれば不自然さはありません。邪馬台国=大和朝廷、卑弥呼=神功皇后であることの信憑性が増したのではないでしょうか。

応神天皇以前の天皇の日本書紀において立太子の年号とご年齢、お隠れになった年と陵に本葬された時期をさかのぼって列挙します。



応神天皇は立太子が神功皇后摂政三年、年齢記載無し

その御代四十一年春二月十五日に崩御され、百十歳、陵に本葬の記載無し。

神功皇后は立太子無し

その御代六十九年夏四月十七日に崩御され、百歳、六ヵ月後に陵に本葬。

仲哀天皇は立太子が成務天皇四十八年、三十一歳

その御代九年春二月五日に崩御され、五十二歳、三十四ヵ月後に陵に本葬。

成務天皇は立太子が景行天皇四十六年、二十四歳

その御代六十年夏六月十一日に崩御され、百七歳、十五ヵ月後に陵に本葬。

景行天皇は立太子が垂仁天皇三十七年、二十一歳

その御代六十年冬十一月七日に崩御され、百六歳、二十五ヶ月後に陵に本葬。

垂仁天皇は立太子の年号記載無し、二十四歳

その御代九十九年秋七月一日に崩御され、百四十歳、五ヵ月後に陵に本葬。

崇神天皇は立太子の年号記載無し、十九歳

その御代六十八年冬十二月五日に崩御され、百二十歳、九ヵ月後に陵に本葬。

開化天皇は立太子が孝元天皇二十二年、十六歳

その御代六十年夏四月九日に崩御され、年齢記載無し、六ヵ月後に陵に本葬。

孝元天皇は立太子が孝霊天皇三十六年、十九歳

その御代五十七年秋九月二日に崩御され、年齢記載無し、五十二ヵ月後に陵に本葬。

孝霊天皇は立太子が孝安天皇七十六年、年齢記載無し

その御代七十六年春二月八日に崩御され、年齢記載無し、八十ヵ月後に陵に本葬。

孝安天皇は立太子が孝昭天皇六十八年、年齢記載無し

その御代百二年春一月九日に崩御され、年齢記載無し、八ヵ月後に陵に本葬。

孝昭天皇は立太子が懿徳天皇二十二年、年齢記載無し

その御代八十三年秋八月五日に崩御され、年齢記載無し、四百六十一ヶ月後に陵に本葬。

懿徳天皇は立太子が安寧天皇十一年、十六歳

その御代三十四年秋九月八日に崩御され、年齢記載無し、十三ヵ月後に陵に本葬。

安寧天皇は立太子が綏靖天皇二十五年、二十一歳

その御代三十八年冬十二月六日に崩御され、五十七歳、八ヵ月後に陵に本葬。

綏靖天皇は立太子の記載無し

その御代三十三年夏五月に崩御され、八十四歳、十七ヵ月後に陵に本葬。

神武天皇はその御代七十六年春三月十一日に崩御され、百二十七歳、十八ヶ月後に陵に本葬。

神の祟りで突然お隠れになった仲哀天皇は、殯の記載があるので三年弱の殯を経て本葬されたことがわかります。その他の天皇の記述には殯の記載がありません。それは何を意味するのでしょうか。

崩御から本葬まで短くて六ヶ月、長くて四百六十一ヶ月(三十八年五ヶ月)とあまりにも差がありすぎます。日本書紀の原文では「崩」の一文字で表されている天皇の「死」は心配停止を指しているのでしょうか。


違うような気がします。殯という仮葬の状態で、完全に白骨化した時点で「崩」としているのではないでしょうか。いえいえ、白骨化した後も残された方々の気持ちの整理がつくまでは殯は続いていたかもしれません。

殯の期間にお亡くなりになった玉体を安置した建物を「殯宮(もがりのみや)」と呼ぶのですから殯の期間もその天皇の御代としてカウントされたとしても不思議でありません。

そうです、古代の天皇の長寿は殯の期間もその御代としてカウントされていたからなのです。


殯の終了が宣言されて、その後の本葬までの期間に差があってもそれはそれぞれの事情があるかもしれません。殯の期間に差があり過ぎるのには違和感があります。差があったとしても短くて数年、長くて二十数年くらいの差ではないでしょうか。すると仁徳天皇同様、不自然な長寿はなくなります。春秋年という考え方を使わなくても説明がつきます。魏志倭人伝にも倭の国の人は「長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。」という記載があるくらいですから。


しかし、日本書紀に立太子の年号とその時のご年齢について記載があるのですが、皇紀の年表と照らし合わせて整合が取れるのは仲哀天皇だけでそれ以前の天皇では整合性がありません。やはり春秋年も含めて分析する必要がありそうです。

那珂通世説が採用された皇紀元年が西暦紀元前六百六十年であるとする年表では允恭天皇は仁徳天皇が百十九歳のときにお生まれになったこととなっています。しかし、允恭天皇四十二年にお隠れになった允恭天皇の殯期間が三十年あったとして、その殯期間が允恭天皇の御代四十二年に含まれているとすれば、なおかつ允恭天皇のお隠れになった年齢七十八歳には殯期間が含まれていないとすれば、允恭天皇がお生まれになったのは仁徳天皇が八十九歳のときとなりだいぶん現実味を帯びてきます。

先に仁徳天皇の殯が二十六年、履中天皇の殯が七年、反正天皇の殯が六年と書きました。反正天皇の殯については日本書紀にその記載があり、崩御から陵に葬られるまでの期間が六年あると記されているところから類推しています。では何故允恭天皇の殯を三十年としたのか。それは、允恭天皇の次の御代が息子の安康天皇であるからです。第十七代履中天皇、第十八代反正天皇、第十九代允恭天皇は兄弟です。兄の殯と父の殯どちらが長くなるでしょうか。当然父の殯であるはずです。履中天皇の父であり、多くのご立派な御事績がおありになる仁徳天皇の殯は実は五十年くらいあったのかもしれません。そうすると仁徳天皇がお隠れになったのは九十三歳くらいとなり更に現実味を帯びてきます。五十年の殯の期間中履中天皇が摂政されていたら履中天皇陵の大きさにも納得がいきます。

応神天皇、神功皇后の殯もそれぞれ三十年あったとすれば、応神天皇がお隠れになったのが八十歳、神功皇后がお隠れになったのが七十歳となり、これまた非常に現実味を帯びてきます。そうすると神功皇后がお隠れになったのが西暦二三九年となり、魏志倭人伝に登場してくる卑弥呼から台与へ世代交代した時期と非常に近くなってきます。さらに、ウィキペディアに非常に瞠目すべき記載がありました。神功皇后の妹に豊姫という方がいらっしゃるということです。これには、「肥前国風土記の神名帳頭注より」という注釈がありました。どなたか詳しい情報をお持ちの方は是非教えていただきたいと思います。魏志倭人伝には「正始八年(西暦二四七年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、百人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり千余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で十三歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。(ウィキペディアより)」とあります。ここでいう「王」とは政治の「王」ではないのです。政治の「王」は応神天皇です。ここでいう「王」は「斎王」のような神に仕えるものであると考えれば納得がいきます。神功皇后の殯が二十一年であればお隠れになったのが西暦二四七年となります。ますます、卑弥呼→ヒメミコ→神功皇后が現実味を帯びてきます。

更に乗り越えなければ大きな壁があります。仲哀天皇がお生まれになった年と日本武尊がお隠れになった年が整合しないのです。那珂通世年表では仲哀天皇がお生まれになったのが景行天皇がお隠れになった後、十六年経過した年となってしまいます。そこで、春秋年の考え方を採用する必要が出てきます。年数の数え方を春分の日、秋分の日と一年に二回年をとるという考え方です。大陸文化との交流が発生する三韓征伐後の日本は年や年齢の数え方を春秋年から今の数え方に変えたと考えると仲哀天皇の記録は三韓征伐後でしょうから今の数え方、成務天皇以前は春秋年の数え方とします。するとどうでしょう。成務天皇がお隠れになったのが五十三歳でその御世が三十年、景行天皇がお隠れになったのが五十四歳でその御代が三十年と半分になります。そして仲哀天皇がお生まれになったのが景行天皇が四十一歳のとき、その御代十七年目のこととなります。日本武尊と完全に重なります。このように成務天皇以前を全て御代と年齢を半分にしていくと神武天皇の橿原でのご即位は西暦紀元前二三三年頃となります。もしそうであれば、今年は皇紀二二四八年位となります。


平成二十七年六月二十一日